16.邂逅
日が落ちきる前に、三人は遊歩道を戻ることにした。集めた頭蓋骨は部室棟近くに埋め、手を合わせてきた。これで少しはこの子たちの気が晴れるといいんだけど。芽衣がつぶやくのが聞こえた。
日が傾くにつれ、歩道はいっそう暗くなる。点々と配置されている灯りは、申し訳程度に道を照らすだけだった。
「骨を見つけて埋葬したからさ、もう変なことは起こらないよね?」
これで安心して部室棟と行き来できる~!そういう芽衣の声は、心なしかトーンが明るい。
どんな因果関係があったのかは不明だが、確かに原因と思われるものは取り除けたのだ。何よりもカメラが好きだという芽衣が、安心してここを通れるようになったのなら来た甲斐があった。海斗も思わず笑顔になり、そして、
――硬直した。
冷音が嗤っていた。くつくつと喉を鳴らして、目尻に皺を寄せ、けれど少しも嬉しそうではない。淡いオレンジの照明が冷音の顔に陰影を作り出し、なんだかそれが良くないモノのように見えたのだ。
「れ、冷音……?」
喉がひりつく。思わず呼びかけた声はかすれていた。
冷音はこちらを向いた。その目は海斗と芽衣を越え、その更に後ろを見つめている。
そこはただの薮なのに。
冷音のキレイな貌がゆがむ。愉快そうに、くつくつと嗤う。鋭い眼光が、何かを捉えている。
海斗の呼吸は浅くなっていた。耳に血液が集中している。熱い。ざざ、と遠くで音がした。うなじの毛が逆立つ。ああ、いる。本能がそう言っている。目の前が、前に立つ冷音が、ちかちかと白黒に見え
かさり
音がした。
かさり
ざざ
かさり
ざざ
かさり
ざざ
かさり
徐々に音が近づいている。それとともに冷音の貌も強く歪んでいく。愉悦。冷音は貌を歪め、嗤いながら愉しんでいる。
「走れ!」
鋭い声がすると同時に、腕が前に引かれた。衝撃で体ごと前につんのめりそうになり、けれどそのまま無理やり足を出す。
がさっ
一際大きい音が背後で鳴った。チラリと振り返ると、すぐ後ろを芽衣が、その後ろを冷音が駆けている。その更に後ろに何かがいた。
黒い。薄暗い中にいて、なお黒い。人に似た形の黒い塊は、上半身を左右に大きく振り、その揺れの反動を利用してたどたどしく足を前に出していた。妙なリズムで聞こえてきた音の正体は、あれだったのか。
黒い塊の頭が裂けるのが見えた。薄明かりがそれを照らし、裂け目部分のどす黒い赤がぬらりと光った。赤い裂け目のその奥の奥。闇の中から白い何かがはい出てくる。
手だ。
なまめかしい、女の手だ。
この世のものではないような、美しい白い手が、漆黒の魔物の頭から生まれ出ようとしているのだ。
一本。二本。三本。白い手が花開き、伸び、ツタのように絡み合いながら海斗を手招きしている。
ああ、美しい――手が咲いた。
「見るな!」
半ば体当たりに近い形で後ろから肩をどつかれ、海斗ははっと我に返った。すぐ後ろで、冷音がいつになく強い目で海斗を睨んでいる。
「魅入られるな。前を向いて走れ」
海斗はうなずいた。芽衣は呆けた顔で冷音に手を引かれ、何とか走っている状態のようだった。冷音とは逆の手をつかみ、海斗も芽衣を引く。
道はグネグネと蛇行している。何度曲がっても景色は変わらず、出口へ近づいているかどうかすらわからない。右も、左も、前も、後ろも、暗い闇に飲まれた草木が広がるだけ。
巨大な蛇の体内を走っているようだ。どんなに必死になって逃げようとしても出口なんてものはなく、残されているのはドロドロに溶かされ消化されてしまう未来だけではないのか。
息が上がり、足の筋肉も痛む。海斗の心はもう折れそうになっていた。芽衣の手を握っている感覚も薄れてきた。全身が重い。汗が全身の表面を覆っているから、なおさら息苦しく感じる。
多少馴染んだとはいえ、まだ硬い革靴を履いた疲労の溜まった足ではうまく地面を掴んで走れない。足裏が接地するたびに、バタンバタンと大げさな音が鳴る。
もはや走っているという感覚さえなかった。もつれる足を必死に前に出しているだけ。
逃げろ、逃げろ、逃げろ、逃げるんだ。
前に向かって走っているのに、意識は後ろに向かっている。変な感覚だった。
走っても走っても、背後から追ってくるおぞましい気配は薄まらない。ざざ、ざざ、という音が耳に届くたびに、上半身をゆらゆらと揺らす黒い人影の異様な様子が目に浮かんでくる。
発狂しそうだ。
目の前の木々の層が薄くなった。いつの間にか、遊歩道の出口へとたどり着いていたようである。
助かった。
そう思って足を緩めようとした時、再度肩に衝撃が走った。
「馬鹿、まだだ」
横に並んだ冷音が大きな瞳を歪ませて海斗を睨んでいた。また肩を叩かれたのだと、やっと理解した。
三人は遊歩道から飛び出すと、敷地を囲う柵沿いに進んだ。
何か変だ。
その時点でようやく海斗も異様さに気が付いた。あまりにも暗く、静かなのだ。夏前とはいえ、この時期は日も伸びている。先ほどはまでは鬱蒼とした緑地の中にいたから暗いことにも違和感はなかったが、遊歩道を抜けたのにも関わらず、まるで真夜中のような暗さなのである。芽衣と合流し三人で遊歩道に足を踏み入れてから、小動物の頭骨の埋葬にかかった時間も含めて、どんなに多く見積もっても二時間も経っていないはずだ。まだまだ部活に励む生徒たちがいてもおかしくないはずなのに、校内には人間の気配は一切ない。
あぁぁぁぁうぁぅぅぅぅぉぉお
金切り声が静寂を切り裂く。全身をぶわっと鳥肌が覆った。あの魔物が叫んでいるのか。金属同士をこすり合わせたような不快な叫び声が茨のように海斗を絡めとる。
あぁァぁああああ!
