94話「月下のワルツ」後編
「一旦待て。嬢も落ち着け。別に相手のことが心底嫌いで言ってるわけじゃねぇんだろ」
イツキさんがそう切り出すと同時に、拗ねたように下を向いている礼央様の側には、アレクサンドラ様が付き添った。慰めの言葉をかけるでもなく、ただ隣に立つ。これも彼女なりの気遣いなのだろう。
勝手知ったる様子で仲裁役を買って出たイツキさんに対し、冷やかしのように声をかけたのはルイスさんだ。
「人間のアレコレに詳しいみたいッスけど、鬼のアンタが言ってもそれこそ説得力ないんじゃないスか?」
「お前らの何倍生きてると思ってんだ。お前らが通る問題を何周かしてんのがおれたちなんだよ。何が正解は分からなくても、何が間違いかは何となく分かる」
「イツキは偉いのう」
「ベル、分かる?」
「ベラ、分かる?」
「……個人差はあるけどな」
まるで関心がないシオン様、ベル様、ベラ様の様子を見て、イツキさんはため息混じりに付け加えた。
この場にいる亜人かつ長命種四名のうち、人間の事情に通じているのはイツキさんのみ。そうなると個人差どころではなくイツキさんが少数派なだけなのではという考えがよぎったが、口にするよりも先に、イツキさんが咳払いを合図として問題の解決に取り掛かる。
「そもそも互いの話が食い違ってるんだよ。嬢は赤髪が自分のことを替えの効く道具扱いするのが嫌だって言ってんだろ。だが赤髪は何も自分の代わりを探せって言いたいわけじゃねぇと思うぜ」
どうにも話が噛み合わないとは思っていたが、どうやらその点に誤解があったらしい。認識の違いに気付いた礼央様は少し驚いたように目を丸くしたが、またすぐに不満の滲む顔になった。
「つっても、嬢からすれば自分の身代わりとして毒飲んだやつにどうこう言われるのも腹立つだろ。今の今で他のやつを頼れなんて言われたら、お前がいなくなったときの代わりの話だって思い込むぞ」
イツキさんがそう続けると、礼央様はそれに同意を示すように何度も頷いてみせる。
私と違い、自分の気持ちを言語化することが得意なはずの礼央様がその役割を人に委ねるということは、つまりそれだけ冷静さを欠いていたということだ。そしてその原因は私にある、ということらしい。
「三十そこらなんておれらからすれば餓鬼同然でも、お前らにとっては大人なんだろ。大人として子どもを諭すなら、まずは行動で示せって話だ」
「二十二です」
「餓鬼じゃねぇか。今する訂正じゃねぇだろ」
「十六だって大人です」
「子どもですわ」
「二つしか違わないのに……」
礼央様が不貞腐れたようにそうこぼすと、様子を見ていたニーナさんが小さく苦笑いを浮かべるのが見えた。
この場において最も幼い礼央様を取り巻く眼差しは、彼が思っているよりもずっと優しく、穏やかだ。俯いてドレスの裾を見ている礼央様は、果たしてそれに気付いているのだろうか。
「この世界は、貴方様が思っているほど敵だらけではありません。礼央様は少しずつ、ご自身の力で味方を勝ち取ってきたはずです」
「何人いても関係ありません。他の人押し付けて、じゃあいいよねって別のところに行かれる可能性があるなら、フィリップさん以外の味方なんていらないって言ってるんです」
まずは自身の味方の存在を知ってもらおうと声をかけるが、突きつけられたのはアレクサンドラ様に不平を漏らしたときとは違う、明らかな拒絶を滲ませる声だった。
普段の礼央様は、誰も傷つけない言葉選びを心がけていたのだろう。そう気付かされる程度には直接的な言葉だ。
イツキさんの援護で誤解は解けたはずだというのに、何故か礼央様は未だに私が私の代わりを用意しようとしていると思っているらしい。一体何がそこまで彼の意見を固めてしまっているのだろうかと訝しむ私をよそに、アレクサンドラ様はさりげなく礼央様の発言を訂正する。
「わたくしは彼の代わりになるつもりで貴方の味方になったわけではありませんわよ」
「それは……分かってる。ごめん」
少なくともアレクサンドラ様の隣で言うべきことでないという自覚はあったのか、礼央様は素直に謝罪を口にした。
アレクサンドラ様も、ハナさんも、イーザックも、私の代わりにはなり得ない、しかしそれぞれの形で礼央様の味方となってくれる人々だ。
彼らと私を分けるものといえば、それは礼央様の秘密を知っているかどうかという一点のみ。それ故に私一人にこだわっているのだろうかという考えから、少し違う視点から声をかけてみることにした。
「全てを明かさずとも、貴方様の味方は、貴方様の呼びかけに必ず応えます。礼央様自身が助けを呼ぶことを拒まない限り、必ずです」
「応えてくれなかったじゃないですか」
国内外に多くの味方を持つ礼央様の声が誰にも届かず、誰の手も差し伸べられないことなどないのだという意味を込めて言うが、返ってくる声はやはり冷たい。礼央様からここまで強く拒絶されたことは初めてで、どう声をかけたものか迷っている間に、礼央様は追撃となる言葉を放つ。
「……フィリップさんは絶対助けてくれると思ってたのに」
小さな声だった。今にも消えそうな、震えと諦めを含んだ声。それを聞いて初めて、ようやく理解した。
彼がいつまでも、私が私の代わりの話をしていると誤解していた理由。それはそもそも、事実の結びつきから来る誤解などではなく、決定的に彼の信頼を欠いてしまったことから来るものだったのだ。
