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12話「礼央とアンネと」後編


「──レオ様は、私と初めて会った日のことを、覚えておいでですか」


 初めにまずそんな問いを投げかけると、レオ様は何故そのようなことを聞くのかと言いたげな顔はしたものの、その言葉を否定することはなかった。


 ここまでの一ヶ月間、どれだけ多くの出来事に見舞われようと、彼がここに来たときの記憶は未だ鮮明に焼き付いている。待望の聖女候補の召喚ということ以外にもあのようなことがあったとなれば、忘れる方が無理というものだろう。


「貴方が男性であることを信じられない私を納得させるために、貴方は私の手を掴み、ご自分の胸に叩きつけることで証明されました。後にも先にも、あのような形で人に触れたのは初めてのことです」


 恐らくあれが最も手っ取り早い手段と考えてのことだったのだろうが、まさかあのような形で相手の性別を確かめさせられるとは思わなかった。


 しかしあのときようやく、私の中に宇佐神礼央という人間の存在が、平たい胸の感触と共に私の頭へ飛び込んできたように思う。


「それから、そうですね。消音の魔具を見て『いたずらに使えそうだ』とおっしゃる方には初めてお会いしました。普通は魔具を使った密会が行われることを危惧するというのに、まさか真っ先に思いつくのがいたずらとは」


 柔らかい笑顔、争いを厭う心、どこか子どもじみているとさえ思える純粋な発想。これまで聖女としての彼を構成する要素だとばかり思っていたそれらは、決してこちらの世界に来てから身についたものではないだろう。


 私たちが目を背けていただけで、それらはすべて最初から、「宇佐神礼央」という一人の少年を構成する要素でしかなかったのだ。


「未だに好きな食べ物の一つすら存じ上げませんが、それでも私は、他の者が知らない貴方様のことを多く存じているつもりです。他の者が知る、慈悲深く穏やかな聖女、レオ・ウサミ様ではなく、時折私の背丈を見つめながら羨ましそうにしている宇佐神礼央様のことを」


 たとえ元の世界にいた頃の彼を知らずとも、元の世界にいた頃の彼が消えてなくなるわけではない。ここにいるのは新しい彼ではなく、元の世界にいた頃の延長に立っている彼なのだから。


「他の者がどれだけレオ・ウサミ様を崇拝しようと、貴方がどれだけレオ・ウサミ様を完璧に演じようと、貴方が『宇佐神礼央』様であることを、私は覚えております。私が『アンネ・フィリップ・アインホルン』であることを、貴方様が覚えていてくださるのと同じように」


 当たり前に名乗っていた名を名乗れなくなっても、生まれ持った性別さえ必要に迫られて隠さなければならなくなっても、私たちの中身が変わることはない。


 今でも彼は宇佐神礼央で、私はアンネ・フィリップ・アインホルン。名前が変わろうと、立場が変わろうと、私たちはそれ以外の何者にもなれはしないのだ。


「求められる自分を演じるために、元の自分を犠牲にする必要などないのです。この世界に元の世界の貴方様を本当の意味で知る人間はおりませんが、元の世界の貴方様を否定する人間もまた、存在しません」


 元の世界とは切り離されているこちらの世界での彼は、なろうと思えば何にでもなれるだろう。聖女にだって、聖騎士にだってなれる。けれどそれは、彼がこの世界でも宇佐神礼央であることを否定する者がいるというわけではないのだと、伝えたかった。


「先ほど申し上げました通り、私は人の感情の機微を感じ取ることが不得手ですので、他の者が貴方様に対してどのような感情を抱いているのかを正確にお伝えすることはできませんが、少なくともこの場には、宇佐神礼央様を必要とする者がおります。聖女としてではなく、秘密の共有者として、貴方様を必要としている者がいるのです」


 そうしてできることなら、いつか彼にとっての私という存在が、護衛の聖騎士としてではなく、秘密の共有者として必要な存在になってくれたらいいと思う。


 未だ事実を打ち明けられていないとはいえ、彼にとっての私は、この世界でただ一人の同類なのだから。


 レオ様は私の言葉を肯定も否定もしないままに最後まで聞き届け、窓にぶつかる雨の音にしばらく耳を傾けたのち、ようやく口を開いた。


「……秘密って、名乗ってない名前があるってだけじゃないですか」

「ここ数年は誰にも明かしたことのない立派な秘密ですよ」

「俺の方が、もっとたくさんの人に大きな嘘、ついてます」

「よく隠し通しておいでです。そろそろ休まれてもいい頃かと」

「……早すぎますよ。アンネさんがそうやって、甘やかすから」


 拗ねたような口調で紡がれるその声はどうしようもなく震えていて、彼の意思に関係なく、決壊寸前の彼の心をそのままに表してしまっていた。


「……俺、どんどん、迷惑かけて」


 一粒、二粒。


 涙というのは堪えることはそれほど難しくないはずなのに、溢れてしまえばもう取り返しがつかないものなのだ。いくら拭っても溢れ出すそれは、彼の頰を濡らして、ベッドに吸い込まれていく。


