87話「一人より二人」
宥めるのが本当に大変だった。
メイドのハナのことではない。頭を打っているのに自分で歩くと言って聞かず、背中と膝裏に手を回すというかなり気遣った横抱きを全力で拒み続けた聖女様のことである。
折衷案として、駆けつけた聖騎士の中で魔法が使える者全員の無属性魔法で浮かせながら運搬してはどうかと提案したところ、こちらはあっさりと承諾。
そのようにして処置室に運ばれてきた聖女様は今、すっかりいい子になって治療を受けている。これだけ見れば、聖騎士の「抱っこ」を拒むために結界まで出した人とは思えない素直ぶりだ。
あそこまで嫌がるあたり、もしや人から触れられるのが嫌なのだろうかとも思ったが、治療のために額に触れると説明したところ、今回は暴れることもせず大人しく触られてくれた。
いよいよ本当に分からない人だと思いながら、水属性魔法での治療は恙なく終了。感触からして少しこぶができた程度だが、魔法をかければすっかり元通りだ。
「はい、痛いところはあります?」
「大丈夫です」
「呂律が回らないということは?」
「早口言葉もいけますよ。隣の柿はよく客食う柿だ」
得意げな顔と共に放たれたのは、何とも言いにくそうかつ珍妙な言葉。十中八九聖女様の故郷の言葉なのだろうが、これまでに聞いたどれよりもおかしな響きである。
「……何です?」
「早口言葉『人食い柿』です。わたしの故郷にあるんですよ、そういうの……」
思わず尋ねると、聖女様は何故か気まずそうに目を逸らしながら言う。どうやら通常運転のようで安心した。経過観察は必要だが、これならそこまで心配する必要もないだろう。
「じゃあ気持ち悪かったり、体調がいつもと違ったりってことはありませんか?」
「今のところ大丈夫です。駄目そうなときは言いますね」
「そうしてください。思いっきりやられてましたけど、舌は噛んでませんか?」
早口言葉とやらが言えるなら無事だろうと思いつつ聞いてみると、聖女様は可愛らしく舌を出してみせる。フランに変装していたときの名残で彼女と同じ礼装に髪型ということもあり、まるで彼女の妹のように見えて、思いのほか和んでしまった。何にせよ、これなら心配はいらないだろう。
「それでは、ドレスに着替えてから会場にお戻りください。ここからの護衛はフランツェスカが担当します」
「イーザックさんじゃないんですか?」
「僕はこれから聖女様を宙に浮かべて運搬した件の釈明に追われる予定があるので。団長直々のお呼び出しなんて、光栄すぎて倒れそうですね」
「うっ……すみません」
さすがにあれだけ暴れた結果となると責任を感じてしまうのか、申し訳なさそうに縮こまる聖女様。
彼女は常日頃から魔法絡みの騒動を起こしているのだから、今さら空中浮遊で移動させたという報告が入ったところで、それは今日も空が青いですと報告されるのと何ら変わりはない。
さすがに犯人を殴りましたという報告となれば、モグラが空を泳ぎましたという程度の驚きは提供できるかもしれないが、それも呼び出しを食らうほどではなかった。
僕の冗談めかした嘘には気付かず、聖女様は落ち着かない様子で処置室の一角に目をやる。仕切り布で隠されてはいるが、見ているのは布の向こうにいるフィルなのだろう。
てっきりここまで来たら少し話していくかと提案されることを期待していたのか、聖女様は少し控えめに尋ねてくる。
「今って、話せたりしますか? 解毒薬は飲ませたんですよね」
当然の問いかけだった。今までフィルの様子を聞いてこなかったのは、事件の捜査中だったからだろう。無理を言った自覚があるだけに、フィルの容態をいちいち尋ねることに抵抗があったのかもしれない。捜査が無事に終わった以上、聖女様の関心ごとはフィルが回復するかどうかということになるのだろう。
分かっていても、会わせるわけにはいかなかった。
「今会わせると起き上がって護衛に加わりかねないので、パーティーが終わるまでは我慢していただけると助かります。彼のことは僕たちに任せて、聖女様は聖女様の役目を全うしてください。いい子にしてたらフィリップが迎えにいきますからね〜」
「わたしのこといくつだと思ってるんですか……じゃあ、お願いします」
