13話「宇佐神礼央であるために」
その光景は、いつかの俺が魔力欠乏を起こした日によく似ていた。
ベッドで横たわる俺、脇に腰掛けるアンネさん。違っていたのは俺が目を覚ましたことに彼がすぐ気付いたことと、重たいのが体ではなく目だということくらいだろうか。
「おはようございます」
「……おはようございます」
鏡を見たわけでもないというのに、目元が腫れ上がっているのが熱で分かった。あれだけ泣いたのはいったいいつぶりだろうと思いながら体を起こすと、アンネさんは水に浸して絞ったタオルをこちらへ差し出してくれる。目を冷やせということらしい。
アンネさんの隣には水を張った桶が置いてあって、そこに浸されたタオルはきちんと冷たかったけれど、温度からしてあの桶には元々氷が入っていたのだろう。また随分長いことそばにいてくれたようだ。
まず何から話したものかと考えて、とにかく一度、恥も礼も脇に置いて謝罪から済ませるべきだろうと思い口を開くと、俺の言葉を遮るように腹の虫が大声を上げた。
疲れて眠るだけ泣いたなら腹が減るのも当然だが、それにしても今鳴る必要はなかっただろうと心の中で恨み言をこぼすと、見かねたらしいアンネさんが控えめな提案をしてくれる。
「軽食でよろしければお作りしますよ」
「だ、大丈夫です……後にします」
確かに今日が始まってから何も口にしていないものの、数時間ほど惰眠を貪った挙句に軽食まで人に作ってもらうというのはさすがに申し訳ない。
しかしアンネさんとしては何かしたかったらしく、ほんの少し残念そうな顔をされてしまった。彼はもしや俺を甘やかすことが好きなのだろうかと思いもしたが、やはり多少なり負い目があるのだろう。今回、心の中に秘め続けていた本音を洗いざらいぶちまけられたとなればなおさら。
「…………」
胸の内で疼くように存在を訴えてくるのは、彼のその負い目に付け入るようで、口にすることができなかった俺のわがまま。できることならこの先ずっと隠し通していたかったが、数時間前の自分の行いを振り返るに、どうやらそれは難しそうだ。
このわがままを自らの内に燻ぶらせている限り、俺はまた今日のように限界を迎える日が来るだろう。そのときまでこの何にもならない思いを胸の内に秘め続けているというのも一つの手だが、もしぶちまけるのだとしたら、あらゆる醜態を晒した今しかない。一度やってしまえば、二度目のハードルは自然と低くなるものなのだ。
濡れタオルで目と頭を冷やし、気持ちを落ち着かせてから開いた口は、声がかすれそうなほどに渇いていたけれど、それもこれも全て寝起きだからという理由で片付けることにした。
「……代わりっていったら何ですけど、聞いてほしいことがあって」
「何なりと」
彼はきっと、俺の望み全てをできる限り叶えてようとしてくれる人だ。だが俺が今から打ち明けようとしているのは、そんな彼ですら聞き入れてくれそうにない願いだった。
「アンネさん、前に言いましたよね。俺のこと守ってくれるって」
「ええ。命に代えてもお守りいたします。それが私の務めですので」
当たり前のように、しかし本物の決意を内側に包み込んで吐き出される肯定の言葉に肌がひりつくのを感じながら、恐る恐る口を開く。
「……それ、やめてほしいんです」
そう告げると、アンネさんはよく分からないという顔で俺を見つめた。何となくこうなる気はしていたが、やはり彼にとって護衛対象からこのようなことを言われるなど、まったく考えもしなかったことなのだろう。
聖騎士の彼にとって、俺は守るべき聖女。聖騎士としてではない一個人の彼にとっても、俺は異世界から突然呼び出された異邦人。どちらにせよ彼にとっての俺が守るべき存在であることに変わりはないが、前者はともかく後者に関していうなら、彼が俺のことを命懸けで守る理由はない気がする。
それでもアンネさんがこの言葉をすぐに理解することができなかったのは、一個人としての彼の意思に聖騎士としての矜持が絡みついているからなのか、それとも別の事情なのか。今の俺には分からなかった。
分かっているのは、どんな理由があるにしても、彼や彼の同僚たちが俺のために死ぬ未来を回避したいということだけだ。
「俺、いきなり呼び出されて聖女にされたってだけで、本当はただの庶民なんですよ。アンネさんたちは俺を呼び出した負い目があってそう言ってくれてるのかもしれませんけど、俺からすれば目の前で死なれることの方が迷惑です」
この世界に召喚されて、吊り上がっていく俺の命の価値と、それに反比例するように下がっていく彼らの命の価値を思ったとき、俺は聖女としてこの世界で生きる上で、誰かの命を犠牲にすることがないように、できるだけ敵を作らないような生き方を心がけてきた。その結果がこのザマだ。誰にでも気を遣い、笑顔を絶やさない過ごし方というのは思った以上に難しく、一か月で限界が訪れてしまった。
