114話「十三時の鐘」
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目の前に広がる白い壁をぼんやりと眺めた末に、目が覚めたことを自覚した。
一体どのくらい眠っていたのか。疲れが抜けていないところを見るに、せいぜい半日といったところだろう。体調が悪いときの、疲れているのに爆睡はできない感覚に似ている。それでもここ最近を思えば、ゆっくり寝られた方なのだろうが。
アンネさんはきちんと休めただろうかと思いながら寝返りを打つと、鼻先が触れ合いそうな距離でアンネさんが寝息を立てていて、驚いた拍子に眠気も飛んでしまった。
白い肌に伏せられた長い睫毛、新鮮な彼の寝顔につい見入ってしまったが、その肌は白いというより青白く、ところどころ頬もこけている。睫毛の先には濃い隈が鎮座しており、普段通りに見えた彼もかなり疲弊していたことが窺えた。
戦争が始まる前、彼はどのような顔をしていただろう。以前も今も、彼はずっと綺麗だ。だが戦争が始まる前は、こんなにも胸が締め付けられるようなことはなかった。不安に駆られるたび、隣に彼の存在を確めて安心して、そうして必要な一歩を踏み出す。ずっとそうしていられたらどんなによかっただろう。
「……アンネさん」
こぼれた声は掠れていて、言葉にもなりきらない。おまけに、人には滅多に聞かせない素の声だった。
魔力を温存するため、魔具の代わりとして発動していた音魔法は寝る直前に解除している。影属性魔法と違い、音魔法は魔力が尽きるまで発動し続けなければならない。ポーション十本でどこまで持つか分からなない、コスパの悪い魔法なのだ。
果たしてこれが俺の声だと分かるだろうか、という懸念をよそに、アンネさんはその青い目をこちらへ向けることで呼びかけに応じた。
見計らったようなタイミングに、思わず二、三度目を瞬かせる。
「起きてました?」
「いえ、たった今」
言うなりアンネさんは、寝起きとは思えない俊敏な動きで体を起こす。それに釣られて俺も体を起こそうとしたが、自分の体が知らない重量を主張して、思わず持ち上げかけた腰を再びベッドへと沈めた。
十秒ほどの休憩を経て、無理やりに起こした体が前に傾く。とてつもなく怠い。体をまっすぐに保つことすらままならず、アンネさんの肩に寄りかかりながら、回らない頭を動かした。
「どのくらい経ってます……」
「一週間ほどになります」
「……そんなに」
驚きというより納得しながら言うと、お手本のようなノックが聞こえてくる。俺が再び音魔法を発動するのを待って、アンネさんがそれに応じると、入ってきたのはアリーだった。
まさか俺が起きているとは思わなかったようで、少し驚いたような顔でこちらを見つめ、それからいつもの調子で尋ねてきた。
「食事の支度をしますわ。食欲は?」
「……あんまりない」
「それでも何か入れなさい。一週間も飲まず食わずで眠り続けていては、体が持ちませんわ」
それならば何故聞いたのかと思う傍ら、アンネさんが塔に頼んで水を出してくれた。ベッドが壁際に配置されている一番の利点はこれだといっていいだろう。遠くから壁に向けて声をかけるやり方もあるが、掠れた声ではそんな気も起きない。
「ルイス、サイドテーブルを」
「だから、ウサギさんが起きてから塔に頼めばいいって言ったじゃないッスか。気が早いにも程があるッスよ」
「口より手を動かしなさい」
アリーとルイスさんが言い合いを繰り広げながらテーブルを運び込む中、アンネさんに差し出された水を口に含む。渇ききった唇と喉に水を流し込むと、すっかり飲み込み方を忘れたらしい喉が悲鳴を上げ、何度か咽せてしまった。
「少しずつで構いませんので」
アンネさんに背中をさすられながら、どうにかコップの水を半分ほどに減らす。平時であれば一息で飲んでしまえる分量だというのに、今はこれが限界だった。
ベッドよりかなり背の高いテーブルを運び、慣れた手つきで白いクロスを敷いたルイスさんは、ぐったりとした様子の俺をしげしげと見つめている。
「魔法がなくなった途端にひっどい顔色ッスねぇ。そういやウサギさん、光属性魔法使えるんでしたっけ」
「……影属性魔法です」
「へ〜。まぁどっちでもいいッスけど」
聞いておきながらまるで興味がなさそうなルイスさんは、続けて塔にスープとスプーンを出すように依頼。お盆と共に壁から迫り出してきたそれを受け取り、そっと机に置いた。
言葉遣いこそ軽いが、こういう所作を見ると、彼がアリーの執事であることを思い出す。だが彼はどこまでもアリーの執事、つまり俺に気を遣うつもりは毛頭ないようで、食べ始める前から気が早いにも程がある質問を投げかけてきた。
「どこまで食えるっすか?」
「……とりあえず、スープ飲み終わってから考えますね」
言いつつ、どうにか体をサイドテーブルまで移動させ、体重をテーブルに預ける。テーブルの高さはこれが理由らしい。かなり有難い気遣いだ。
