10.校則違反
「それで、どうして冷音のところに?」
ポテトをつまんで塩気の強くなった指先を舐めながら、海斗は言った。
ファーストフード店の一角、入り口からは死角になりやすい位置のボックス席に陣取り、海斗はハンバーガーをむさぼり食べていた。
入店BGMに接客係の声、調理機器の稼働音などがひっきりなしに鳴っているうえ、店内全席クッションすら張られていない硬い椅子だ。決して落ち着ける環境ではない。が、その騒々しさが逆に、身をひそめながら内緒話をするのにちょうどいい。
『いかなる理由があろうとも、下校時における許可のない店舗立ち寄りは禁止』というのは、生徒手帳にも明記されている夕陽ヶ丘高校の校則である。つまり、海斗たちは絶賛校則違反中なのだ。念のため、入り口付近への警戒は怠らないようにしている。
海斗の関心は揚げたてのポテトと、目の前の少女に向けられていた。
向かい合って座っていても、背の小ささがよくわかる。猫背の海斗がハンバーガーにかぶりついた状態で目だけを上げたら、それがちょうど相手の目線だ。
前髪は眉より上のラインで一列に切りそろえられている。その独特な前髪も、きっちりまとめられたポニーテールも、カメラを覗くのに邪魔にならないように、という理由でのものらしい。
先ほどからずっとカメラを撫でている。せっかく買ったハンバーガーを食べる気はないのだろうか。
目はキョロっとしている。黒目勝ちで女の子らしい瞳だが、警戒心をあらわに顰められた眉で、そのかわいらしさは相殺されている。
その態度から、冷音と色恋的にどうこうなるような気は向こうにもないとハッキリわかり、海斗は安堵した。
河野芽衣。一年C組、写真部所属。数日前に、類稀なる存在感の薄さを誇る新間垣冷音を捕捉した希少な人材である。
ちなみに冷音はというと、海斗のとなりで炭酸飲料を飲んでいる。渦中の人だというのに全く興味はなさそうだ。それはつまり、海斗への「お前に任せた」の意思表示なのだろう。
海斗は芽衣に向き直った。改めての対面で、芽衣が少し緊張したのがわかる。
「あの、河野さん。同じ学年なんだし、あんまりその、緊張とかしないでもらえると嬉しいんだけど……」
「そうは言われましても、急に呼び出されて私としても何が何やらという状況でして」
「ごめん、冷音に声を掛けた人がいたっていうのがあまりにも衝撃的過ぎて、つい気になっちゃって。
名前もクラスもわからないって言うから、廊下で二人で張ってたのは……本当にごめん……」
「せめて笹塚が声を掛けてくれてたら良かったのに……!思わず悲鳴上げちゃったじゃん!」
芽衣は赤面しながら頭を抱え、控えめに暴れた。地団駄まで踏んでいる。
廊下で冷音が声を掛けたところまでは良かったのだが、芽衣には眼前に突然冷音が現れたように見えたらしく、およそ少女らしからぬ気合の入った悲鳴を上げさせてしまったのだ。そのうえなかなかの声量だったものだから、わらわらと野次馬が見物に来る騒ぎに発展してしまったのだった。
その時冷音はというと、いつもの通り気配を消して、海斗と芽衣が慌てふためくさまを遠巻きに見て楽しんでいたというから性質が悪い。
「いや、ごめん……河野さんには冷音が見えてるんだとばかり……」
「えっ!?今、見えてますけど?新間垣ってなんなんですか、本来は見えちゃいけない系のやつですか!?幽霊?妖怪?もしかして、やっぱり魔女?」
「誤解の無いよう言っておくけど、冷音はすっごい存在感が薄いだけの普通の人だよ。
で、その魔女と冷音がなんで結びついたのかなーって。知りたくなって」
おれより先に冷音に彼女ができるかもしれない可能性を察知したため野次馬根性でお相手候補の女性を見にきました、という本音はおくびにも出さずに海斗は言う。
「たぶん学年中でも冷音の存在を認知してるのっておれくらいでさ。小学校とか中学校の時からそんな感じだったから。河野さんはどうやって冷音のこと知ったの?」
「ああ。それなら、そんなに大したことじゃないですよ」
言いながら芽衣はカメラをいじりだし、電子モニターを海斗たちへ向けた。
「ほらここ。それからここにも」
学校内を撮影した写真だ。学食に列を作る生徒たちの後ろ姿や、休み時間の廊下の様子など、たわいのない日常が写し取られている。
その写真たちのうちの数枚、芽衣が指さした片隅に、ばっちりと映り込んでいた。
「冷音だ……」