つまり、俺にそんな生き方は端から無理だったということだろう。少しやったくらいで諦めるなと冷静な自分が語りかけてくるが、絶対に失敗できないことが分かっているのに実力不足から目を背ける方が問題だという最もらしい理屈で黙らせることにした。
無理なものは無理、ないものはない。凡人にはこれが限界なのだ。
それならば、俺のために動いてくれるという彼の協力を仰ぐ他ないだろう。
「だから、俺のことは命に代えない程度に守ってください。アンネさんが危ない目に遭わなくていいように、俺も頑張るので」
これはこれで難しそうだと思いつつアンネさんの様子を窺えば、返事の代わりに返ってくるのは少し困ったような顔。何となく、次の言葉は予想できる気がした。
「善処しま」
「ダメです」
「……では努力するということで」
「同じです」
「──お約束は出来かねます」
「できるできないじゃなくて、するんですよ」
言っていることは完全にパワハラだが、ある日突然呼び出されて、貴方のために命も投げ出す覚悟ですなどと言われた俺の身にもなってほしい。
思えば元の世界でも、俺はいつでも誰かに守られていた。爆弾が降り注ぐことのない空を、恐ろしい兵器を隠し持つことのない海を、人の血で塗れることのない街を、俺の知らない誰かがずっと守ってくれていたのだろう。そんな「誰か」の存在が少し明確になっただけで、こんなにも恐ろしくなるとは思わなかった。
そう口にしたところで、どこまでも真面目な彼は聞き入れてくれないのだろうと分かっている。それが彼の仕事で、彼の役割なのだから、それを捨てろというのはただのわがままだ。
それでも俺は、守られるべき不特定多数の一人でしかなかった宇佐神礼央を、元の世界に置き去りにする気はない。そこで俺は、俺がこれからもずっとただ一人の宇佐神礼央でいるために、レオ・ウサミとしての力を行使することにした。
「……ですが、貴方様をお守りすることが私たちの」
「フィリップさん」
ウィッグもない、魔具もない。今の俺は誰がどう見てもレオ・ウサミではない姿をしていたけれど、俺は聖女としての立ち振る舞いを心がけながら、ベッドから立ち上がる。
「これは『お願い』ではありませんよ」
一か月も聖女をやっていれば、嫌でも外面が身についてくる。
一か月も周囲から様付けで呼ばれれば、厳かな表情の作り方、偉大な人間に見える背筋の伸ばし方も身につくものだ。
口元に柔らかな笑みを貼り付けたまま、いつかのように数歩前進。すると彼も、あのときと同じように数歩後退するのが分かった。
「それがあなたたちの使命だということは理解しています。ですが、それがあなたたちの命を捨てることでしか守れないものだというのなら」
壁際に追い詰められた彼の一歩手前で立ち止まった俺は、それを合図に笑顔を解く。
「──そんなもの、さっさと投げ捨ててしまいなさい」
命よりも大切な使命がある。そんな言葉は使命の大切さを説く以外の場面でさえ、使われるべきではない。平和な世界しか知らない俺がこんなことを宣うなど甘いかもしれないが、それでも俺を守るという使命が、彼らの命以上に大切なこととは思えなかったから。
アンネさんはしばらく神妙な面持ちで俺の顔を見つめたのち、呻くように言葉を発した。
「……どうしてもと、おっしゃるのですね」
「ええ」
「私に、聖騎士としての存在意義すら捨てろと」
「わたしが必要としているのは、聖騎士としてのあなたではありませんから」
相手が聖騎士だからこんなことを言っているのではない。相手がただの人間だから、一つしかない命を大切に抱えて生きている生き物だと知っているから言っているのだ。
だがここまで言っても彼は理解できないのか、アンネさんは再び難しい顔で口を開く。
「──いくら貴方様でも、その頼みは」
聞けません、とでも続けるつもりだったであろうその口を両手で挟む形で封じ、壁に叩きつける勢いのまま畳みかけた。
「義務です! 命令です! 絶対です!」
守られる立場にない人間だからという理由でこんなことを言っておきながら、命令だから従えというのは随分矛盾した言い分だが、そうでもしない限り、彼がこの願いを聞き入れてくれることはないのだろう。
だがアンネさんは相変わらず沈黙を守っており、次の瞬間に頷いてくれるということはなさそうである。
「……俺は、俺を守るために死んだ人たちの命を背負ってまで生きたくないです」
ダメ押しのように「お願いします」と加えると、頭上からは控えめなため息に続いて、呆れたような声色の言葉が降り注いだ。
「……それなりに長く聖騎士をしていますが、これほど無茶な命令を受けたのは初めてです」