「迷惑なら、こちらが既に一生分おかけしております。この程度、迷惑のうちに入りません。取り返すくらいのおつもりでいてください」


 顔を見られたくないというように俯いたレオ様の背中に手を回し、背中をさすると、抱えた腕の中からは抑えきれない嗚咽が漏れだした。


 肩を震わせて泣くその姿はさながら子どものようだと思ったが、最初からずっと、彼は子どものようではなく、本当に子どもであったのだ。彼が子どもでいる権利を、私たちが取り上げてしまっただけで。


 沸き上がる罪悪感を昇華させるつもりでほんの少しだけ抱きしめる力を強めれば、より直接的に伝わる震えが自らの不甲斐なさを加速させていく。


 抱えた体は女性とするには少し骨ばっていたけれど、男性とするには少し小柄で心許ない。そんな体を腕に抱き続けてどれだけの時間が経ったのか、いつの間にか嗚咽が止んでいることに気付いて腕の中を見ると、泣き疲れたらしいレオ様は無防備に体を預けたまま眠り込んでいた。


 少しは信頼されているのか、それとも警戒する余裕さえなくしていたのか。


 私は彼が限界を迎えるそのときまで彼の変化を見逃し続けていた愚か者ではあるが、ここで前者を選ぶほど図々しいわけではなくて、口の奥に広がる苦味を噛みしめながら、起こしてしまわないよう細心の注意を払って彼をベッドに横たわらせた。


 それからふと扉の向こうにいる者たちの存在を思い出し、とりあえず今日の仕事について最低限の断りを入れようと思い扉を開けると、まるでそうなることが分かっていたかのようなイーザックの声が飛び込んでくる。


「ほら出てきた」

「……聖女様はご無事なのですか?」


 長らく部屋の前で控えていたらしいハナさんから心配げな表情を向けられるが、それでも中であった出来事について詳しく伝えることは憚られて、つい誤魔化すような言葉を選んだ。


「ええ。侵入者の類ではありませんでしたので、ご安心を」


 彼女は考え得る限りで最悪の可能性が打ち消されたことでいくらか安堵した様子だったが、そうなると当然、どうして突然部屋に籠ってしまったのかという疑問が出てくる。何となく直接尋ねるべきでないことは察してくれているようではあるものの、もし尋ねられた場合にはどうはぐらかしたものだろうかと思案していると、不意にイーザックが口を開いた。


「今日は出てこられそうにない?」

「……ああ」

「そっか」


 事情を掘り返す必要さえない必要最低限の問答を済ませると、イーザックはいつもの軽い笑みを浮かべてみせた。


「じゃあ聖女様のことは任せるよ。メイドさんも、今日の仕事は聖女様のお世話以外のことをお願いね」

「わ、分かりました……」


 やるべき仕事が明らかになれば、彼女がレオ様の状態について知る理由はなくなる。普段は鬱陶しいほどに絡んでくるやつではあるが、こういう場面での察しの良さに助けられることは多くあった。恐らく部屋の中で何が起こっていたのかも、ある程度は理解しているのだろう。


 話の早い同僚に心の中で礼を言いつつ部屋に戻り、いつかのようにベッド脇の椅子に腰を下ろす。


 自分にも他人にも無関心。これまではそれで通せていた。それで許されていた。聖騎士団は部隊に関係なく強さが全てだ。命を張る覚悟と他人の命を守り通せるだけの強ささえあればそれでいい。


 人の感情の機微を上手く感じ取ろうとしない私にとって、目に見える成果が全ての価値を決めるという聖騎士団の掟はごく単純で、それなりに心地よくもあった。それにずっと、甘えてきたのだろう。


 いい加減、覚悟を決めなければ。命を張る覚悟ではない。今の私に必要なのは、目の前の誰かに一人の人間として向き合う覚悟だ。


 向き合って、ぶつかって、そうして考えなくてはならない。このあまりに幼く純粋で、この世界について何も知らないこの少年のために何ができるのか、何をするべきなのか。


 命を張る覚悟だけでは守れないものがあることを知ったこの日。雨音にかき消されそうな寝息を聞きながらただ少年の寝顔を見守ることしかできない私は、どうしようもなくちっぽけだった。


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