医師の一分
雛子がいましがた診察を受けた患者のカルテを整理していると、内科からの連絡で、ある患者について手術しなければならない可能性があるので、最初から外科で見て欲しいとの要請があった。雛子は大きくため息をついた。
また何か問題のある患者を押し付けられたのだ。雛子はすこぶる機嫌が悪くなった。医局では後輩である勝山には先輩として頼られる体で何かと面倒事を押し付けられる。今度は何だ。精神的に不安定な患者か、モンスタークレーマーか。
本当に必然性のある転科依頼なら受け入れるのもやぶさかではない。しかし自分の都合で患者を右往左往させたのではこの情報時代、病院の沽券に関わる。
初期臨床研修医時代に雛子が付いた産婦人科医で、土日が出産日になりそうになると、陣痛促進剤を多用した医師を思い出して雛子は眉をひそめた。自分が教える立場になって
付いた後輩には自分なりの信念を叩き込もうとしたが、甘え上手な後輩を経験不足から甘やかしすぎたのを雛子は後悔していた。患者に起きている異常な事態を発見して治療するのが我々の仕事だ。
患者の立場に立って判断をせよ等とよく言う。しかしそれは順序が逆だ。職人としてのプライドは無いのか。自分を犠牲にして意地でも患者を救う気概は無いのか。専門的な判断を下し、そこで初めて素人である患者の気持ちになって、治療方針に対して本人を納得させるのが正しい手順だ。
ともかくまたもや勝山は自分のすべき仕事をろくにこなさずに自分に丸投げしてきた。
これも自分の不徳の致す所だ。溜まった患者の事も気にしながら今か今かと待ち受けていると、ドアを開けて入って来たのは独特の空気を纏った集団だった。
老紳士を先頭に一見すると飄々としたサラリーマンのような集団。紺色のスーツはデザインが少し古く、保守的な印象を受ける。
それぞれ髪型を七三やオールバックなどにばっちりと整えているが、一番後ろに巨漢で金の刺繍が入った黒いジャージの男は少し長めの金髪。その男だけは闇金漫画に出て来そうな
いかつい風貌だ。全てを理解した。
「そう来たか」
ぼそりと呟いた雛子は一目でこの集団がどのジャンルの人間かを見破った。こういった類の人間も雛子は得意分野だという迷惑なイメージを医局内では持たれていた。
雛子は先頭の老紳士をじろりと睨んで言った。
「患者さんは誰ですか?他の人は出ていってください」
雛子は患者が誰かを見破った上でわざと惚けた。ブラウンのジャケットと千鳥格子のスラックスで白髪頭を綺麗に整えた老紳士はキョロキョロと診察室の中を見回した。
「優秀な先生とやらはどこにいる」
いつもこうだ。科を移動させる時に不審がる患者にそういって納得させているのだ。
「優秀かどうかは自分で判断してください」
雛子は首にかけた聴診器を摘まんでぷらぷらと振った。老紳士はふさふさとした白い眉毛をぐっと上げると、瞳の半分を覆っていた瞼を見開いて
ぎろりと雛子を見た。そして後ろを振り返ると、男達と顔を見合わせた。丁度看護師が早足で引継ぎ資料を持って来た。雛子はパソコンに目を移し、書類を見ながらキーボードを叩いた。
雛子はレントゲン画像に目を向けると、喉を詰まらせたような抑揚の無い声を一息に吐き出した。
「関係のない人は早く出ていってくださーい、診察できませんよー」
「なんだこの小娘は、話しが違うじゃないか」
少し激高したように老紳士が踵を返した。男達も同じように出口に体を向けた。
「あーなるほどー」
ぼそりと言った雛子の声に老紳士は体を捻って雛子の方を振り返った。
雛子は眼鏡をクイっと上げると画面をカルテに切り替えて覗き込んだ。そしてわざと嫌味ったらしくトーンを抑えた声で言った。
「皆さんの居る所で発表しますかー、乙石さん」