背中を丸めてテーブルに肘をつきながらとは、我ながら行儀が悪すぎて嫌になると思いつつ、スプーンを持ち上げる。だが、そこまでだった。
スプーンが、尋常ではなく震えている。目が霞んでいるせいもあるのかもしれないが、スプーンがぶつかるたび、皿が耳障りな音を立てていることからして、手が震えていることは認めざるを得なかった。
左腕は体を支えるために机から離すことはできず、かといってこの震えではまともにスープを飲めそうにない。かといって器を持ち上げることもできないだろう。
かくなる上は犬食いしかないが、さすがにそれは人としてのプライドが許さなかった。流動食や点滴の有り難みを異世界に来て実感することになろうとは。
見かねたアンネさんが、俺の背中に手を添えながら声をかけてくれる。
「礼央様、ここは私が」
「いや……いいです。自分で飲みますから」
「その手では難しいかと」
言いにくそうに告げられたのは、ただただ真っ当な事実。スプーンをスープに沈め、誤魔化すようにアンネさんに問いかけた。
「……フィリップさんは何か食べたりしないんですか?」
「私は後ほどいただきますので」
「……いつもそれじゃないですか」
「彼は何度か目を覚ました折に食べさせましたわ。頑なにその場所からは動こうとしませんでしたけれど」
どこまでも変わらない姿勢に不満をこぼすと、アリーが補足してくれる。どうやらアンネさんの方はこれまでも何度か目を覚ましていたようだが、俺の意識が戻るまで、そばにいてくれたらしい。
それはいつもの過保護ゆえか、それとも以前交わした約束ゆえか。彼のことだから、きっとその両方なのだろう。
アンネさんはスープをすくい、息を吹きかけて冷ましてから、俺の口元へ運んだ。まるで離乳食でも食べさせられているかのようなこのやり取りは、少なくとも友達の目の前でするには気恥ずかしいものがある。
俺がスープを口にしようとしないことに気付いたのだろう。アンネさんが心配そうな顔をするのを見て、とうとう諦めた。
今となっては遠い昔のことのように思えるが、俺も彼に同じことをしたのだ。友達の前と見知らぬ大勢の市民の前、どちらがマシかはさておき、拒む権利が俺にないことは確かだった。
スープを口に含むと、また続けて次のひと匙がやってくる。ペースは遅く、都度冷ましながら少量ずつ運んでくれているものの、この調子では日が暮れそうだ。
心なしか頭が少しはっきりしてきたあたりで、入り口付近に佇んだままのアリーに尋ねてみる。
「状況は何か変わった?」
「変わってたらとっくに叩き起こしてるッスよ」
「叩き起こしはしませんけれど……大きく変わりがないのは事実ですわね」
そんな前置きと共に、アリーはあの要求提示からの一週間について話してくれた。アンネさんにスープを運ばれながら聞いた限り、状況は概ね予想通り。俺が寝ていた一週間で事態が急激に動くということは、さすがに起き得なかったようだ。
同盟締結は未だ協議中。ネロトリアは既に合意の姿勢を示し、コルトリカも多少の反発はあれど、最終的にはネロトリアに続くと見られている。
シノノメは結論こそ出していないものの、シオンさんからの賛成意見があれば覆りはしないだろうとのことだった。
問題はユーデルヤードである。シオンさんが事前に懸念していたように、国内からの反発が起きているそうだ。あの国は人類院と精霊院の二院制を取っており、今回反対しているのは精霊院側だという。
アリーはその理由を明らかにはしていなかったものの、何となく、単に種族的な人間への嫌悪感からでないことは察しがついた。ユーデルヤードが精霊の国とはいえ、きっとエルフも戦力として戦争に駆り出されている。これだけの大戦で、エルフだけが犠牲を免れたとは考えにくい。
種族による命の重さに違いはないが、やはり味方を多く殺めた相手と手を結ぶという結論に至るには、戦争が長引きすぎたのだろう。
とはいえ、聖女が戦争から手を引き、魔具の無効化も続いていることで、戦場は実質的に半停戦状態にあるという。結論を出す時間は稼いだ。あとはいい結果を待つばかりである。
アリーからの説明を聞き終える頃、アンネさんは最後のひと匙を俺の口に運び、役目を超えた食器を塔に返却する。ちょうどそのとき、扉が開かれたままの入り口から、ニーナさんが顔を覗かせた。
「ウサミさん、目が覚めたんですか?」
「ちょうど今、フィリッポさんにスープ飲ませてもらってたところッス。一歩遅かったッスね」
「んなとこ人に見られたかねぇだろ」
続けてやってきたのはイツキさん。ベルさんとベラさんも一緒だが、そこにシオンさんの姿はない。彼女のことだから、どこかで呑気にお茶でも飲んでいるのだろう。
それよりも気になったのは、明らかに疲れ切っている俺を見ても、各々が全く驚いた様子を見せていないこと。それだけ見れば、俺が寝ている間にどこまで話が広まっているかを知るのは容易い。
「……フィリップさん」
「申し訳ございません。誤魔化しきれませんでした」
思わず隣のアンネさんを見ると、心底申し訳なさそうな謝罪が返ってくる。
