第115話「秘めた刃」後編
ノックを二回。そうして返事がなければ、ノックを五回。私以外にはありえない回数だ。それが彼女にとっての合図になる。
だが、このときは仕切り直しをする前に、返事が聞こえてきた。
「どうぞ」
停戦要求から三週間が経ち、毎日数時間おきに礼央様の部屋を訪れている。それは礼央様の体調を見るためという以外に、真央が表に出ていないかを確かめるためというものがあった。
朝に訪れたときも、真央が出ている様子はなかった。彼女が表に出てくるきっかけは一体何なのか、そんな疑問を腹の奥にしまいこみ、扉を開ける。
すると、見慣れた姿に見慣れた柔らかい笑みをうかべた彼が、ベッドに腰を下ろしていた。
「アンネさん」
体を起こし、足を床につけている。机には暇潰し用の絵本が積まれていることからして、起きて活動していたのだろう。どうやら順調に回復しているらしいと思いながら、もはや挨拶となりつつある問いを投げかけた。
「礼央様、具合はいかがですか?」
「少しは良くなりましたよ。食欲も戻ってきましたし。ちょっと食べすぎてる感があるくらいです」
少し困ったように言う礼央様の言葉に、内心ひやりとしながらも、心底安堵したような笑みで応える。
食べすぎている感覚があるのは当たり前だ。礼央様が眠っていると思っている時間のうち、真央が活動しているときには、時折食事を摂らせていたのだから。
礼央様の体調が少しずつ上向いてきたこともあり、最近はあまり真央に食事を摂らせてはいないものの、真央からせがまれて食べさせることも多い。すっかり習慣になってしまったせいもあるのだろう。次からは真央の食欲を誤魔化す手段を考えるべきか、などと思案していると、礼央様は突然不満げな表情でこう続けた。
「それより、アンネさんこそちゃんと休んでくださいよ。イツキさんからたまに注意されてるの知ってるんですからね」
「きちんと休んでおりますので、ご心配には……」
及びません、と言い切るより先に、礼央様が勢いよく立ち上がり、彼から二歩ほど先に佇んでいた私の目の前まで一気に距離を詰めてくる。
思わぬ行動に驚かされる私に対し、こちらをじっと見つめた礼央様は、やはりと言いたげに私を指差した。
「隈、消えてないじゃないですか。反応も鈍いですし、明らかに本調子じゃありませんよね」
そう指摘され、ここ数週間の行動を振り返ってみる。真央には部屋から出ないよう言ってはいるものの、ほんの好奇心から外に出てしまう可能性は否めない。
なるべく真央が出ている間は目を離すべきではないが、真央の出現は不規則で突発的。何度か深夜帯に隣の部屋から私を呼ぶ真央の声が聞こえたこともあり、最近は朝昼晩、そして深夜に礼央様の部屋を訪れ、真央が出ているかを確かめることにしている。隈がいつまでも消えない原因もそこにあるのだが、そのことを礼央様に説明できるわけもなく、心配には心配を返しておくことにした。
「礼央様こそ、立ち上がるのはまだお辛いのでは?」
「そう思うなら休んでください。心配で寝てられませんよ」
「そのままお返しいたします」
言いつつベッドに促すが、礼央様はそれを無視。代わりに壁に歩み寄り、塔にスープを二杯注文した。
しかしどういうわけか、壁から出てきたスープというのは、何やら取手付きのカップに収まっているではないか。コーヒーカップよりは寸胴で、分厚い作りのそれは、なるほどコーヒーのようにしてスープを飲むのに適しているらしい。
礼央様から差し出されたそれを受け取ると、彼はようやくベッドに腰を下ろした。スープを一口飲み、一息ついてから聖女の顔で質問を繰り出す。
「何か報告があったんですか?」
「定期報告が一件。状況に変化なしとのことでした。ユーデルヤード側の反発が強いようで」
「思ったより粘りますね。そりゃあ、元敵国同士となれば一筋縄ではいかないでしょうけど」
意外でもなさそうに言った礼央様は、もう一度スープを口に運ぶ。
ユーデルヤードが加盟に否定的な背景には、確かに礼央様が言うような理由もあるのは確かだ。しかし、実際には元敵兵への拒否感というより、懸念や恐怖も少なからずある。
具体的には、敵味方はおろか、兵士市民の別なく殺戮せしめた礼央様の魔法を警戒しているようだ。