取り巻きが去り、先ほどとはうってかわって神妙な面持ちで雛子の前に座っている乙石に、雛子がジャケットを脱いでシャツのボタンを外すように言った。
「で、どうなんだ、俺は癌か、癌なのか」
「乙石さんが思ってるような物かどうかは詳しく調べてみないとわかりません、でも腫瘍があるのは確かです、煙草は吸われますか?」
「ああ」
「じゃあ止める事ですね」
「しかし随分ズバリというんだな、普通は家族とかにやんわりと言うんじゃないのか」
「何処に家族がいたんですか、そりゃ盃の繋がりは血より強いのかも知れないけどそんなことは私達の知ったこっちゃありません」
乙石は呆気にとられて自分の胸元を叩いている雛子の顔を見下ろしたが、気を取り直して言った。
「それにしても随分アナログな診察方法だな」
「あなたから診察料をふんだくるための儀式です、我慢してください」
乙石は一瞬真顔で固まったがニヤリとした。
「ふん、随分と簡単にぶっちゃけるんだな、嫌いじゃねえ」
乙石の両の胸には刺青が入っている。雛子は胸に聴診器を当てると、深呼吸をするように言って聴診器を移動させながら真剣な顔で音を確かめたあと、背を向けるように促した。
看護師がシャツをたくし上げて出てきた絵柄を見て雛子が思わずぼそりと漏らす。
「あ、鬼若丸だ」
男がピクリと反応して振り替える素振りを見せたが、背後まで顔が回るはずもなくそのまま前を向いて言った。
「驚かねえんだな」
「んーちょっと驚いたかな、乙石さんの歳にしては肌が綺麗で刺青が色落ちしてない、前に見た人は抱き鯉がフナ寿司みたいでしたよ」
乙石は筋肉が太いわけではないがそれなりに鍛えられていて肌の張りもあった。
「ふん、あんたにとっちゃぁどうという事はないか」
「だって乙石さんみたいな人はみんなここに回されるんだもん」
乙石は軽く笑った。
「さっきの若造なんぞは刺青見たとたんに手元が怪しくなって意味ねえ行動ばっかりしやがって、全くだらしがねえ、それに比べてあんたは落ち着いてる、名医ってのは本当かもしれねえな」
「多少外側の色が違っても中身は人間です、やる事は誰でも変わりません」
乙石の肩がぷるぷると震え始めた。
「くくくく、わっはははははは」
「何笑ってんですか、手術しなきゃならない公算が高いんですよ」
真顔で振り返った乙石が不安そうに聞いた。
「任せてもいい気にはなってきたが、正直どうなんだ」
「内視鏡で組織を取る事ができない所にあります、術中迅速病理診断を施してその場で方針を決めることになりそうですね、はっきりした事はカンファレンスの後ですが」
乙石が何か言いたそうに口を開けている。雛子は姿勢を正すとにっこり笑った。
「我々の立場で言える事は少ないです、しかし私個人の見立てではそれほど悪いものでは無いと思います、出来る範囲の検査をして手術に備えましょう」
「本当だろうな」
「今考えうる最高の対処をすると保証します」
乙石は雛子の向かっているデスクの端を激しく叩いた。
「そんな事を聞いてんじゃねえ! 俺は助かるのか!」
雛子はキーボードを叩く手を止めて眼鏡をくいっと上げた。
「私が信用できないなら若造の所に戻しましょうか?」
乙石はうっと息を飲んだ。雛子の目が微塵の迷いもない真っ直ぐな視線だったからだ。しかし雛子はにっこり笑った。
「大丈夫ですよ、私はあなたを助ける為にここにいます」
乙石は少したじろいだ後、笑いが込み上げた。
「そうか」
乙石はなんとなく安堵した。。
「それと、精密検査の機械が空いてないのでしばらく通ってもらう事になると思いますが、子分さんは付き添い二人程度にしてください、あと過去に、脱がすとうっかりピストルを持っていた人がいますがそれも禁止です、ここには命を救う機械しか持ち込めません、それと重要事項説明の時は姐さんを連れてきてください、いいですね」