完全に盲点だった。存在感は希薄だが、写真には映るのか!驚きをもって冷音を見ると、涼しい顔でモニターを覗き込んでいる。
「よく撮れてるね。河野さんて写真部に所属してるだけあって、撮るのうまいな」
「えへへ、そうでしょ。みんなでピース!って写真撮るより、こういう日常の切り取りのほうが好きなんだよね」
「それに比べて海斗は俺が写真に写ってることに驚いてるみたいだけど。相変わらず失礼だよね。
海斗の中では俺ってどういう扱いなの?吸血鬼だとでも思ってるわけ?」
冷音はいつものように喉だけを鳴らしてくっくと笑った。小馬鹿にされたようで腹立たしい。
「お前の写真を撮るなんて考えたことすらなかったんだよ」
「気色悪いし、お断りかな」
「今後も一切お願いすることはございません」
海斗と冷音の掛け合いを聞き流しつつ、芽衣はカメラを学生カバンにしまうと、背筋を伸ばして二人に向き直った。
「とにかく新間垣に関しては、写真には写ってるのに“見たことない”っていう同級生が多数だったから、魔女候補として有力かなと思って」
芽衣の言わんとしていることはなんとなくわかった。今しがた聞いた、遊歩道での体験のことだろう。
足音があり、存在感もあるのに目には見えない……。そんな存在が、本当にいるのだろうか。冷音は確かに存在感は希薄だが、目には見える……はずだ。
「噂って“魔女”についてなんでしょ?魔女って、女の人のことを言うんじゃないの?」
海斗は疑問を口にする。しかし、先に口を開いたのは冷音のほうだった。
「そうでもないよ。少なくとも中世の魔女裁判では、魔女という名目で男女問わず裁かれていたようだし」
「そうなの?」
「15世紀初頭に使用されていた“魔女”を意味するラテン語はmaleficusだね。この言葉は男女両方を表していたものらしい。
とはいえ当時の魔女裁判については、教義に反して異端と扱われた人たちが差別の対象となった結果起こった集団ヒステリーのようなものだと俺は理解しているから、河野さんが言うような噂の魔女とは異なると思うけれど」
つまり俺が魔女でもなんらおかしくはないっていうことだよ。いつものように冷音は淡々と言い放った。
冷音は手にしていた文庫本に人差し指だけをはさみ、閉じている。逆の手で炭酸飲料の入ったカップを持ち上げると、ストローを吸った。冷音の視線の先で、芽衣は何かを考えこんでいるようだった。
「なるほど。なら、新間垣は“夕陽ヶ丘高校の魔女”っていうのはなんだと考える?」
芽衣が問う。
「今までの話を聞いた限りだと、脳の問題かな。“思い込み”っていうとわかりやすいかと思うけど」
「思い込み?だって私、確かに足音を聞いたし、人の吐息を感じたよ?」
「あくまでも可能性の話だよ。
人間の脳って、案外適当なんだ。
河野さんは事前に魔女の話を聞いて、それに対する他者の異様な反応を目の当たりにしていた。
だから遊歩道へ向かった時も、意識にバイアスがかかっていたんじゃないかな?『本当に何かあったらどうしよう』って」
芽衣は真剣な顔つきで冷音の言葉に聞き入っている。
「そういう恐怖のバイアスがかかると普段なら気にならないことが気になったり、怖く感じたりすることがある。遊歩道は特に暗いし見通しも悪いから、不安を増長させただろうしね。
そんな時にたとえば、草むらの中を猫が歩いていたとしたら?」
「猫?」
「そう。猫じゃなくてもいい、とにかく茂みに紛れて移動できる野生動物がいたとしよう。そうしたら、“足音は聞こえるのに姿が見えない何か”は完成するよね。
ただでさえ恐怖や不安が煽られるシチュエーションの中で、理解が追い付かない現象が起きたときに、脳はバグを起こす。そのバグが今回は河野さんが感じた“人の吐息”だった可能性はあると思うよ」
それがつまり“思い込み”ってことね。芽衣は顎に手を置いて思考を巡らせているようだった。
「うん、決めた」
芽衣はパッと顔を上げ、海斗と冷音の目をまっすぐと見た。最初に抱いていた警戒と緊張は、もう解れたらしい。こう晴れやかな顔をしていると結構かわいいな。海斗はぼんやり考えていた。
「二人とも、今度ちょっと付き合ってよ。もう一回、遊歩道を調べに行ってみたいの」
だから芽衣からの提案には、咄嗟に深く考えもせず、了承の返事をした。
我に返った時にはすでに遅し。冷音の「いいよ」の声に、後には引き返せないことを悟ったのだった。