120話「嘘つき」後編
塔に駆け込むと、イツキさんが待ち構えていた。偶然を装ってはいるものの、私の様子を見るために待っていたのだろう。気遣いはありがたいが、今は礼を述べる余裕はない。
「ん? 案外早かったな。本調子じゃねぇんだからあんまり走るなよ……って、おい、聞いてんのか?」
イツキさんの忠告もそこそこに、階段を駆け上がる。重たくなる足を無理やりに持ち上げ、礼央様の部屋の前までやってくると、息を整えてから話を切り出した。
「礼央様」
声をかけるが、返答はない。聖女関係者から聞いた限り、ここ数日の礼央様は食事以外では部屋に篭りがちで、安否確認のため部屋に向かうと、密かに真央が現れていたことが何度かあったという。
昼食は過ぎて、夕飯には早い時間帯のため、部屋にいるものとばかり思っていたものの、外に出ているのだろうか。
そんなことを考えたとき、扉の向こうから思いのほか近い声が聞こえてきた。
「お互いの部屋で話しましょうよ」
扉のすぐ向こうにいるのだろう。だが決して外に出てくる気はないようで、礼央様は扉を挟んだままでこう続けた。
「顔、見えない方が楽なこともあるでしょうし」
礼央様の平坦な声からは、彼の感情を読み取ることはできない。隠していた事実を知ってからの一週間、彼が何を思って過ごしていたのかも。
「……しかし、魔具もない中でどうすれば」
「そこは異世界知識の出番ってやつですよ。騙されたと思って、ほら」
半ば縋るような思いで尋ねるが、何でもないように部屋へと促されてしまった。まだ話を聞く意思があるだけいいということなのだろうかと思いつつ、自室に入ると、礼央様の部屋とを隔てる壁に、小さな穴が空いていることに気付いた。高さは私の腰より少し低く、大きさは人の指が一本ようやく通るかというほど。そしてそこからは、糸に繋がれた筒のようなものがぶら下がっている。
壁際に歩み寄り、その筒のようなものをよく見ると、筒の向こうが紙で塞がれており、円柱状の器になっていることに気付いた。
「声、聞こえます?」
穴越しに声をかけられ、しゃがみ込んでから穴の向こうを覗き込む。すると礼央様も、同じようにこちらを覗き込んでいた。
しかし、今は顔を合わせたくないのか、すぐさま顔を離してしまう。それから私が何かを言うより先に、穴に通された糸が引かれた。
「壁に通したこれ、使い方分かりますか? 糸の先にくっついてるやつに耳を当てたり口を当てたりして話すんです。糸電話っていうんですよ。こういうときはアナログが最強ですよね」
「礼央様……」
「糸、しっかり伸ばさないと声が届かないので、もうちょっと部屋の端まで行ってください」
あくまで穴越しの会話はしないということか、礼央様はそれだけ言い残し、もう片方の糸電話を持って距離を取った。
少しずつ糸が短くなっていくそれを眺め、やがて私も壁から離れて反対側にあるベッドに腰を下ろす。穴の位置が妙に低かったのも、こうしてどこかに座った状態で話せるようにという配慮からだったようだ。こちらを気遣ってのことなのだろうか。それとも単に、彼もまた立ち話が辛かったのかもしれない。
『聞こえます?』
「ええ……案外、鮮明に聞こえるものなのですね」
糸を介して声を伝えるという仕組みなのだろう。単純だが確かに有用だ。顔を見て話す口実が失われるという以外は。
とはいえ、私がやるべきことは変わらない。一週間ぶりのやり取りによる前置きは脇に置いて、早速本題に入ることにした。
「……何故、私の姿でイーザックの前に現れたのですか?」
責める口調にならないように、しかし誤魔化しは効かないことを示すように、声色を意識しながら尋ねる。
すると礼央様は、全く悪びれる様子もなくそれに応じた。
『友達が倒れたって知ったら、イーザックさんの方が卒倒しますよ。心配かけたら悪いと思って』
「それなら、適当な理由を伝えていただく手もあったはずです。車椅子で現れたのは、心配をかけまいとしたのではなく、身長を誤魔化すためでしょう」
『いくら俺が嘘をつき慣れてるからって、イーザックさんにまで嘘つかせないでくださいよ。今さら一個も百個も変わりませんけどね』
礼央様の口調は軽かったが、それと同時にどこか痛々しい。まるで何もかも諦めているかのような声だった。