協議前に俺が「武装」と称して自分とアンネさんにかけた魔法は、いわゆる化粧のような、顔色や隈などを誤魔化す影属性魔法だった。
いかにも死にかけの人間が停戦を持ちかけたところで、「このまま攻め滅ぼした方が早いのでは?」などと思われては元も子もない。さすがにそのような単細胞チックな考えで国の運命を左右することはないとは思うものの、自信を演出する手段としても、不調を悟られるわけにはいかなかったのだ。
だが、いずれどこかで休息が必要だったのは事実。魔法があるとはいえ、どのみち隠し通せるものではなかったのだ。幸いにして、同盟締結への合意を覆した人はいないらしい。
俺は聖女関係者たちを敵と見做したことはないが、相手からするとそうではないかもしれない。俺のそんな懸念が杞憂に終わったという事実に、思いのほか安堵してしまう。
「……いえ、ちょっと安心しました」
心の底からそうこぼすと、イツキさんが何やら言いにくそうに頭を掻いた。
「起きがけに悪いんだが、約束通り、そいつ借りてくぜ」
「約束って?」
心当たりのないものを持ち出され、アンネさんを見やる。すると彼は分かりやすく顔を背け、何かを強引に誤魔化そうとしているらしい。
それを見たイツキさんが呆れたような態度を見せているところを見るに、どうやら約束とは俺が寝ている間にアンネさんと交わしたもののようだった。
「……おい、こっち見ろ。忘れたとは言わせねぇぞ」
「私には礼央様との約束がありますので」
「年頃の娘の部屋にいつまでも居座るなって理屈の方が優先だろうが! 三日前にも散々したぞこの話!」
彼らのいう約束がどのようなものなのか、憤慨するイツキさんの言葉でおおよそ察しがついた。
実のところ俺たちは男同士だが、側から見れば男女、それも十代後半に二十代前半という、微妙な年齢差だ。元の世界なら完全に犯罪である。いくら護衛とはいえ、いつまでも同じ部屋に同じベッドというわけにもいかないのだろう。
イツキさんも手を尽くしてくれたようだが、アンネさんは納得できていなかったらしい。ここは俺の一押しが必要と判断し、俺もアンネさんの説得にかかることにした。
「フィリップさん、イツキさんの言う通りですよ。約束を守ってくれるのはありがたいですけど、さすがに四六時中一緒ってわけにもいかないんですから」
「しかし……」
「塔の中なら大丈夫ですって。これまで呑気に寝こけても何もなかったじゃないですか」
「隣におっかない番犬が寝てたからってのもあるッスけどね」
「フィリップ、ベルたちが近付くとすぐに起きる」
「フィリップ、ベラたちが近付くとすぐ目を覚ます」
呆れ顔のルイスさん、ベルさん、ベラさんの証言を受け、アンネさんを無言で見つめてみる。本人の口ぶりではさもゆっくり休息を取ったかのようだったが、これらを聞く限り、絶対に休めていない。休もうという気がまるで感じられない。
俺に名前を呼ばれるなりすぐ目を覚ましたのも、どうやら半覚醒状態にあったからのようだ。それでは休まるものも休まらないではないか。
無言の圧に耐えかねたらしいアンネさんが、イツキさんにアイコンタクトで助けを求める。つい先程まで頑なだった相手から一転して助けを求められ、困惑した様子のイツキさんは、本来の目的を助け舟としたようだ。
「これで分かっただろ。お前は大人しく自分の部屋で休めよ」
どことなく疲れた様子のイツキさんに諭され、アンネさんはようやく渋々といったように腰を持ち上げる。そうかと思うとすぐにこちらを振り返り、心配げにこう続けた。
「何かあればすぐにお呼びください」
「そうします。魔具もないので、肉声で隣まで届くか微妙ですけど」
「塔に頼めば部屋の仕切りをなくすことも可能かと……」
「いい加減にしろ。行くぞ」
力技な提案を即却下され、アンネさんはイツキさんに連行されていく。そうはいっても、イツキさんは最初から最後まで俺の部屋に足を踏み入れようとはしなかったため、アンネさんが大人しくイツキさんの後に続いた形だ。
それによって何となく退室の空気が出来上がったのか、アリーはアンネさんと似たようなことを、ニーナさんは自分にできることがあれば言ってほしいと言い残し、残りの面々はそれぞれの主人や友人に続く形で部屋を出ていった。
全員を見送ってから、机に預けていた体をベッドに沈める。歯を磨かなければという考えが浮かんだが、どうにも体が重く、行動に移せそうにない。塔に頼めば自動で歯を磨いてくれる魔具の一つも出してくれるのかもしれないが、魔具が無効化された今、塔の中で音響の魔具を使うことすらままならないのだった。
起きたら必ず、必ず歯を磨く。ほとんど意味をなさない誓いだけを立てて、そっと意識を手放す。
雑踏も戦闘音も聞こえない塔は静かで、穏やかで、束の間以前のような日常を取り戻したかのようだった。平穏に抱かれ、再び眠りに落ちる。その直前、また長い眠りになりそうだと、そう思ったことだけを覚えていた。




