荒野と氷
*天歴985年 人間領 スレイン王国 シャケル*
スレイン王国のシャケルの外れの土地にリンカーワルドという名前が付けられた荒野があった。
その荒野は、スペリア王国領の入り口であるウェラスト山に繋がっており、その山を越えればランディア村にたどり着く。
ただ、リンカーワルドは広く、歩いて一週間ほどは何も岩と土だけしかないため、ここを通る人はおろか、魔物はいることはほとんどない。
しかし、その日は珍しく、人もそして魔物もその荒野にいた。
「ちっ、男とガキは逃がしちまったか……」
銀色の体毛を持った狼は人の言葉を使って呟く。
その狼の体は、熊をよりはるかに大きく、その四つの足はそれぞれが巨木より太い。
口には、僅かに傷痕が残っていたが、狼は特に気にしている様子はなかった。
「この人間で遊ぶのも飽きたし、追いつけるといいんだが……」
近くにいる四肢を失った女性を尻目に、狼は土の上にできている血痕の先にいる男性と少年との距離をその優れた嗅覚によって測る。
今から追いかければ、彼らに追いつき、食事をすることもそう難しくはない。
だが、このときの狼には、ある時間制約があった。
「……ちっ、これ以上道草を食っていると、あのエルフに何言われるかわかったもんじゃねえし、そろそろ戻る……」
「いえ、その必要はありません……」
「!」
狼は驚きを持って振り返る。
そこには、金色に銀の髪がところどころ混じり、腕には包帯を巻いたエルフが立っていた。
「ち、違うんだ……あんたの命令に逆らおうとしたわけじゃない、だから……!」
その気になれば一飲みできるであろう体格差がありながら、狼はエルフを恐れるように下がる。
一方のエルフは、狼の遊びによって、手足をもがれ、ぐったりと動かなくなった女性を見て、僅かに眉を顰めた。
「弁明は、いりません……あなたが行った行動は……すでに月の石記に記されていましたから…………」
「! へへ……全部お見通しってわけかよ……じゃああんたを殺すしか俺が生きる道はないってことだ!」
狼は覚悟を決める。
それは命を諦めるという覚悟ではなく、目の前の邪魔者を排除するという覚悟。
「炎嵐の狼王」
狼の全身を覆っていた銀色の毛が徐々に赤に変わっていく。
エルフも覚悟を決め、詠唱を開始した。
「……万物を構成する粒子よ」
「無駄だ! いくらてめえが強力な魔法を撃とうが、この距離なら俺を止められねえよ! 狼王の炎爪嵐槍!!」
狼は身をかがめると、その体のバネを使い、一気にエルフのもとへと飛びかかる。
しかし、
「冷、湿、冷によって顕現せよ。憤怒の氷よ。その角をもってを我が敵を貫け。極氷の尖槍」
詠唱が終わると同時に魔法が発動し、狼の周囲の空間、地面から現れた氷柱が、狼の体を満遍なく串刺しにし、その勢いを完全に殺した。
「グェッ、バッ……な、なんだ、その、魔法……」
「……安心、してください…………魔核は、傷つけておりません……
だから狼王の後継は、フィルシーが責任を持って……任命させていただきます…………」
*天歴991年 人間領 スペリア王国 ランディア村の外れ ワンダル(元)平原*
「な、なんでだ? 魔核はクレアが砕いたはずなのに……」
魔核を砕かれた魔物は必ず死ぬ。
それが、魔物という生物の常識であり、カドル自身今まで戦ってきた魔物たちでもその理を外れたものは見たことがない。
今のヴォルガーの姿は、先ほどまで赤かった髪が銀色に戻り、明らかに弱体化しているのは見てとれていたが、それでもこうして生存していることに驚愕し、カドルは動きを止めてしまった。
「ああ……たしかに私の手の甲にあった魔核は砕けた……けどな!」
ヴォルガーは、一瞬で肉薄し、右手で動けないクレアを狙う。
「! ぐ、がっ……!!」
クレアを放り出すわけにもいかず、両手が使えない状況だったカドルは、体をひねり、左肩を犠牲にすることで彼女を庇う。
人の手の形をしながらも、銀色の体毛に覆われた手にある鋭い爪は、カドルの左肩深くに突き刺さった。
「悪いな、私には魔核は二つ持っていたんだよ」
反対の左手を振り上げるヴォルガーの後ろで彼女の尻尾が揺れる。
彼女の言葉を裏付けるように、その先端には赤い魔核の光が、存在を主張していた。
「狼王……火狼の爪槍」
ヴォルガーの左手で火花が弾ける。
狼王の炎爪嵐槍よりは格段に劣るものの、それでも子供二人を殺すのには十分な火力を有していることはカドルは一目でわかった。
(さ、避けないと……ぐっ!?)