一個も百個も変わらないと思っているからこそ、イーザックに対しても騙すような手段を取ったのだろうか。
私にそのことを責める資格はないものの、ここで追及しないわけにもいかない。今回の戦争のきっかけについて、礼央様の誤解を解くためには、まず彼がその事実を知っていると確定させる必要があるのだ。
「イーザックから、何か聞き出しましたか」
『別に何も。ちょっと世間話しただけですよ。世間の情勢は悪化中ですから、ろくな話じゃありませんでしたけど』
少し踏み込んだことを尋ねるが、遠回しな回答しか得られなかった。肯定とも否定とも取れる答えだ。
この調子では埒が空かないと思い、ひとまずここは肯定として受け取り、話を進めることにする。
「……礼央様、何か誤解をなさっているかもしれませんが、開戦前に聖女と生き神の交換を断ったからと言って、戦争の責任が礼央様にあるというわけでは」
『分かってますよ。原因と責任は別って、お披露目パーティーのときにイーザックさんが言ってました。今回もそういう話ですよね』
礼央様が口にしたのは、確かにイーザックが言いそうな理屈だった。だが、毒殺未遂と戦争では規模が違いすぎる。割り切れているなら、このような手段を用いて話す必要はないはずなのだ。
相変わらず乾いた声で、礼央様は続けた。
『イーザックさんって、優しいなりに正直なんですよ。あの毒殺未遂事件も、今回の戦争も、俺の責任とは言わないまでも、俺が原因ってことは隠しませんでした。結局、俺がいなければ起きなかったってことに変わりはないんです』
冷静で、的確で、あまりにも容赦がない分析だった。事実を見つめるというより、変わらない現実を何度も確かめて、そのたび見えない刃を自分に突き刺しているかのような。
取り返しのつかない過去があるとき、人は自分の中に敵を見る。それ故、どこまでも残酷になれるのだ。
『戦争って、聖女がいたから治安が良くなったとか、食料の供給が安定したとか、そういういい面を全部相殺して有り余るものですよね。そろそろ聖女ってだけで有益なものって思い込むの、やめたらどうです?』
冷たく問われ、考える。もし本当に、聖女の召喚に失敗していたとしたら、もし礼央様に聖女の力がなかったら、どうなっていただろう。
聖女不在による諸問題は悪化の一途を辿り、束の間実現した平和な日々は絵空事となる。だが、それでもしこの戦争も起きないのだとしたら、それはどちらが幸せなのだろう。この世界に生きる人々にとって、何より礼央様にとって。
取り返しがつかない世界で、間違えたことだけを知っている。やり直せることなら最初からやり直すべきなのだ。戦争が起きる前から、礼央様がこの世界に来る前から、もっと前、先代聖女が殺される前から。
いくつも選択を間違えた先に今がある。過ちは取り返せず、選択を違えた自分に刃を突き立て続ける日々だった。今回のこれも、いずれ過去の過ちとして、私を貫く刃の一つとなるのだろう。それでも、今は壁を隔てた目の前に、同じく自身に刃を突き刺す誰かがいる。
私は間違えた。言いつけを破り、選択を違えた。許されるべきでも、許すべきでもないと知っている。
だがその過ちの先で、誰かが私と同じように自分を責め続けているのだとしたら、それもきっと正しいことではないのだろう。今ならまだ、ほんの少しでも取り返せる過ちがある。そう判断した私は、今の私にできる最良の選択をした。
「……今回の戦争は、確かにネロトリアに『聖女』がいたから起きたものです」
礼央様の言葉をあえて否定せず、過去をそのままに話を進める。過去は覆らないと、私たちは何度も確認して思い知ったのだ。今さらそれを変えようとは思わない。
だが、今と未来は、まだ改善の余地を残している。彼が必死で正しい道を探り、守り抜いたものなのだから。
一呼吸置いて、諭すように言葉を続けた。吐き出すものが、少しでも正しい道に沿っていることを願って。
「しかし礼央様がいなければ、戦争はいつまでも続いたでしょう。聖女が例外なく停戦のために動くとは限りません。礼央様がいたから、この戦争は今、少しずつ終わりへと向かっているのです」
思わず声に熱が籠る。どうか伝わってくれという願いが半分、心からの本音であるからこそという理由が半分だった。