困らせることは承知の上だったが、まさかここまで頑なとは思わなかった。かくなる上は泣き落としかとも思ったが、あれだけ泣いた後ともなると効果はほぼないに等しいだろう。果たしてどうしたものかと思いつつ顔を上げれば、そこには案外穏やかなアンネさんの笑顔が浮かんでいた。
「しかし、貴方様の口から『生きたくない』などという言葉を引き出してしまうことの方が、聖騎士として恥ずべきことですね」
直立したまま胸に手を当て、命に代えても俺を守ると口にしたあのときと同じ姿で、彼は言う。
「ご命令とあらば、お守りしましょう。命に代えない程度に」
聖騎士としての彼に、このようなことを言わせるべきではないのだろう。
それでも俺は言わせた。聖騎士ではないアンネ・フィリップ・アインホルンに、聖女ではない宇佐美礼央として。
それでも彼は言った。聖女ではない宇佐美礼央に、聖騎士とではないアンネ・フィリップ・アインホルンとして。
「貴方様の心が、痛むことのないように」
続けられた言葉に表れているのは、俺の甘さと彼と優しさ。向けられた眼差しの温もりに晒されて、つい感謝よりも先に謝罪の言葉が飛び出してしまった。
「……すみません。無茶なこと言って」
「撤回していただけるのですか?」
「しませんよ。男に二言はないので」
男、という単語を強調しながらそう言えば、アンネさんは返答に困ったような顔をしつつ、ふと何かを思い出したように胸ポケットから何かを取り出した。
「そういえば、こちらをお渡ししていませんでした」
アンネさんがハンカチの包みを解いて取り出したのは、三センチほどの透明な石。向こうの世界での石英に似た石だが、こちらの世界にも同じものがあるのだろうかと首をかしげていると、アンネさんが説明を加えてくれる。
「魔石です。磨いて魔法を付与すれば、魔具としても使える代物ですよ」
やはり元の世界と同じ石ではないらしい。魔具に使える石というと、魔法付与が可能な石ということなのだろう。ドアにかかっている魔具にも石が埋め込まれていたのを見るに、魔石は魔具のエネルギー源となるものなのかもしれない。
「これ、どうしたんですか?」
「先日公務で訪れた街の子どもから『元気出してね』との言伝と共に預かって参りました」
子どもの観察眼は侮れないと笑うアンネさんの言葉で思い出すのは、以前俺に向こうの世界について聞いてきた子どものこと。
あの子から見た俺は聖女以外の何者でもないことは明らかだが、この石は聖女に対して何か見返りを求めたものではないのだろう。ある日突然、どういうわけか聖女になってしまった俺に対して贈られたものなのだ。
「魔具ってどんなものがあるんでしたっけ」
「魔石にもよりますが、付与する魔法によってはどんな効果も付けられますよ。街に魔具や魔石を扱う店がありますので、近いうちにそちらを訪れてみるのもよろしいかと」
この世界に来て一か月が経つが、公務以外で街を訪れた経験はほとんどない上に、公務として訪れた先でも、近くの店に立ち寄ったことはまったくない。この歳で満足に買い物もできないというのは情けない話だが、さすがにこれは彼の力を借りる他ないだろう。
「魔具とかそのあたりはまだよく分からないので、一緒に見てもらえると助かるんですけど……」
「もちろん。ご命令とあらば」
「これは『お願い』です!」
唐突に飛び出す冗談に驚かされつつ、聖女であろうとしていた過去の自分に思いを馳せる。
毎晩、鏡の前で言い聞かせていた。自分は聖女なのだと。もう日本の高校生ではないのだと。そうすることで、変わりすぎた現状にどうにか追いつこうとしていたのだ。高すぎる理想を叶えようと、自らを奮い立たせるために。
だが、そんな理想をある程度諦めた今日からは、鏡の向こうの自分に、違う言葉を投げかけることにしよう。
俺は宇佐神礼央。日本の高校生。
どこの世界にいても、俺は俺にしかなれないのだから、その事実を受け止めて、生きていくほかない。
どこか諦めを孕んだその言葉は、どう考えてもポジティブとは言い難いけれど、以前より悲観的というわけでもなかった。この諦めは、俺が俺として生きていく上で必要なものだったから。
胸に手を当て、ここにしかいない自分に対し、声を出さずに念じてみる。
大丈夫、俺は俺として生きていける。
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1話1話が短いということで、なるべく早いスパンで更新したいとは考えておりますが、リアルと相談した他の更新スピードになるかと思いますので、気長にお待ちください。
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