動こうとするカドルを、肩に突き刺さった状態のヴォルガーの右手が封じる。
「逃がさねえよ……二指貫!」
そして赤い火が灯された左手の指が、カドルごとクレアを貫くために近づく。
しかし、
「…………極氷の凍時」
指が届く前にヴォルガーの動きは止まる、いや、彼女の全身が透明な結晶によって固まっていた。
「これは……氷……?」
空気中に漂う冷気から、カドルは目の前にある透明な結晶の正体が氷であることに気がつく。
「いったい、どうして……いや、誰が……?」
「ヴォルガー様……なぜ、ですか…………」
次々と変わる状況にカドルの頭が処理できない状況で固まっていると、暗闇の中から一人の女性が姿を現す。
「フィル……お、お前は……」
月の光に照らされ姿を現したのは、ヴォルガーの相方、そしてエルフの女王種であるフィルシー、その人であった。
「ぐぅっ……!」
カドルは肩にささっていたヴォルガーの爪から抜け出す。
ヴォルガーは右手以外が完全に凍っていて固定されていたため、痛みを我慢すればなんとか自力で抜け出すことができた。
「カドル様……お怪我の具合はいかがですか……?」
ただ、その間にフィルシーはカドルとヴォルガーのいるところまで来てしまっていたが。
(ここにきて……新手か……今日はとことんついていない、というより、予想が外れてばかりだ……)
フィルシーが来ることをカドルは考えなかったわけではない。だが、可能性は低いと思っていた。
というのも、ヴォルガーが戦っているときも影も形も見せなかったこともそうだが、朝見たフィルシーの様子からして、彼女が人を襲うのに消極的であったからだ。
(……っと、なんでフィルシーが来たかを考えるより、この場をなんとかしない……)
「……カドル様。この場はひいて、いただけませんか……?」
「……え?」
「今日、カドル様と争うことは、フィルシーたちの本意では、ございません……
……ですので、どうか今回の決着は私に預からせていただきたく……」
フィルシーのまさかの申し出にカドルは困惑する。
この場で誰よりも有利な立場にいるのは間違いなくフィルシーであり、カドルはおろか、凍らされたヴォルガーや動くことができないクレアでさえ彼女の気まぐれ一つでどうとでもなってしまう現状、彼女が誰かの伺いを立てる必要なんてないのだから。
「……」
「……いかがでしょうか?」
カドルは即答はしなかった。
今の状況を鑑みれば、フィルシーの提案にのったほうが良いのは明らかだ。
しかし、彼女もまた、去年の今日という日にスティーブが亡くなる原因をつくったうちの一人なのは間違いがない。
「……フィルシーさん、一つだけ教えてくれませんか?」
「いえ、はい……フィルシーで答えられることでしたら、なんなりと……」
「あなたたちはこの後、村を……ランディア村を襲ったりしませんか?」
「はい……フィルシーたちの目的はもうあの村にはありません……ですから、今後はランディア村に来ることはないでしょう…………
ただ、緑血魚のように、私たちでは御しきれない魔物もいますから……絶対、とは言い切れませんが……」
「……いえ、わかりました。僕もあなたを信じます」
もとよりカドルにごねられるような余地はない。
フィルシーの澄んだ翠の瞳をカドルは信じるしかなかった。