ネロトリア十三代目聖女が礼央様でなくとも、ネロトリアに「聖女」がいれば、いずれ戦争は起きただろう。だが、ネロトリアに呼ばれた聖女が「宇佐神礼央」でなければ、きっとこの戦争は止まらなかったはずだ。
だが、私からの言葉は虚しい慰めに聞こえたのか、礼央様の声はやはり暗いものだった。
『皆がそう思ってるとは限りませんよ。戦場を何も知らない餓鬼が、戯言抜かしてると思う人だっています』
「それこそ戯言です。そのような言葉、私が全て捩じ伏せてご覧に入れましょう。私がいなくともイーザックが、イーザックがいなくともフランツェスカが……」
『……ネ……ん、よく……ないです』
急に壁越しの声になったそれを聞き、手元の糸電話を見やる。つい前のめりになっていたせいで、それまでぴんと張っていた糸が緩んでいたようだ。案外繊細なそれを再び手前に引き、張り直してから言い直す。
「礼央様に害をなす者から、きっと私が、そうでなくとも必ず誰かが、礼央様をお守りするため立ち上がります」
強い口調で言い放ったそれは、信頼というよりも確信だった。
まずは礼央様の命令を受け、命に替えない程度に守ると誓った私が。
私がいなければ、そのときは礼央様の危うさに肝を冷やしているイーザックが。
イーザックがいなければ、そのときは若き聖女を見守り支えようとするフランツェスカが。
フランツェスカがいなければ、そのときはユーリアさんが、ハナさんが、ノーラさんが、あるいはアレクサンドラ様を始めとした聖女関係者が、彼の味方として駆けつけるだろう。
この世界に来て、彼は家族も友人も、何もかもから引き離された。だが、彼が懸命に足掻いた日々は、再び彼の周りに彼の味方を増やしてきたのだ。
「礼央様、それが貴方様の為したことなのです。貴方様の行動が、決して貴方様を孤独にしません」
そう言い切ったのち、長い沈黙が流れる。また糸が緩んでいたのかと思う頃になって、礼央様が唐突に、別の話題を振ってきた。
『……戦争が終わったら、何したいですか?』
脈絡のない問いだったが、過去より未来に目を向けられるようになったということは、多少気持ちが上を向いたということでいいのだろうか。
そのことに内心安堵しつつ、素直な答えを返す。
「少なくとも私は、するべきことの方が多いかと」
『それはそうでしょうけど、何か楽しみがあった方がいいじゃないですか。俺、この戦争が終わったら結婚するんだ、とか』
「……婚約者をご希望なのですか?」
『そんなわけないじゃないですか。例え話ですよ。頑張る動機がほしいんです』
予想外の言葉に、思わず尋ね返すと、礼央様は少し不満げに訂正してきた。
私がどれだけ言葉を尽くし、礼央様を励ましたとしても、国へ帰れば容赦のない現実が彼を襲うだろう。聖騎士団内外からの心ない声や戦争の現状、そのたび戦争のきっかけとなったという事実が彼にのしかかる。そうしたものをやり過ごすには、確かに言葉以外の励みが必要なのかもしれない。
「では、礼央様は何を?」
『俺は……前みたいに、街に行きたいですね。復興が進んだ頃になるので、それこそ早くて数年後でしょうけど』
未来の楽しみを話し始めると、礼央様の声が少し上向くのが分かった。いつだったか、共に街へ出かけたときも、彼は年相応にはしゃいでいたように思う。聖女として様々な責務に追われる彼にも、いっとき聖女という立場を忘れる時間が必要なのだろう。
『聖女ってバレるといろいろ大変なので、変装とかして、お忍びで行きましょうよ。普通の人みたいに過ごすんです。屋台によって、店でご飯食べて、騒がしい中で声を張り上げて、何でもない話をして』
礼央様の口ぶりは、まるで私も同行することを前提としているかのようだ。同行者については明言していないため、私以外の聖騎士である可能性も否めないが──などと考えていると、礼央様の声が不意に仮定の話から私への向けられた。
『そういう、普通の友達みたいなこと。一緒にしてくれますか?』
弾んだ声は明らかに私を向いていて、壁越しには見えないと理解しながらも、淡い笑みを浮かべて頷く。
「ええ。お付き合いいたします」
『…………』
不意に降りた沈黙に、また聞こえなかったのだろうかという懸念が首をもたげるが、ややあって礼央様は何事もなかったかのように話を続けた。