雛子が眼鏡越しに乙石を睨みつけた。
「は……はい」
「大丈夫ですよ、私を信用してくれる限りは現状で最もいい結果をお約束します」
雛子の自信に裏打ちされた押しと引きの会話術で乙石はすっかり術中にはまっていた。治療はもう始まっているのだ。医者は患者に信用してもらえないと思ったような治療ができない。居丈高な一般人に慣れていない乙石に、専門家という立場を利用して上から押さえ込む事に成功したようだった。
精密検査も終わり、手術を控えたある日、雛子の本に乙石の使いが来て時間がある時に食事でもしながら相談にのって欲しいと言われた。相談なら来院した時にすればいいのにと思いながらも
雛子は時間を作った。約束の日、迎えをよこすと言うので気軽に待っていたのだが車中で雛子は落ち着かなかった。運転席と助手席に座るいかつい男は最初に見た集団の中には居なかった人間だ。
助手席の男は副島と名乗った。やたら大きな黒塗りの国産高級車のドアを開けてもらって、淑女の扱いを受けはしたがなにせ相手は道々の者。一人で来たのは失敗だったのではと思い始めていた。
しかしそれは杞憂に終わった。ほどなくして着いたのは教授達もよく利用する高級割烹。出迎えた和服を着た品のいい女性と男達は顔なじみのようだ。一人が玄関口に残り、副島が女性の案内に
従って雛子をエスコートした。一見客間に見えない奥の格子戸を開けると通路とその横に大きな座敷があり、通路を挟んだ正面はガラス張りの日本庭園になっていた。乙石は長机の上座にいたが
床の間を背負う事なく横向きに座ってちびりちびりと飲んでいた。
「おお、よく来てくれました、先生」
副島に促されて座敷に上がった雛子だが怪訝そうな顔であたりを見回しながら言った。
「何事ですかこれは」
教授や大学のお偉いさんの黒い集まりに誘われて何度か来た事があるが、自分の稼ぎでは来れるはずもない店の中にあってこの座敷はどうみてもVIP専用だ。
「まあまあ、駆けつけ三杯というじゃありませんか、どうぞ杯を受けてください」
雛子は戸惑いながらも正面に座り、傍らにバッグを置くと、盃を受け取った。にこにことしながら両手で徳利を差し出す乙石を見て自分が厚遇されている事を認識する。一体何の相談だろうかと、少し不気味な予感がしながらも雛子はもてなしを受けた。
「先生、わりといける口ですね」
色の薄いサングラスをかけて髪をオールバックにした副島が乙石の下座で徳利を差し出しながら言う。体躯も顔も大きい副島は日焼けした頬に似合わないえくぼを作りながら笑っている。
しかし次々と運ばれてくる料理を食べながら乙石と副島は世間話や身内に起こった面白話をするばっかりで一向に何かを相談する気配はない。半時間ほど経った時、雛子は痺れを切らして聞いてみた。
「あの、相談というのは」
乙石はあいかわらずにこにことしていたが、やおら横を向いて持っていた盃を置くと、副島を見た。一呼吸置いて副島は傍らに置いていたブリーフケースを開いて中から
茶封筒を取り出した。そしてそれを雛子の目の前に置くと、乙石が悠々と笑いながら言った。
「どうぞ収めてやってください」
「なんですかこれは」
雛子は眉間に皺を寄せて聞いた。こういう事はままある。中身が現金なのはわかりきっていた。帯封三本といった厚みだろうか。医者に対して藁をも掴む患者の気持ちはわかる。
しかしこういう事はどうもフェアでは無い気がする。もちろん現金は好きだ。しかし人の命を救うのに金で何かを底上げできると思う感覚が釈然としないのだ。普段は手抜きを
しているという解釈もできなくはない。
「今日来てくださったお足ですよ」
副島がにこにこと笑いながら言った。
「お足もなにも、あなたが迎えに来てくれたじゃないですか」
