魔力と治癒
猪の厄災の日の翌日、カドルの家を綺麗な水となるべく清潔な布を桶に入れて歩くクレアは悩んでいた。
「さて、どうしたものかしらね……」
家主であるカドルは現在、自分の部屋のベッドで苦しそうに呻いている。
緑蝙蝠を倒した後、クレアが本人の家まで運んだものの、カドルの容態は極めて悪い。
その理由はもちろん戦いによる肉体ダメージとカルマによる精神ダメージ。
破傷風に備え、裂傷による出血こそ止血できているが、それより酷い打撲や骨折についてはほとんど回復せず、鬱血で青くなっている部位が痛々しい。
さらにカルマによる精神汚染の後が目の下に青紫のクマとなって表れていた。
(カルマだけを考えるなら、将来的にはとはいえ、あいつも神職持ちだしなんとかなりそうだけど、さすがに今の様子じゃそれどころじゃないわよね)
カドルは罠を活用して茶猪を倒したことで直接浴びたカルマの量はクレアの予想よりかは減ってはおり、数日安静にしておけばカルマは抜けきる算段はあった。
しかし、それも体力が万全である場合であり、体のダメージが大きい現在の状況では、下手をすると目覚めなくなる危険性のほうが高い。
「ふぅ……」
結局、解決策は出ないまま、カドルの部屋の前にたどり着いたクレアは一呼吸入れる。
ここからは演技をする必要がある。理由は、早朝から部屋の中にいる少女がいるため。
設定の復習とシミュレーションを頭の中で簡単にやった後、クレアはドアを開けた。
「トゥリエさん、兄さんの様子はどうですか?」
「クレアさん……ごめんなさい」
カドルの手を握っていたトゥリエは、ドアから入って来たクレアと目が合うと申し訳なさそうに目を伏せる。そのとき、滴がいくつか落ちて床にシミを作った。
「……トゥリエさんが悪いわけではないんですから謝らないでください。それに、お医者さんもお昼にはこちらにいらっしゃるって言ってくださいましたよ」
魔法によって外傷を治せるこの世界に置いては、医者の数は少なく、またたいていは薬師との兼用だ。
だから、来てもらえれば鎮痛剤ぐらいは処方してもらえるだろうが、それ以上は望むべくもない。
「……スティーブさんのほうも今、大変だもんね。でもお医者さんに看てもらえればカドルも回復するよね?」
「ええ、きっと……」
心にもない言葉ではあるが、握っている手が震えているトゥリエの希望が絶てる程、クレアは常識がないわけではない。
だけど顔を見られたら嘘がばれそうだから顔が見えないような位置取りで持ってきた布を濡らし、水気をきって腫れている患部へと当てる。
(こっちはもう魔力ないんだから、死にたくなければ根性見せなさいよね)
専用のスキルである一錬習得を持っているクレアは、古今東西の多くの魔法について使うことのできる知識はあるものの、十歳の頃の魔力量じゃ下級の魔法しか使うことはできない。
その僅かな魔力も緑蝙蝠を倒すのと止血の処置で使いきってしまっているため、残りはカドル自身の体力と精神力を信じるしかクレアに残された手はなかった……はずだった。
「カドル、死なないで……」
気絶しつつもミサンガを放さないカドルの右手を包み込むトゥリエの両手が淡く発光する。
その光に気づいたクレアはトゥリエの両手に意識を向けるとトゥリエの内部で魔力の奔流が渦を巻いていることに気がつく。
(この子の魔力が暴走しかかってる!? もともと癒やす者や理なる者の素質が高いとなるはずだけど……いや、もしかしてこの子……)
一方のトゥリエは自分の体で起こっていることには気づいていないようだった。
魔力の暴走はもともとの魔力の高く、また扱いに慣れていない者が感情を強く揺さぶられることで発生することが多く、今回のトゥリエがなってしまった要因は容易に予想することができる。
魔力が暴走してしまった場合、周囲を巻き込み爆発してしまう可能性があり、普通なら気持ちを落ち着かせるのだが、クレアの中で一つの希望が生まれる。
(暴走しかかっているとはいえ、これだけの魔力の量があれば中級の発動には十分。
今、この子の暴走しかけている魔力に方向性を与えれば、もしかすると……)
カドルを助けるため、そして自分のやり直しの目的のため、クレアは一縷の望みにかけることに決めた。
「……トゥリエさん、今から私の言う言葉をそのまま復唱してください」
「えっ!?」
「兄さんを救うためです。お願いします」
状況がうまく飲み込めていないトゥリエに説明するのが正しい手順なのかもしれないが、クレアはそれを省いた。トゥリエの魔力の集中はおそらく無意識にやっていて、下手に集中を乱すとせっかくの魔力が霧散すると判断したからだ。
「……うん、わかった」
トゥリエは当然困惑していたが、クレアの真剣な表情を見て、信じることに決める。
「ありがとうございます。じゃあ、いきますよ」