聖騎士団においてさえ、あの一件についての認識には差異がある。ある者は護国のため放たれた救いの光であるとし、またある者は市民の犠牲を些事と思う冷酷非道な行いであるとしているようだ。その実態が、一人の人間が追い詰められたことによる暴発だとは、一部の聖騎士や要人を除いて周知されておらず、そして礼央様自身も気付いていない。
それらの事情を知らないユーデルヤードからすれば、国家をもってしても抑え込めない危険な兵器が同盟締結を求めてきた形だ。最終的な加盟は避けられないとはいえ、万全の対策を整えたいところではあるのだろう。
表向き、加盟を見送る理由は礼央様の指摘通りのものとしつつ、裏では礼央様の魔法という脅威への対抗策を模索している頃かもしれない。
何にせよ、私としてはあの暴発の事実が礼央様の耳に入らなければいいのだ。礼央様から受け取ったスープを一口飲み、中身がカボチャのスープであると確かめてから、温まった口を開く。
「これについては、時間をかけていく他ないかと。礼央様としては歯がゆい限りかと思いますが」
「なるべく早く解決してほしいのはありますけど、そのために動いてくれてる人たちのことを考えると、早くしろなんて簡単に言えませんよ。一足早く抜けてぬくぬく休んでるんですし」
「礼央様のこれは正当な休息です。負い目を感じる必要はどこにもありません」
申し訳なさそうに言う礼央様にそう声をかけるものの、彼はやはりどこか引け目を感じているようで、浮かない顔のままカーテン越しに窓の外へ目をやった。
「状況報告って、今は直接聖域の外まで来てやってるんですよね。ただでさえ大変な状況ですし、こういう天気の日に当たらないといいんですけど」
礼央様に言われてカーテンを開けると、結界の向こうで土砂降りの雨が降っているのが見えた。
塔の周囲は結界に覆われているため、天気を知るにも目視で確認するほかない。加えてそれなりに距離があるため、遠雷も僅かに聞こえる程度。礼央様に言われるまで、外が嵐であることも、雷が鳴っていることにも気付かなかったほどだ。
「少し暖かくなってきたようですので、もう雪が降ることはないでしょう。悪天候の中ではありますが、以前ほどの寒さはないかと」
「……前線にいる人たちは、どうしてるんでしょう」
カップを手で包みながら、礼央様は申し訳なさ半分、心配半分といった様子でこぼした。彼にできる最善の選択をし、最良の結果を作り出したとはいえ、未だ停戦が実現しない中では、やはり懸念は拭えないのだろう。
礼央様の作戦や魔具無効化の効果もあり、前線では結界を隔てた睨み合いが続いているという。
聖女の力や魔具がない中では戦力に不安が生じ、かつ壊すたび張り直される結界は、敵陣に閉じ込められる懸念がある。
結果として前線の動きはほとんど停止状態にあり、戦闘による犠牲を生まずに済んでいるのだが、とはいえ屋外でこの天候は堪えるだろう。停戦の報せ以外の慰めとなると、私にはこのくらいしか思い浮かばない。
「戦いが実質的にが止まっていることで、恐らく前線への物資供給も以前より頻繁に──」
言いかけた瞬間、窓の外を雷光が包んだ。ほんの少し遅れて聞こえた雷鳴からして、結界のすぐそばに落ちたものらしい。悪化する天候にカーテンを閉めたそのとき、私の後ろで何かが落ちて割れる音が聞こえた。
振り返れば、礼央様とテーブルの間で、スープを溜め込んだカップが砕け散っているではないか。
「礼央様、お怪我は?」
言いつつ礼央様の足に目をやり、ひとまず火傷や切り傷がないことを確かめる。しかし礼央様からは何の応答もなく、妙に思って顔を上げると、そこには血の気の引いた礼央様の顔があった。
「……礼央様?」
思わず呼びかけるが、応答はない。青白い顔でどこか一点を見つめる礼央様の両肩に手を置き、再び呼びかけると、礼央様はそこで初めて、はっとしたように私を認識した。
「あ……アンネさん……?」
震えた声で私を呼んだ礼央様は、存在を確かめるように私の左腕に手をやった。明らかに様子がおかしいことは分かるものの、どうするべきかまでは分からずにいると、礼央様はどこか縋るように尋ねてくる。
