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12話「礼央とアンネと」前編


「支度をするお時間になっても、聖女様が出ていらっしゃらないんです!」


 部屋から出てこない。そんな報告を受けてイーザックへ目をやると、先ほどまでの軽い雰囲気など微塵も感じさせない真剣な表情が返ってきた。


 これが騎士学校の生徒ならばまだいい。寝坊か、そうでなくともせいぜい体調不良として教官からしごかれて終わりだろう。


 しかしここにいるのはただの庶民ではなく、一国の聖女と呼ばれる方だ。何かあったとすれば一大事である。


「聖女様、アインホルンです。何かございましたか?」


 念のためそう呼びかけてみるが応答はない。中に第三者がいる気配もないが、仮に外部からの侵入者だとすれば、既に連れ去られている可能性もある。作法に則っている状況でないことは明らかだった。


「合鍵は持っていますか」

「一応……」

「お借りします。私がお話を伺ってみますので、部屋には入らずお待ちください」


 早口でそう言いながら、イーザックに目配せをする。有事の際、上への連絡と使用人の彼女の避難を任せたいという意味が正しく通じたかどうかを確かめることもせずに合鍵を差し込み、部屋の扉を開け放った。


「聖女様、失礼いたします」


 やや警戒しながら部屋に足を踏み入れるが、荒らされた形跡はなく、窓もきちんと閉じられている。レオ様の姿はないが、ベッドに人が包まれていると思しき盛り上がりがあるのを見るに、外部からの侵入者という線は薄そうだ。


 そう判断してから、念のため扉に消音の魔具を取り付ける。これを付けたのはいつぶりだろうかと思いながらも記憶を辿ることはせず、部屋の中央に置かれたベッドへと歩み寄った。


「レオ様、どうかなさいましたか」

「……すみません」


 聞こえてきたのは久しく聞いていなかった魔具を通さないレオ様の素の声。しかしその声は、以前聞いたときよりもずっと暗く、沈み込んだような声色だった。


 声色以外に異常は見られないが、もしや体調でも悪いのだろうか。


「ご気分が優れないようでしたら、そう伝えてまいりますが」

「……そういうわけではないんです。すみません」


 体調を崩しているわけではないと言いつつも、それ以上の説明はない。顔が見えないためにその言葉の真偽を確かめることすらできないのだが、しかしここで無理に追及したところで逆効果だろう。どうしたものか決めあぐねていると、私が結論を出すよりも先にレオ様が動いた。


「……一時間だけ、待ってもらえませんか。そうしたらまた、いつもみたいに戻りますから」


 イーザックの言葉を聞く前の私なら、その言葉に不安を抱きつつも部屋を後にしたことだろう。そうしてきっかり一時間後、いつも通りのレオ様と顔を合わせて安堵するのだ。


 しかし、束の間イーザックと言葉を交わし、自らの内に蠢く違和感の存在が明確になった今、私にその選択はできそうにない。抱えた違和感の正体が明らかになっていないまでも、ここで彼の言葉に従って部屋の外に出るべきでないことくらいは分かるのだ。


 よもやこのような形で彼の助言に従うことになるとは思わなかったが、早々に手詰まりになった私は最終手段に出ることにした。


「差し支えなければ、理由をお聞かせいただけますか。私は人の感情の機微に疎いもので、何かお気に障ることをしてしまったかもしれません」

「……違うんです。アンネさんが悪いんじゃなくて……俺の、わがままで」


 彼はなおも頑なに私の言葉を柔らかく否定するが、その先に潜む彼自身の本音については明かしてくれないようだ。わがまま、という言葉を引き出すことはできたものの、それだけの手がかりで察することができるようなら、最初からこうして直接尋ねるようなことはしていないのだ。


「お聞かせください。私は今、そのためにここにおります」


 怯える野良猫に話しかけるような声色でそう告げると、レオ様はほんの少しだけ身じろいだ後、小さな声で自らの胸中を明かしていく。


 彼の口から零れ落ちたのは、私には想像することすら叶わなかった、彼の本音だった。


「……『聖女様』って、呼ばれたくなくて」


 彼の告白に呼応するように、窓に雨粒が落ちる音が部屋に響く。

 それくらい、部屋は異様な静けさに包まれていて、それ故に近頃は埋もれがちだった彼の声がよく響いた。


「この世界の人たちにとっての俺は聖女で、それ以外の誰でもないのは分かってるんです。でも、本当の俺はただの高校生……庶民で、男で、聖女様なんて呼ばれるような人間じゃないんですよ」