クレアもトゥリエとカドルの手のところに自身の手を添えておもむろに口を開いた。
「万物を構成する粒子よ」「ば、万物を構成する粒子よ」
魔法を使うことは道具を使うことと大差ないとクレアは考えている。
それは魔法自体の効力を知らなくても、正しい詠唱と必要な魔力量さえあれば魔法を使うことができるという意味で。
例えば井戸水を貨車を使って汲み上げるとき、貨車の内部構造を知らなくても紐を引く作業と、それを行える力さえあれば水を得ることができるだろう。
魔法の場合はその例の紐を引く作業が詠唱で、引く力が魔力、そして貨車の役割に当たるのがこの世を構成している物質粒子と魔力粒子に置き換わっているだけだというのが、クレアの魔法に対する感覚的理解だった。
「冷と湿を持って顕現せよ」「冷と湿を持って顕現せよ」
だが、これはあくまでクレアの認識であって実際にはそう単純なものではない。
カドルのように魔法の才能がない者からしてみれば全く理解できないし、希代の天才と言われた賢者のフレンでさえクレアの理論にはついぞ共感することはなかった。
クレアはそれを知っているからこそ今、魔法のまの字も知らないような少女に詠唱させたとしても魔法が正しく発動する可能性が低いこともわかっている。
「「清流よ」」
しかし、幾度もやり直しを経験したクレアは、可能性が低いだけなら、試すのには十分だった。
「「彼の者に安らぎを、中水の癒川」」
詠唱が終わるとトゥリエの両手の魔力が薄い青色のついた水になって空中を漂う。
「ふぇっ!?」
(成功した!? 後は、本人にこれをコントロールさせられれば!)
一発で成功させたことにクレアは驚いたが、トゥリエの驚きはそれ以上。
「その水をそのまま、カドルの体に落として!」「えっ!? あっ、『その水をそのまま、カドルに落として!』」
「ばっ……も、もう復唱する必要はないので、その水を早く兄さんにしてくださいますか?」
「ばっ? ……う、うん。それっ!」
反射的に水をこぼすイメージでトゥリエがカドルの右手から手を離すと、空中に漂っていた水が重力に従って落ち、下にいるカドルをベッドごと濡らす。
「あっ! ご、ごめん!」
濡らしたことに意識のないカドルに謝るトゥリエだったが、ベッドに落ちた水はすぐに蒸発する。そして、カドルの体に落ちた水も同様に蒸発するが、気化すると同時に鬱血した部分や骨折したところが治癒されていく。
「怪我が治った……?」
血色が目に見えて良くなるカドルにトゥリエはようやく自分のやったことの意味を知る。
やがて水が完全になくなるころにはカドルの体の怪我は、少なくとも見える範囲において、完全に治っていた。
しかし、それでも目を覚まさないカドルにトゥリエの不安が募る。
「治ったのに、どうして……?」
「おそらく、疲れているだけだと思います……治癒魔法にはかけるほうもそうですが、受ける方も体力を消耗しますので」
「本当? それなら良かった、良かったよぉ……」
「トゥリエさん、兄さんを助けてくれてありがとうございました」
怪我が治り、命の危機はなくなったことでクレアは涙目のトゥリエを落ち着かせる。
怪我さえ治せれば、体力の回復に伴って精神力も回復するため、当座の問題はなくなり、クレアはようやく一息つくことができそうだった。
(念のため、この子に瘴気解呪をしてもらう手もあるけど……いや、無理ね。第一、覚える時間も魔力もこの子にはもう……)
賢者や僧侶のスキルである瘴気解呪は、普通の魔法とは違い、呪文の詠唱がない一方、勇者であるクレアですら使うことはできないほど特殊なものだ。
それゆえに瘴気解呪を覚えるためには、賢者や僧侶が経験を積み重ねていくうちに自然と会得するのが一般的であるが、それを待つうちにカドルが回復するだろう。
「! ごめんなさい! わ、わたし、スティーブさんのところに行ってくるね!」
突如、何かを思いついたトゥリエは名残惜しみつつもカドルから背を向ける。
「! トゥリエさん、待っ……」
トゥリエの行動の意味と、それが無意味になることがわかったクレアは反射的に声が出る。
わざわざ失敗しに行き、悲しみだけを背負う未来が見えているだけに止めかけたのだが、クレアの中に残っている記憶が言葉を出させなくする。
『お前の言うことは正しいのかもしれない。俺のやることは無駄かもしれない。けどな、たとえそうだとしても俺は失敗したことに後悔したいんだよ』
「っ、……気を付けて行ってきてください」
「うん、ありがとう! クレアさんって優しいね。カドルが起きたらわたしに教えてね」
トゥリエがいなくなった後、部屋には寝ているカドルと俯いたクレアが残される。
「あんたに言われなくてもわかってんのよ。それくらい……」
ポツリと呟かれたクレアの問いかけは誰にも聞かれることなく霧散するのであった。