狂気としか言いようのない声が迫ってくる。
ざざがたっ、ざざがたっ、ざざがたっ、ざざがたっ。
遊歩道ではたどたどしく聞こえた足音も、明らかに達者になってきている。
また魅入られるのは恐ろしかった。けれど、体力ももう限界に近づいていた。せめて、相手との距離だけでも測れたら……。
海斗は意を決して、チラリと振り返り、
戦慄した。
割れた頭から、白い女の裸体が生えていた。暗い世界の中で、異様なほどの白さが際立つ。さらに異様だったのは、その腕だった。双肩から生える六本の長く白い腕にはいくつも関節があるようで、ぐにゃり、ぐにゃりと動いては、三人に向かって伸ばされる。
海斗が振り向いたことに気付いたのだろうか。女の口が出来の悪い三日月のように歪む。
ぃぃぃぃいいいいいぃぃぃぃっ
それが笑い声だと気付いて、また全身が粟立つ。海斗は振り向いたことをすぐに後悔した。
「もうちょっとで、校門だからっ」
芽衣の声でハッと我に返る。いつの間に冷音は手を放していたのか、今、芽衣の手を引いているのは海斗だけだった。息も絶え絶え、ふらふらになってはいたが、芽衣の目に意思が戻っているのが見て取れ、海斗の心が少し持ち直す。
校門はしまっていたが、高さは150センチほどしかない。古いタイプのスライド式門扉で、車輪部分を足場にすれば乗り越えることは難しくなさそうだった。
海斗が真っ先に門を超え、すぐに芽衣を引っ張る。既に相当疲労しているであろう芽衣が門を超えるのはかなり手間どったが、冷音が彼女の下に潜り込み、背中を足場にするような形で押し上げてくれたおかげで何とかなった。
女は海斗たちから3メートルほどのところにまで迫っていた。あの白い手を伸ばされたら、もう触れられてもおかしくない距離だ。
海斗は必死で冷音を引っ張った。ほぼ門の上にまで登りかけていた冷音が体制を崩して前につんのめる。二人そろって倒れこむ瞬間、後ろから伸びた白い手がシャッと空を掻き、
校門の中へ、スルスルと戻っていく。
「た、助かったのか……?」
海斗は呆然とつぶやいた。
門の中にはまだあの女がいる。人の形をした影から生える、白い女。昆虫が羽化をするかのようなその姿に、海斗はゾッとした。まだ、こいつは変化するのではないか。ぬるりと黒いさなぎを脱ぎ捨てて、身軽な姿で門の外まで追ってくるのではないか。
いいいぃぃぃぃぃぃいあぁぁぁぁっ
女は激しくのけぞり慟哭した。そして一拍ののち、頭を大きく前へ振った。その勢いのまま、校門に縋りつく。ガシャン!門が大きな音を立てた。芽衣も海斗も、身動きが取れない。
ガシャン、ガシャン、ガシャン、ガシャン、女は激しく門扉をも揺らし続ける。
冷音が立ち上がった。息の乱れがもう整ったのか、背後から見る限りでは肩で息するような様子はない。冷音は女には目もくれない。もう、興味を失ったとでも言いたそうな冷めた顔をしている。
「行こう。とりあえず今日は大丈夫だから」
有無を言わさぬ強い調子の冷音には逆らえない。そうでなくとも、あんな化け物からは一刻も早く離れたい。
海斗は芽衣を助け起こし支えると、さっさと先へ行ってしまった冷音の後を追った。
校門から数歩離れてから恐る恐る振り返ると、女は既に影も形もなくなっていた。