「──嘘をつくことに、疲れてしまいましたか」

「……そんな立派なものじゃないです。もっとずっと、自分勝手な理由で」


 問い詰められるたび、物陰に隠れるかの如く小さくなっていく彼の声さえ、静寂は残酷に拾い上げてしまう。ただ黙って続く言葉を待つことしかできない私の息遣いも。


「……聖女様って呼ばれるたび、レオ・ウサミを名乗るたび、俺の中からどんどん宇佐神礼央が消えていくんです」


 レオ様が来てから、この国における「聖女様」はいつ来るとも知れない希望を表すものではなく、今ここにある希望を表す言葉として機能してきた。


 だがこの一か月で、彼のことを名前で呼んだ者がどれだけいただろうか。


「自分のことを『わたし』って呼ぶことに慣れるたび、どんどん『俺』が薄れていく」


 この一か月で、彼が一人称すら偽っていることに気付いた者がどれだけいただろうか。


「声だってそうです。俺はもう、元の声にすら違和感を抱き始めてる。……本当の俺の声は、これなのに」


 この一か月で、彼の本当の声を知った者がどれだけいただろうか。


「珍しかった髪や目の色が普通になって、代わりに普通だった名前が珍しくなった。元の世界じゃ男として生きてきたのに、ここじゃ女の子として扱われてる。特別が普通に塗り潰されて、普通が特別に塗り替えられる感覚を、当たり前みたいに受け入れられていることが怖いんです」


 この一か月で、彼の髪や目の色を珍しいと言った人間がどれだけいただろうか。


「……この世界で俺が生きていくために、嘘が必要なのは分かります。でも俺は、元の自分も見失いたくはない。日本の男子高校生で、友達から小柄を揶揄われるたびに怒って、変わった髪や目の色を羨ましがられたり疎ましがられたりしていた宇佐神礼央を……向こうの世界に置き去りにはしたくないんです」


 この一か月で、彼がこんな思いを抱えて笑っていたことに気付く人間がどれだけいただろうか。


 他の誰が知らなくても、他の誰が気付かなくとも、私は本当の彼を知っている。少なくとも、他の人間よりは知っているはずだった。


 それなのにどうしてここまで、彼の変化を見過ごすことができたのだろう。転げ落ちていくものを受け止めようともせず、どうして彼の隣に立ち続けることができていたのだろう。


「……どうして、そこまで」


 誰にも言わずに、私にすら打ち明けることなく、来てしまったのか。


 そんな意味を込めて尋ねるも、その限られた言葉から正しい意味を推察することは困難だったと見えて、問いかけに対する返答は、本来の地点からは少しずれた場所に着地する。


「……だってもう、『俺』しかいないから」


 震えを伴うことはあれど、涙が滲むことがないその声は、淡々としていると表すにはあまりに頼りなく、しかし動揺していると結論づけるにはあまりに冷静だった。


「当たり前に元の世界を知ってて、俺の家族や友達のことを知っている人間は、こっちの世界にはもう『俺』しかいないから」


 そこまで説明されて、ようやく理解した。


 私たちはこの方を、聖女にしてしまったのだ。


 本当の彼自身から目を背け、こちらの都合を押し付けて、そうして押し潰してしまっていたのだ。応える義理などないはずだというのに、彼はそんな期待に応えようと、これまで踏ん張ってきたのだろう。そうしてとうとう、限界が訪れたのが今なのだ。


 体を起こし、ようやく露わになったレオ様の表情というのは、目を逸らしたくなってしまうほどに痛々しく、こちらに気を遣う余裕などないことは一目瞭然だというのに、それでも彼は笑ってみせた。


 この、彼にとってただただ理不尽なだけの世界に対して。


「……すみません、お仕事中でしたよね。一時間経ったら行きますから、ハナさんにも今日の支度は自分でやるって伝えてください。後からちゃんと、謝っておきます」


 後では駄目だ。今でなければ。


 今この瞬間を逃せば、もう二度と彼に──宇佐神礼央様に会うことは叶わないだろうという確信が、私をこの場に押し留めた。


「……レオ様。今からの言葉は聖騎士としてではなく、一人の人間の言葉としてお聞きください」


 届くかどうかは分からない。何かが変わるという保証もない。それでもここで部屋を出るという選択肢を取り上げられてしまったら、言葉を紡ぐ以外にすべはなかった。


 呼吸を落ち着け、全神経を目の前にいる彼の息遣いや表情へと集中させる。私がこれまで見逃し続けたものを、一つ残らず拾い上げるつもりで、聖騎士でないただの私は話し始めた。


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