僕の言葉に不満を覚えたのか、それとも訝しんでいるのか。聖騎士と使用人に連れられて処置室を後にした聖女様を見送り、フィルが寝ているベッドの仕切り布を開ける。
そこには、先ほどの会話を聞いていたのか、何か言いたげにこちらを見つめる助っ人の姿がある。
「お待たせしました。パルマさん」
「いえ……ウサミさんに話さなかったんですね」
「確証を与えたくないんです。薄々気付いてはいるみたいですから」
言いつつベッドの上の友人に目をやると、微かな呻き声がそれに答えた。
解毒薬は飲ませたはずだというのに、症状は未だ改善が見られず、それどころかむしろ悪化しているようにも見える。
もちろん医者には診せたが、彼も毒物の専門家というわけではない上に、状況が特殊すぎるあまり、下手に手を出さずに自然回復を待つほかないだろうと言われてしまった。
そもそも、同じ毒で症状が出たヘルミーナというメイドが解毒薬を飲ませて回復している時点で、フィルが今なお毒に苦しめられているこの状況というのは不自然なのだ。毒の種類が違ったのか、それとも他に何かしらの例外要素があったのか。
それを解明するために同僚の聖騎士が連れてきたが彼女、ユーデルヤード共和国代表者のパルマさんだ。
しかし聞いたところによると、彼女の専門は生物、それもエルフや精霊が対象のため、人体にも毒にもそれほど詳しいわけではないのだという。
とはいえここで「それなら用はないのでお帰りいただいて結構」などと言えるはずもなく、少なくとも僕よりは知識があるはずという期待の元、こうして解毒薬が効かない原因究明に尽力いただいているというわけだ。
かなり無理な要求をしている自覚はあるが、パーティー終了までという期限を設けた以上、彼女には何かしらの手がかりを得てほしいところである。
「身近な人間がこんな状態にあれば、嫌でも最悪を想定するでしょう。その中のいくつかが、たまたま的中している。そんなところだと思います。そういう最悪を減らすのが僕たちの仕事なんですが、力及ばず、こうして手伝っていただいてしまって」
「気にしないでください。ウサミさんには、聖女集会ですごくお世話になったので……こうして代表者を続けていられるのも、ウサミさんのお陰なんですよ」
パルマさんが語ってくれたのは、聖女様からも、ましてやフィルからも聞いたことのなかった聖女集会での話。詳しく聞きたい気持ちもあったが、尋ねる間もなくパルマさんの表情に影が差し込んだ。
「……それに、ウサミさんのことも心配ですから。ウサミさん、自分が毒を飲んだみたいな顔してましたよね」
「自分の責任だと思っているようでして。状況からして、そう思うのも仕方のないことかもしれませんが」
「そんな、アインホルンさんが毒を飲んだのはたまたまじゃないですか。ウサミさんのせいなわけありません。アインホルンさんだって、毒を飲みたくて飲んだ訳じゃないんですから」
当然の如く飛び出した言葉に、ほんの一瞬、目眩を覚えた。
そうなのだろう。そうなのだ。彼女たちの国では、きっと。
そう思った次の瞬間には、余計なことを口走っていた。
「……ああいう手筈だったんです。最初から」
仕切り布に防音の魔具を取り付けておいてよかったと思う。聞かれていたらまず間違いなく止められていただろう。そのくらいの、機密とも呼べるような事実だ。
国家の腕の中で守られながら、国家のために消費される民の話。それが最初から、パーティーの計画に盛り込まれている。
フィルはきっと、望んでいるわけではなかった。毒が入っているかもしれない飲み物を口にすることなど。
「適当な理由をつけて、聖女様のグラスとフィリップのグラスを交換するようにと」
だが、拒んでもいなかった。この作戦の説明を受けたとき、彼は何の望みも口にせず、指示ならと受け入れた。
信頼ではない。ただ命じられたからそうしたのだ。
代わってくれと言ったら、彼はそれも聞き入れただろうか。もしかするとそれは拒むかもしれない。そんなことは指令にないからと。
乾いた声で言うと、そこからはしばらく沈黙が続いた。ややあって、何も言わずにいるわけにはいかないと思ったのだろう。独り言めいた感想が漏れた。
