1.灰色の男
著名な画家が描いたのであろうその絵は、翼を持つ男とも女ともつかない人物が雲間から射し込む一筋の光と共に、有象無象の人々に手を差し伸べているものだった。
千波はぼんやりとその絵を見上げながら、どことない息苦しさを覚えた。
天使と思しき人物から手を差し伸べられている人々は、その手を掴まんと身を乗り出し、他者を蹴落とし、或いは殴り、刺し殺し、その身を割き、あるものは肉を口にし、子を殺された女は嘆き、それでも争いはやまず、苦しみ、もがき......。
遠く高い雲の隙間からその様子を眺め、腹を抱えて嘲笑うように描かれた天上人達を、千波は嫌悪した。
「......趣味の悪い絵」
よくもこんな絵を、おおっぴらに人目につく場所に配置したものだ。
千波は周囲を見回した。
白を基調とした大理石作りのホワイエは、高窓からの採光で明るい光に溢れている。両開きの重厚な扉から入ると、真正面の壁一面に大きく飾られているこの悪趣味な絵が目に飛び込んでくる作りになっているようだ。千波は絵から目を背け、背後を振り返った。
扉の両隣には二階へと繋がる階段がある。壁沿いに緩くカーブを描く階段には、見るからに高級そうな赤いカーペットが敷かれている。二階の吹き抜け部分には石像が飾られているようだ。人を模した無機質な灰色の塊が、こちらに背を向けている。
ホワイエはいくつかの部屋と繋がっているようで、各ホールへ続く開け放たれた扉の脇にはパネルが掲示されている。どうやらここが美術館であるらしいことが見て取れた。
とはいえ、他に誰がいるわけでもない。無機質でありながら絢爛たるその空間に、ただ千波一人だけが存在している。
ツコン、とローファーの踵が床を蹴り、音が響いた。
千波は気にも留めず――むしろ、その音を心地よく感じすらしながら、手近な展示室へ向かった。
ホワイエ同様に白を基調に作られたその展示室は影が落ちる余地がないほどに明るく、また展示品も白い石から削り出された彫刻が数点置かれているだけだった。
ツコン……
展示室に響く靴音は、より一層大きく聞こえた。
部屋の中央に堂々と鎮座する、ひときわ大きな彫像へと近づく。
取り立てて彫刻に興味があるわけでも、美術品に造詣が深いわけでもない。それでもなんとなく、その像には気を惹かれた。
白。白い石に白い光が反射する。白。彫像に影が落ちないように。白。一片の汚点も許さない、圧倒的な白。
ツコン。
手を伸ばせば触れられる距離まで来てしまった。それでも、この彫像が何を模しているのか把握しきれず、目を細めてよく見ようとし――目があった。
「げえ、趣味悪っ……」
思わず顔をしかめる。もし、胃の中に食べ物が残っていたら、思わず吐いてしまっていたかもしれない。
子供の頭があった。虚ろに開かれた目で、千波を見つめている。首から下は、ない。断面にはご丁寧に、肉から飛び出た頸椎とちぎれた血管らしきものまで繊細に彫られている。
死体の彫像はそれだけではなかった。
この作品自体が、あまたの死体の塊で形作られているのだ。
獣の頭。幼児の腕。女の脚。
それぞれかなりリアルに彫り込まれている。触れば弾力がありそうな肌の質感。風に揺れる髪の質感。したたり落ちてきそうな、臓器まで。
子供の虚ろな目は、未だ千波をとらえている。
あれは彫像だ。あれは、彫像の、はずだ。
目。白い目。子供の目。見られている。目。子供の目。白い、子供の、目。見られている。千波を見ている。みんな見ている。目が見ている。白い目が、目が、千波を
千波は彫像から目をそらすと口元を抑え、展示室から駆け出そうと踵を返し、
「ひっ!」
呼吸が止まりそうなほど、驚いた。
背後に、男がいたのである。
男は哂った。白ともつかない薄いグレーのモーニングコートの裾が、軽く揺れる。
「失礼。驚かせてしまったようで」
男はトップハットを取り、鷹揚に礼をした。
およそ初老といえるだろうか。丁寧になでつけられた白髪交じりの髪と髭が気品を漂わせている。穏やかに微笑んではいるが、深い彫りの奥には、底知れない輝きを放つ瞳がある。怪しい光を湛えたまなざしに射竦められた千波は、意思に反して強張っていく身体を感じていた。
「あなたのようなお若いお嬢さんには、こちらの展示は退屈でしょう。是非お見せしたいものがございますので、ご案内いたしますよ」
慇懃な態度で男が言った。
おそらく千波に拒否権はないのだろう。身を翻し歩を進める男の背中に抗えず、千波は展示室を後にした。
初投稿です。
お付き合いいただけますと幸いです!