『あとは、他の国にも行ってみたいですね。コルトリカは亜人が多くて、多種族の文化が入り混じって面白いんだそうです」
「ええ。独特の雰囲気で、目新しいものも多くありました」
『ユーデルヤードは自然が豊かで、人間より精霊とかエルフの方が多いって聞きました。俺が行って大丈夫なのかとは思いますけど』
「私も同行しますので、私たちが滞在している間は、国中から精霊の姿が消えるかもしれません」
『シノノメは俺の故郷に似てるって話ですけど、妖怪とかがその辺にいるってところは違うので、ちょっとおとぎ話の世界みたいで楽しいかもしれません』
「妖怪については私も明るくありませんので、イツキさんに伺いましょう。危険がないといいのですが」
他国への旅の話を聞きながら、はしゃぐ礼央様を思い浮かべて微笑ましく思ったり、逃げ帰る精霊たちを浮かべて苦笑いをこぼしたり、絶対に襲ってくる危険を思い胃を痛めたり。
そんな風に、取り戻した平和な世界の話をしていると、礼央様に少し真面目な声で名前を呼ばれた。
『アンネさん』
「何でしょう」
『 』
それに応えると、告げられたのは一つの問い。というより、誘いにも似たものだった。
提示されたそれを、頭の中で転がし、降りてきた答えを口から吐き出す。
「……申し訳ございません」
そうして、糸電話を少し手前に引いた。ちょうど、糸が緩んでいたときにしたように。
「今、何かおっしゃいましたか? 糸が緩んでいたようで」
にこやかに尋ねる。顔が見えていなくて、糸電話越しの会話で、よかったと思った。思ってしまった。
礼央様もそれについて深く追及することはせず、ほんの少しの失望を滲ませながら答える。
『……イーザックさんには俺から謝っておきますねって言ったんですよ』
「いえ、それには及びません。正体を見破れなかったイーザックの落ち度ですので」
『俺の変装もなかなかのものってことですよね。音魔法も覚えましたし、いざというときはこれで切り抜けられるかも』
明るく言った礼央様は、私が何か言うより先に、早々にこの奇妙なやり取りを打ち切ってしまった。
『長々と変なこと聞いてすみません。まだ本調子じゃないんですから、今のうちに休んでくださいね』
「ええ、お気遣いありがとうございます」
そんなやり取りを経た頃、糸電話の糸が不意に緩む。手元を見ると、繋がれていた糸が切断されていた。魔具がない中では伝達手段として便利だと思っていたのだが、部屋にぶら下がったままというのも不便ということだろうか。
逃避めいたことを考えたのち、再び礼央様から投げかけられた問いを反芻する。
『一緒に逃げようって言ったら、どうします?』
そう問われたとき、誘いに乗る意思を示していたら、どうなっていただろう。
何もかもを捨てて逃げることが彼の幸せなのだとして、そこに私の居場所が示されていたのだとして。そこに、彼が笑える未来はあるのだろうか。私はいつまでも彼のそばにいられるのだろうか。約束や命令を違えることはないと、言い切れるだろうか。
その保証がないという理由から、その誘いをそっと遠ざけた。彼の望む最良でないとしても、このまま聖騎士と聖女としてそばにいる方が、より長く彼のそばにいられるはずなのだ。
何もかもを捨てて逃げた先で、もしも見つかって連れ戻されたら。再び聖女にされた彼の隣に、私の居場所があるとは限らない。暗い牢獄の中、彼の平穏を願って処刑を待つ日々になるかもしれない。私よりも、きっと礼央様の方が辛い毎日となるだろう。
聖女としての人生を、礼央様が望んでいないことを知っている。彼は全てから解き放たれ、一般人としての生活を送りたいのだろう。分かっている。
だが、私が聖騎士である限りそれは叶えられず、聖騎士でない私が礼央様を守る手段など、存在しないのだった。
空いた穴は塞がらない。どちらか塔に頼めばそれは再び壁となり、どちらかが会話を持ちかければ再び糸電話の通り道となるだろう。
気の迷いでは決してない。きっと長く燻っていた彼の願いを、そっと遠ざけたこと。それが悔いるべき過去とならないことを願いながら、ベッドに横たわる。イツキさんから壁の穴について聞かれた際の言い訳を考えながら、静かに目を閉じた。




