8.匂香
「いつまで…」
「ルーチェ?」
ベッドに座り、窓の外を眺めながらポツリと呟いたルーチェに、傍の椅子に腰掛け本を読んでいたルキーノは顔を上げた。
「どうした?」
「私…いつまでここにいるんだろうと思って…」
三ヶ月前、高熱から目覚めた頃は目眩や耳鳴りなどの不調や精神的に不安定になる事が多かった。
けれどここで穏やかに過ごす内にそれらの症状もすっかり治まり、健康になったと思っている。
前世の感覚からすると、いつまでも入院しているのもおかしいし悪いと思ってしまうのだ。
それに入院費とか…かなり掛かっていそうだ。
…そのあたりは侯爵という高い地位の貴族なのだから気にしなくていいのかもしれないけれど。
「ルーチェ」
ルキーノは本を置き、椅子から立ち上がるとベッドの縁に腰掛けた。
「まだ耳は治っていないし、記憶だって戻っていないだろう」
「でも…お医者様がもう治療のしようがないって。それなのにいつまでもここにいるのも…」
「ルーチェは何も心配しなくていいんだよ」
ルーチェの髪を撫でながらルキーノは言った。
「それとも家に帰りたい?」
「家…」
記憶のないルーチェにとって、家と言われても何の思い入れはない。
けれど。
「…家族には会ってみたいわ」
ゲームには出てこなかったから、顔も分からない両親ともう一人の兄。
彼らはどんな人達なのだろう。
この療養所へは馬車や船を乗り継いで家から十日近く掛かるという。
通信手段は手紙しかなく、早馬を使えば人が移動するより二日ほど早く着くらしいが、それでも時間はかかる。
気軽に見舞いに来られるものではないのだ。
「そうだね…俺はルーチェを独り占めできるからこの状況が嬉しいけど。母上や兄上も会いたがっていたよ」
ルーチェのいない家は寂しいんだ。
そう呟いてルキーノはルーチェを抱きしめた。
父親は婚約者の心変わりに苦しむルーチェを助けなかったからと他の家族に見放され、既に居ないものと扱われているらしい。
(それも可哀想だけれど…)
父親にだって立場というものがあるだろうし、もしもゲームの強制力があったとしたら、それは仕方のない事だったのだ。
「家に帰るか、領地の近くの療養所に移るか。医者や兄上に相談してみるよ」
「ええ…」
「俺はこのままルーチェと二人きりでこの国に住んでもいいけどね」
そう言ってルキーノはルーチェの額にキスを落とした。
(っだから…甘いんだってば!)
この世界ではこれが普通の愛情表現なのか。
ルキーノなのだからか。
羞恥で顔が赤くなったルーチェの頭を嬉しそうに目を細めたルキーノが撫でていると、ドアをノックする音が響いた。
「はい」
「あの…お客様なのですが…」
ドアの向こうから、サラの戸惑った声が聞こえた。
「客?」
訝しげに眉をひそめるとルキーノは立ち上がった。
開けるより先に開いたドアの向こうに立っていた人物に、ルキーノは目を見張った。
「何故ここに……」
「ルーチェがここにいると聞いた」
「…まさか会わせろと?」
「君の怒りは分かっているよ、ルキーノ」
「だったら…」
「ルキーノ?誰が来たの…?」
室内からずっと聞きたくて堪らなかった声が聞こえて———エルネストは弾かれたように中へと飛び込んだ。
「ルーチェ!」
突然部屋に飛び込んできた人物にルーチェは瞠目した。
自分を見つめる水色の瞳は喜びと不安で揺れていた。
そのまばゆいプラチナブロンドの髪も、端正な顔立ちも…ひかりの記憶にある、画面の向こうの〝彼〟と一致はしたけれど、ただそれだけだった。
もしかしたら彼の姿を見れば記憶を思い出すかもしれない。
ルーチェは密かに期待していた。
けれど実際に彼———エルネストを見ても何の感慨も起きなかった。
ルーチェの表情からそれを察したのであろう、エルネストは苦しげな顔を見せた。
それでもルーチェを見つめたまま、ゆっくりと近づいてくる。
ベッドの傍に膝をつくと、エルネストはルーチェを見上げた。
「ルーチェ…私はエルネスト・ガーランド。君の…婚約者で、君を裏切った男だ」
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳がまっすぐにルーチェを見つめる。
「私がした事は許されない事だ。だが…それでも私は……たとえ君が私を忘れても。私は君を忘れられないんだ」
「…殿下…」
「———君を愛し続ける事を許して欲しい…ルーチェ」
まるで宝物に触れるように、エルネストはそっとルーチェの手を取った。
ゆっくりと顔を近づけると一瞬触れるだけの口づけを甲に落とす。
さらりと揺れたプラチナブロンドの髪からレモンの香りがした。
その香りを感じた瞬間、ルーチェは心の奥から何かが湧き上がる感覚を覚えた。
ルーチェの手を取ったまま顔を伏せていたエルネストは、ルーチェの白い手の甲にぽたりと雫が落ちたのに気づいて顔を上げた。
白い頬を涙が伝っていた。
大きなエメラルド色の瞳から大粒の雫がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
様子を見守っていたルキーノが慌ててルーチェの側に寄った。
記憶を無くすより前———婚約破棄をされる前からルーチェは泣くことが出来なくなっていたと聞かされていた。
「ルーチェ…まさか、思い出したのか?」
「わ…たし…?」
茫然とした表情で、ルーチェはルキーノを見上げた。
それから自分の頬に空いた手を当てて、濡れた指先を不思議そうに見る。
「ルーチェ…私が分かるか…?」
自分の手と、エルネストを見てルーチェは首を緩く横に振った。
「分からない…分からないけど…」
胸が苦しい。
涙が止まらない。
どうしてこんなに、悲しくて…嬉しいのだろう。
「ルーチェ…!」
エルネストはルーチェを抱きしめた。
その香り、腕の温かさ…
———ああ…私は、知っている。
胸へと顔を埋めるルーチェを、エルネストは強く抱きしめた。