思い返せば、そうだ。それだけのことをした。礼央様のことは死なない程度に守る。あの命令に背かずいられたから問題ないというのは、結果論でしかない。私が寝ているうちに、礼央様は揺らぎ始めた「絶対」を抱え続け、応じる声のない救援要請を何度も何度も唱え続けていたのだろう。
絶対に助けてくれる。そう思っていたはずの人間が真っ先に姿を消したというのに、どうして他の味方に助けを求めることができるだろうか。
安寧を壊した。訪れた絶望に、次があるかもしれないと思わせてしまった。
そんなものを、彼への裏切りと言わずに何と言うのだろうか。
「……申し訳ございません。他に……思い浮かばなかったのです。どうすれば礼央様を確実にお守りできるのか、知恵を絞った末の決断でした」
気付けば、情けない声で謝罪をひり出していた。礼央様と私のグラスを入れ替えたのは、上からの命令であり、従う義務がある。そうでなくとも私には断る理由などないと思っていた。
違ったのだ。断る理由はあった。命令に背かずいられるかは関係ない。礼央様が傷つくから。たった一言、それだけで足りたはずだというのに。
「お嬢、こういうの何て言うんでしたっけ。爆発上等みたいなあれッス」
「本末転倒ですわ」
謝罪と、隣で繰り広げられる緊張感のない会話を挟んだことで、礼央様もようやく少し落ち着きを取り戻したのか、今度の声は先ほどよりもずっと柔らかい。
「……無茶な真似したのは、わたしも悪かったと思ってます。でも、あんなことした人に言われても説得力ないので。わたしが言っても説得力はないでしょうけど」
それは本当にそうだと思ったが、さすがに口に出すことはしない。全て自分に跳ね返ってくることが分かっていたからだ。
目の前に据えられた、澄んだ緑を見て思う。彼はまた一つ、不必要な強さを重ねたのだと。
「わたしの心配返せとは言いません。返さなくていいですから、もうあんなことしないでください」
「ええ。肝に銘じておきます」
そんな言葉で締めくくると、どこからか安堵のため息が聞こえてきた。ニーナさんか、もしくは周囲の聖騎士たちだろうか。礼央様が激昂する姿というのは、彼らからすればかなり心臓に悪い光景だったのだろう。
「敵に塩を送るとはのう」
イツキさんへの労いの代わりに、シオン様は奇妙な表現を口にする。案の定、イツキさんは意味が分からないという顔でシオン様を見つめ返した。
「別に敵でも何でもねぇだろ」
「友を取られて拗ねておらぬのか?」
「取られたって何だよ……そんなんで敵なんて思わねぇっての」
イツキさんがどこか鬱陶しそうに言うと、シオン様は微かな笑みを浮かべて目を伏せる。それから、風に攫われてしまいそうな声で静かに言った。
「そうじゃな。友は大切にするものじゃ。お前はそれでいい」
真意の読めないそれに怪訝そうな顔を浮かべたイツキさんだったが、子どもを可愛がるように彼の頭を撫で回す手の存在に気を取られ、その口から疑問が飛び出すことはなかった。
「聖女様……ああ、レオ様」
和やかな空気の中にまたも聞き覚えのある声が割り込み、そちらを見やる。するとそこには、やはり少し疲れた様子のイーザックが向かってきていた。
聖女関係者に目配せで最低限の挨拶を交わしてから、礼央様の元までやってきたイーザックは本題に入る。
「グステル・エーレンベルクが話をしたいと。本当に行かれるおつもりですか?」
これだけ聞けば今回の実行犯からの無茶な要求として映るが、しかしグステルからすれば正当な主張である。何故なら、彼女と二人きりで話す機会を設けると言ったのは他でもない礼央様なのだから。
恐らくは土壇場で必要な状況を引き出すために掲げた咄嗟の提案。だがそれを理由に約束を反故にする方でないことは、私たちが一番よく知っている。
「約束しちゃいましたから、ちゃんと応じます。完全防備で行くので大丈夫ですよ」
私たちの懸念を感じ取ったのか、自慢げにそう付け加える礼央様。彼の完全防備というと、それはそれでずいぶんと攻撃的になりそうで不安になるのだが、それを口に出すよりも先に、礼央様がこう続けた。
「何より、わたしが話してみたいんです。人から恨みを買うような真似をした覚えはありませんし、あの人がわたしを狙った理由に正当性があるのかくらいは知っておきたいじゃないですか。正当性がないならないで、文句の一つも言っておかないと気が済みませんから」
二つ返事で送り出すわけにはいかないとはいえ、当の本人がこう言っている以上、私たちに止める術はない。イーザックに目をやるが、これはもう無理だと言わんばかりに首を振られてしまった。私も同意見である。
「……今度は殴らないでくださいね。結界と防御魔法は解かないこと。何かあればすぐに僕たちを呼ぶこと。これが絶対条件です」
「『今度は』って何ですか。まだ一回しか殴ってませんよ」
「十分です。最近ちょっとフィルに似てきたんじゃないですか?」
疲れた様子のイーザックからそう言われ、礼央様は言葉を詰まらせる。私の位置からでは礼央様の表情は見えないが、イーザックが呆れたような顔をしているのを見るに、どうやら彼にとって好ましい反応ではなかったらしい。
「……何でちょっと嬉しそうなんですか」
理由の説明を求めるようにこちらを見られたが、私にもよく分からないため、小さく肩をすくめておいた。