思っていた反応と違ったのだろう、乙石と副島は顔を見合わせ、そして乙石が観念したように口を開いた。
「手術の方、是非よろしくお願いしたいという事で、何かの足しにしてください」
雛子は相談があるといいつつ要領を得ない二人の態度と謎の高級接待に少しイラついていた。今日は事務方のレセプトチェックの不備でとばっちりを食らって元々機嫌が悪かった。
「乙石さん、私以前に言いましたよね、多少見た目が違っても中身は人間、やる事は変わらないって」
乙石と副島は雛子の異変に気づいて笑顔を消した。
「それとも私がこれを受け取るのと受け取らないのでは結果が違うと思っているんですか?」
雛子の不機嫌な態度を見て二人がうろたえた、魚心と水心が一致してないのにようやく気づいたのだ。
「バカにしないでください、私が信用できないなら他の外科医を紹介してもいいんですよ」
「そんなつもりじゃ」
「とにかく不愉快です、これにて失礼します、ご馳走様でした」
「ちょちょちょ、待ってください」
膝を立てた雛子に乙石が手を差し伸べ、副島は両手の平を下に向けて平にというジェスチャーをした。乙石はうろたえながら副島の肩を押して言った。
「おい、ちょっと表の様子を見てこい」
きょとんとした副島に乙石がダメを押した。
「はやく!」
慌てて副島は座敷を降りて格子戸から外に出て行った。
「とにかく先生、落ち着いて座ってください」
乙石の言葉に雛子は渋々座った。やり方は間違っているが、全く悪気のない乙石に私情交じりに切れすぎたかと思いなおしたのだ。乙石は置かれている盃に手酌で酒を注ぐと、一口飲んでやおら喋り始めた。
「わたしゃこの世界に入ってもう45年になります、昔はいい男がたくさんいました」
訝しげに様子を伺っている雛子に乙石が徳利を差し出した。仕方なく酌を受けると乙石は続けた。
「年寄りの愚痴になりますが、時代の流れですかねぇ、この頃は任侠と呼べる人間もすっかり失せてしまって、金でしか動きやがらねえ人間ばっかのつまんねぇ世の中になってしまった」
乙石はまた手酌をするとクイっと一気に飲んだ。
「いつの間にか自分もそんな人間の一人になってしまった」
乙石はおっくうそうに立ち上がると、見上げる雛子の顔を見ながら一歩下がった。そして膝と手をついて頭を下げながら言った。
「おみそれしました、先生の事を侮っていたようです、どうぞ許してやってください」
マンションの少し手前で下ろしてくれと言うと、副島は苦笑いしながら運転手に命じた。車が止まると副島が慌てて降りてドアに回ってくるので、それを無にするのもなんだと思い、雛子はドアが開かれるのを待った。雛子が降りると副島が膝に手を置いて頭を下げた。
「今日はとんだ失礼を致しました、どうかご機嫌を直してください」
「いえ、こちらも少し横暴でした、でもプライベートで何かあったからと言って私が仕事の手を抜く事はありません」
「有難うございます」
副島は安心したように笑うと、もう一度頭を下げてから車に乗り、去っていった。走り去る車をボーっと眺めていた雛子はがっくりと肩を落とした。
「今月ピンチなんだよなー」
医者は高給取りだと思っている人が多い。だから乙石もそれなりの金額を用意したのだろうが、医大の身内医師はサラリーマンの平均ほども貰っていない。うな垂れた状態でしばし複雑な心境を整理していたが
再びビシっと背筋を正すと肩にかけたバッグのストラップを掴み、マンションに向かって大股で歩き始めた。
「正しくあるのって辛いぜ、事故屋でバイトでもすっかー」
乙石は雛子の最後の患者だった。病理専門医を目指すことにしていたからだ。殆ど死体が相手の地味な分野だが間接的により多くの命を救う事ができるはずだと考えていた。雛子は自分を奮い立たせた。
「目指せ、准教授!」