「……そんな……身代わり、みたいな」
「こういう万一のための対策だそうです。僕たちが隅々まで目を光らせておけばこんな事態にはならないだろうと。それは至極もっともですし、聖女様が毒を飲む事態だけは避けなければならないのは本当ですから、こういう対策を取るのは分かりますよ」
言いつつ、聖女様の顔が頭に浮かんだ。フィルが倒れたときの、まだ現実を飲み込めていない顔。記憶にある彼女は、そこから次第に状況を理解し、青い顔を隠すこともせず指示に従っている。
「……分かるんですけどね」
僕たちは、聖女を守るためだけに聖女を守っているわけではない。
僕たちの目的はあくまで国を守ること。そのための手段たる聖女を守るのは、騎士が剣の手入れを怠らないことと同じことだと、知っている。
知っていても、どうしようもなく彼女は人間だった。
一度目を閉じ、それから瞬きよりも少し長い時間を経てから開く。それから、何事もなかったかのように尋ねた。
「何か分かりそうですか?」
「あ、えっと……はい……実は、一つ仮説があって……」
「聞かせてください」
戸惑いながらも答えになるかもしれない仮説を一つ導き出したパルマさんは、少しの間を置いて、先ほどよりはっきりとした口調で説明を始める。
「……鑑定魔法を弾いたっていうのは、入ってた毒が消えた可能性以外に、もう一つあります。鑑定魔法は魔法をかけた物が何て呼ばれているかとか、とにかく発動した対象に関する情報を見られますよね。砂糖と水を混ぜたら、砂糖水とか。でも、毒については複雑ですから、別の物質が混ざったことで名前のない物質に変わって、鑑定魔法を弾いたのかも。あの飲み物には、他にもいろんなものが入ってましたから、こうしてあのときと同じものを用意して、鑑定魔法をかければ、毒は検出されないはずです」
パルマさんの仮説を裏付けるために、フィルが飲んだ飲み物を再現したらしいそれにもう一度鑑定魔法をかける。するとパーティー準備のときによく聞いた「パーティーの飲み物」という名前が表示され、その後にあの飲み物に入っていた飾りなどが残らず検出された。そして最後に、この数時間で何度か目にした物質の名前が加わる。
具体的に述べるなら、今回の毒殺未遂で使われた毒物の名前である。どうやら、毒を氷で封じるというやり方までは再現していなかったようだ。
「……毒、ちゃんと出てますね」
「えっ、あ、す、すみません……そうですよね、それならそもそも毒物検査なんてしないでしょうし」
「いえ、そこまで的外れな指摘というわけではないと思いますよ。新しい可能性に気付けたのは収穫です」
毒を入れた手段が明らかになった以上、今さら毒の種類を見誤っていたという可能性はあまり高くない。パルマさんの言う説が核心を突いているというのもあり得ない話ではなかった。
「そうなると、解毒薬が効かなかった理由には、そもそも毒の認識が誤っていたという他に、毒と別の物質が混ざったことによって性質が変化した可能性があるということですね」
「そうです。ただ、もし毒が別のものと結びついて変化しているんだとしたら、解毒の方法は簡単に見つからないかもしれません。もしも……」
難しいとは言いつつ、何か策があるらしいパルマさんは何かを言いかけたが、続く言葉が放たれることはない。不自然に思い、話の続きを促そうと彼女に目をやれば、パルマさんは何やら真剣な顔で考え込んでいた。
「……もしも?」
「──違う毒同士を混ぜたら、どうなるんでしょう」
返ってくるのは全く意味の通らない答え。もはや僕の言葉など聞こえていない様子のパルマさんは、また物思いに耽ったのち、唐突な質問を投げかけてきた。
「もし毒が複数混ざっていたとして、犯人は最初から二つの毒を組み合わせたと思いますか?」
「まぁ……毒を強めすぎないためならあり得るかと。聖女の飲み物に毒を盛るとしたら、目的は暗殺よりも拉致のはずです。……あまり言いたくはありませんが、利用価値がありますから。聖女には」
「……嘔吐」
彼女が短く呟いた単語が、中毒症状の一つだと理解するのに、少し時間を要した。その僅かな時間の間にも、パルマさんは上手く聞き取れないような声で独り言をこぼしながら、自らの考えを整理していく。