「よかった、アンネさん……嘘ですよね、前線になんて、行きませんよね」
礼央様が口にしたのは、まだネロトリアにいた頃に終わったはずのやり取り。確かに前線行きを命じられ、そして礼央様にもそう告げていた。出撃前夜、彼から持ちかけられた作戦がこの無血軍なのだ。
どうやら記憶が混濁しているらしいものの、どう声をかけるべきかまでは判断がつかない。ひとまずそれらのやり取りがもう終わったこと、今は停戦の報せを待つばかりであることを伝えるべきかと思案していると、礼央様は呟くような声で続けた。
「だってアンネさん、ずっと一緒にいるって。あの人が勝手に、そう言ってるだけで、俺に魔法を使わせたいから……」
「あの人……?」
出撃前夜、礼央様に前線行きを知らせたときのことを思い返してみる。あのとき、私は魔法学校の廊下で伝えたはずで、周囲に人影はなかったと記憶している。礼央様に魔法を使わせようとした誰かがいたとなると、あの夜のことを言っているのではない。それよりももっと前に、礼央様は私に下った命のことを知っていたのだ。
それなら何故、あのときの礼央様はまるで初めてそのことを耳にしたかのような反応を見せたのだろうか。
「……本当なんですか?」
感情の抜けた声で問われ、現実に引き戻される。これはどちらの意味だろう。そばにいるという約束に偽りがないかという確認か、それとも前線行きが事実かどうかという趣旨の質問か。判別がつかずにいる間に、礼央様は答えを出したらしい。私から視線を外し、今ここにはいない「誰か」に答えた。
「わたし……ちゃんと、やりますよ。言う通りにしますから……言われた通りに」
「礼央様」
「そうすれば、フィリップさん……」
切羽詰まった私の声を半ば遮るようにして、礼央様は再び私を見る。そこにあるのは、微かな笑み。もう何もかも諦めた中に、砂粒程度の希望を見出したかのような顔だった。
「いかなくていいんですよね」
その瞬間、先ほどの雷光を思わせるような光が礼央様の体を形取る。あの日の再来に気付いたその瞬間、咄嗟に彼の体に腕を回した。
何か、何か言わなければならない。もう一度あの日が繰り返されてしまう前に。
「礼央様、私はここにおります。いつまでも、礼央様のおそばに」
考える時間もないまま、気付けばそう口走っていた。その言葉はいくらか抑止になったのか、礼央様の体から放たれた光がいくらか収束する。
まだ間に合う。そう判断した私は、さらに言葉を重ねた。
「お約束したでしょう。礼央様も、覚えておいでのはずです」
嘘だ。頭の中で、誰かが言った。他の住人はいない。いるのはいつも私だけだ。
そばにいるという約束。あれはほんの気休めで、私は結局、礼央様に戦火を及ばせまいと、前線行きを決めた。いつまでもそばにはいられない。命令を守るつもりはあっても、約束までは守れなかったのだ。
だが、それを告げて何になるだろう。今の彼に必要なのは、彼の味方が目の前にいるという事実のはずである。たとえ気休めでも、嘘でも、その咎は私が負えばいい。
私の祈りが届いたのか、礼央様は魔法を収め、うわごとのように短く声を発した。
「覚えて、たんですか」
「ええ、もちろんです。礼央様は忘れてしまわれましたか?」
責める意図ではなく、そっと思い起こさせるつもりで尋ねる。すると礼央様は、途切れ途切れに言葉を漏らした。
「──約束、したのに」
言いつつ、礼央様は私の背に手を回す。それはどこか、私の存在を確かめようとしているようでもあって。
「嘘、だったんだ、って……思って」
そこまで言われて、礼央様の見ているものが、どこまでもあの日の続きだったと思い知らされる。礼央様にとってあの日は目の前にあって、私が彼のそばにいなかったことも真新しい事実なのだ。
「礼央様、それは……」
「だ、だから、俺……」
果たしてどう説明したものかと思案する傍ら、不意に礼央様の体が強張った。背中に回された手が震え始める。
これはまずい。そう直感した瞬間、礼央様が決定だとなる言葉を放った。
「……俺っ、魔法、を」
しかし、それは最後まで言い切られることなく途切れ、私の背に回された手が墜落する。それと同時に礼央様の体からも力が抜け、ぐったりと私に寄りかかる姿勢になった。
