江戸の幕末おにぎり屋
江戸の街中に、小さな屋台が出ていた。店をやるのは背中の丸まった老人で、看板がわりの赤い提灯には『おにぎり』とだけ書いてあった。
提灯にある通り、この屋台で売っているのは『おにぎり』だ。三角形で僅かな具を入れ、醤油を塗って香ばしく焼いた『焼きおにぎり』。具は三種類で、梅とおかかと鮭である。
注文が入れば、焼きおにぎりとお椀に注いだお茶を出してやる。お茶でおにぎりを流し込むも良し、おにぎりを浸して茶漬けにするも良しの人気商品だ。
そして夜は少し様子が変わって、お茶の代わりに梅の種とおかかの端と鮭の骨で取った『だし汁』が出て来る。そこにパリパリに焼いた鮭の皮を乗せて湯漬けにするのがまたオツなのだ。
「はぁ~~」
そんな老人の屋台の正面に、背の低い男が持ち込んだ酒を飲みながらため息をついていた。
「なんでぇ勝の旦那。景気の悪ぃ顔は家でやってくんな」
「いや帰れるもんなら帰ってるけどよ、帰れねえのよ」
「なんだい夫婦喧嘩かい?」
「おお、かみさんがもう怒り狂っていてよ。昨日なんざオイラめがけて包丁が飛んできたぜ」
「そりゃ穏やかじゃねぇな。何やらかしたんでぇ旦那」
老人の質問に、男は目を逸らした。何やらモゴモゴと喋り、要領を得ない。
「なんでぇ聞いて欲しいんじゃねぇんですかい?」
「あー、そのなんだ。…………ガキが出来たんだよ」
「……めでてぇじゃねぇですかい」
「……かみさんにだったらな……」
「あ、そりゃ旦那が悪ぃや。大人しく刺されて来るといいですぜ」
「そりゃねぇだろ。人斬りにゃあ飯を出さねぇ店が、オイラが斬られんのはいいのかよ」
老人はため息をつきながら、男に鮭の湯漬けを出した。
「旦那が幕府でどんだけ偉ぇか知りやせんがね、家ん中で一番偉ぇのはかみさんでさぁ」
「まぁ、『神さん』ってくれぇだからな」
「ですからね、誠心誠意謝ってキッチリ頭下げて!…………刺されてきなせぇ」
「……結局刺されてんじゃねぇか。…………ぃよし!オイラも男だ!いってくらぁ!」
「生きてたら、湯漬け一杯奢りやすよ」
男は湯漬けを勢いよくかき込んで、鼻息荒く家へと帰って行った。
◇
翌日、老人の屋台の正面には、顔を青アザと引っ掻き傷だらけにした背の低い男が、なんとも痛そうに湯漬けをすする姿があった。