「意識障害、呼吸障害、拉致に必要? かえって足手まといになる。警備も厳しくなるはず。体調不良を装って別室に移動させるなら眠らせるだけでいい……」
専門に関わらず、これが研究者の性質というものなのだろうか。どうやら人と話すことが得意でないらしい彼女だが、論理を組み立てるために口から漏れ出る語り口調はかなり滑らかで、それが彼女の頭の回転速度が決して遅くないことを示しているようだ。
「複数の毒を使う利点、何かある? 毒性の調整は手間の割に得られるものが少ない。代用もできる。打ち消し合う毒を使って時間をずらすため? それができるならあんな複雑なやり方は選ばないから……」
長い長い独り言が終わる頃、ひとまず思考の整理がついたらしいパルマさんは、恐る恐るといった様子で顔を上げ、元の内気な彼女のままでこう提案してきた。
「あの、フォーゲルさん。すぐに会場の聖騎士の方に連絡して、現場近くの絨毯を調べてもらえませんか? まだ少し飲み物が染み込んでいるはずですし、もし混ざっていないところがあったら、何か分かるかもしれないので……」
「分かりました。すぐに手配します」
パルマさんの口から詳細な目的は語られなかったが、その前に聞いた独り言から、大体の予想はついた。何にせよ、まずは彼女の仮説が正しいかどうかの検証が最優先である。
会場にいる聖騎士の中で最も話が早い者となると、やはり彼女だろうということで、僕は迷わずフランに連絡を取った。
軽く事情を話したところ、ちょうど聖女様の支度を終えて会場に戻ったとのことで、二つ返事で了承。こういう状況下では、立場が近い者同士の方が話が早く進むのだ。
「どう? 何か分かった?」
『やっぱり、現場から出るのは飲み物だけだよ。毒すら検出されない。事件が起きた後にもかなり調べてあるし、ついさっき軽く洗浄されたりもしたみたいだから、ここから手がかりを得るのは難しいんじゃないかい?』
事件解決の知らせが出回るのが早かったせいか、既に手がかりは洗い流されてしまったらしい。余計なところだけ迅速な対応に、思わず出かけた舌打ちを封じ込めたそのとき、魔具越しにフランではない声が割り込んできた。
『フィリップさんの服とかはどうですか?』
聖女様である。突然持ち場を離れたフランを不審に思い、ついてきたのだろう。
捜査を継続していることが知れた以上、フィルが完全に回復していないことはバレたも同然。しかし魔具の向こうの聖女様は、冷静に自らの意見を述べていた。
『あのときはまずグラスを落として、飲み物が床に散らばって、それからフィリップさんが倒れてましたよね。それなら服に飲み物が染みてる部分もあるかも』
聖女様の言葉を聞き終えないうちに、ベッドに横たわるフィルから寝具を剥がす。既に乾いているらしい服から染みを見つけることはできなかったが、彼の服に鑑定魔法を通すと、それまで見えてこなかったある単語が視界に浮かんだ。
「パルマさん、ユートルフトシウムです。これ調べれば、解毒の手段も見つかるかもしれません。すぐにこの名前を調べて……」
「……ユートルフトシウムは、大陸全土に生息する、猛毒を持った毒草の名前です」
言い終わる前に僕の言葉を遮ったのは、何か神妙な面持ちのパルマさん。彼女の専門は生物分野と聞いていたが、植物にも詳しいらしい。いや、今はそんなことを考えてる場合ではなく。
「もう一つの毒は毒性がかなり弱くて、飲んでもせいぜい気持ち悪くなったり、眩暈が起きたりする程度なのに……」
犯人は捕まった。あとはフィルの容態が回復するよう、力を尽くすだけ。そう思っていた。そんな甘い考えを、青ざめたパルマさんの表情が否定する。
「……その二つの毒……本当に同じ犯人が入れたと思いますか?」
彼女の言葉を否定した途端、生まれるのは想定していなかった最悪。事態が再び転げ落ちていく感覚を覚えながら、とにかくフランに知らせなければと再び魔具を取る。
だが、魔具の向こうから聞こえたのは、楽しげなパーティー客の笑い声などではなく、耳をつんざくような悲鳴だった。