「礼央様?」
呼びかけても応答はない。回した腕を緩めてみるが反応はなく、完全に意識を失っているようだと判断した矢先、礼央様が小さく声を上げた。
「ん……」
顔を上げた先に私の胸があることに気付き、こちらを見上げる。大きく見開かれたその目には、覚えがあった。
「フィル?」
そして、その呼び方にも。
そこに礼央様の影はなく、それはもう真央だった。
痛いほどに理解した。礼央様が一人で何度もあの日を繰り返していること、礼央様があの日を思い出すたび、真央がやってくること。そして、
あの日、「宇佐神礼央」を壊したのが、あの男ではなく私だということ。
「ぎゅってするの?」
どこか嬉しそうに尋ねる真央に答えることもできず、ただ彼女を見つめていた。彼に姿ばかりがよく似た、彼女を。
礼央様は私が気休めとして交わした約束をずっと覚えていた。言質というより、恐らくは心の支えとして。
これは私の推測だが、あの日、礼央様は私との約束を胸に、殺戮を強いる者の言葉を跳ね除けていた。私は必ず自分の元へ戻ってくる。それまで持ち堪えればいい。私が約束を違えることなどないのだからと。
そんな中、私の前線行きを告げる言葉は、どれだけ冷たく突き刺さったことだろう。助けは来ない。約束も守られない。絶望の材料としては十分すぎる。だが、それだけではなかった。
脅され、詰られ、身勝手で理不尽な言葉を投げかけられたことで、壊れてしまったのだと思っていた。こんな世界、どうにでもなってしまえと、守護者の役目を放り出すような思いで兵器じみた存在へと変貌したのだと思っていた。その認識が間違いであったと、先ほどの彼の言葉が物語っている。
──「そうすれば、フィリップさん……いかなくていいんですよね」──
たとえ自分が壊れても、守れるかもしれない。助けられるかもしれない。他でもない、ただ一人の私を。絶望の中にあって微かに光るそんな希望が、あの悪夢を引き起こしたとしたら。
私の本当の過ちとは、あの男を止められなかったことではない。あの場に留まらなかったことだったのだ。
約束を破る。何度も。
──「アンネ、外に出てはだめなの。お願い」「アンネが家でも寂しくないように、お土産を持って帰ってくるよ」「アンネ、僕も家にいるから。一緒に遊ぼう」──
そのたびに、自分の世界を壊したのが他でもない自分であったと思い知る。
──「いつまでも、おそばにおります」──
望むべきではないと知った。私の願いが、家族から命も、尊厳も、その存在さえ取り上げてしまったのなら、そのようなものは不要なのだと。
それなら今度は、一体何を捨てればいいのだろう。
何を削ぎ落とせば、私は本当に正しくなれるのだろうか。
どうなれば、私は誰からも奪わずに済むのだろうか。
「フィル……」
真央に呼ばれ、ようやく彼女に意識を向ける。すると彼女は、いつものような、拒絶を恐れる恐々とした笑みではなく、慈しむような笑顔を浮かべていた。
「……ぎゅってしていい?」
その言葉に、ただ頷くと、真央はそっと私を抱きしめた。礼央様の、縋るような抱きしめ方とは違う。柔らかく、温かい抱きしめ方だ。
「あったかいねぇ」
正しくない、生まれるべきではなかった存在だった。だというのに、そこから生まれる温もりがこんなにも温かい。
ずっと分からなかった。両親が何故、私を殺さなかったのか。
生まれてはいけない聖女の子。過ちであれ何であれ、すぐさま殺していれば後の災禍にはならなかったはず。それなのに何故、私を生かし、愛しい我が子のように接していたのかと。
だが、私の頭を撫でる真央を見て、その理由が少し分かった気がした。一度生まれてしまえば、それはもはやただの「命」ではなくなってしまう。言葉を話し、意思を持ち、感情を持つ者を、どうして自分の都合で殺すことができるだろう。過ちそのものではなく、過ちを生み出した側になって初めて、理解できた気がした。
「フィル、あったかい?」
そう問われ、再び頷くと、真央は嬉しそうに私の頭を撫でる。
遠く響く雷鳴が、清算が迫っていることを知らせているようだ。束の間そこから目を逸らすように、人の体温に身を預けていた。




