感情おばけ
北風優美里は男子にとって憧れの女子生徒であると同時に、女子にとっても憧れであった。
丸く大きな目と、外国人だという父親譲りの赤毛が目を引く。運動神経もよく、勉強に関しても成績はいつも上位。非の打ち所がないという言葉を具現化したような女の子だった。
まるで私と対称的な存在として生まれてきたかのように。
「悲しい話でも読んだ?」
俯く私に声をかけてきたのは、百地りつ子ちゃん。
「ううん、大丈夫。ありがとう。」
「辛かったら次の体育休んでね。あたしが先生に言っておくから。」
「平気平気、体育の先生にまた怒られちゃうし。」
「あの先生がおかしいんだよ。体育教師のくせにビョウキのこと理解しないなんてさ。」
病気。
私はHSP(Highly Sensitive Person)という、人とは異なるところがある。簡単に言えば、人一倍、いや百倍くらい感受性が強い。例えば映画の主人公が悲しむのを見て私も1週間くらいずっと鬱々としたり、大勢の人が集まるところにいるとすごく疲れてしまったりする。つまり非常に生きづらいのだ。しかし、周囲は厳しい。「神経質なんだね」とか、「大袈裟だな」とか、 大体理解してはもらえない。
だからりつ子ちゃんにはすごく助けられている。
「HSPなのに、読書が好きっていう私がおかしいのよきっと。」
「そんなことないよ。好きなものは好きだからしょうがないよ!それで、何読んでるの?」
「ありがとう。湊かなえさんの『少女』。人が死ぬのを見てみたい2人の話。」
「『夏の庭』みたいだね。人が死ぬのってそんなに見たいものかな。」
「りつ子ちゃんは見たことある?」
「ないなー。飼ってたインコが死ぬのは見たことあるけど。」
「どうだった?」
「抜け殻みたいだった。魂が抜けるって、こういうことなんだって思ったな。それで、凄く悲しかった。」
「不思議だね。生き物は今まで数え切れないくらい死んできたけど、そのうちのどれだけの死が悲しまれたんだろうってよく考えるの。」
「名前も知らない生き物が今もまさに死んでいるかもしれないよね。」
「うん、つまり死ぬことを定義付けてるのは感情なんじゃないかって思うの。自分にとって関係性があって、別れるのが寂しいと思った時、人はその人の世界の中で死んだことになるんじゃないかなって。」
「ようするに、感情があるから魂が生まれるってこと?」
「そういうことになるね。だから、自分が死ぬ時悲しんでくれる人がいなかったら魂はこの世に残っちゃうんじゃないかな。」
「感情おばけだ。」
「いいね、感情おばけ。そういう意味では、あの子は感情おばけにならなそう。」
あの子、北風優美里の周りにはいつも人だかりが出来ている。別に嫉妬しているわけでも、あの中に入りたいとも思わないが、羨ましくは思ってしまう。私が死んだら、あの子は何を思うのだろうか。
*
放課後、トイレに寄りたくて行きつけの書店に寄った。書店が好きだ。本のにおい、整列した佇まい、店員さんが丁寧に作った安っぽいポップ、山盛りになった栞。その全てが私を別世界に連れて行ってくれる。読書が好きな理由の一つにその没入感がある。ほんの世界にのめり込むことで、人の気持ちを考えずに済むからだ。書店も同じように私を別世界へ誘ってくれる。
トイレで用を済ませ、好きな作家の本が無いか見回しながら進む。途中で今日発売の雑誌も見つけ、会計へ向かう。新しい本を手にして歩く時は何にも変え難い幸福感がある。
しかし今日は違った。北風優美里がいたのだ。
雑誌をもう手に取ってしまったので、わざわざ戻して帰るのは気が引ける。いや、良く考えれば北風優美里は私のことを認知していないのではないか?私が妙に気にかけているだけで、向こうは私のことなど気にもしていないのだ。素通りすることにした。
「南方さん?こんな所で会うなんて奇遇だね。」
*
一生行かないと思っていた、おしゃれなカフェに座っている。それも、一生話さないと思っていた北風優美里の前に。
「いきなり話しかけてごめんね。」
「いえ…」
いざ前にすると言葉に詰まる。大きく開いた目は、私の一挙手一投足を見逃さないとでも言うように私を捕らえて離さない。汗の一滴すら流せないと思ったほどに。
「私のこと、どう思う?」
突拍子もないことを聞かれて分かりやすいくらいに驚いてしまった。恐らくこの質問に答えはない、試されているのだ。
「…かわいいと、思います。」
「どこが?」
「…顔とか、仕草とか。」
「足は?手は?背中は?」
「…それも、細くて、その、美しいと思います。」
「私とセックスしたい?」
一瞬、何を言ったのか分からなかった。いや、確かに言った。セックスと。中学生なりに知識はあるが、目の前に座る人形のような女の子と状況の乖離に、脳みそが処理落ちした。
「私の周りに来る子達はみんな、私とセックスしたいだけ。」
「…そんなことないと思います。だって女の子も。」
「女の子も、だよ。みんな私の外見しか見ていない。私がどれだけみんなのことを知ろうとしても、彼らが聞いてくるのは化粧品何使ってるのとか、彼氏はいるのとかそんなことばかり。それと経験人数何人なの、とかね。」
考えたこともなかった。そもそも中学生で性行為をしてるかなんて保健の教科書のグラフでしか見た事ないし、周りの子がどうなのかとかも興味がなかった。もしかしたらりつ子ちゃんだって。
「わたし、そういうの疎くて分からないんです。今まで、恋愛もろくにしてこなくて。」
「うん、じゃあ私としてみる?」
「…したくないです。」
「なぜ?」
「こ、怖いからです。」
「ふーん、ま、冗談だよ。」
そう言ってコーヒーにお上品に口を付ける。
分からない。これが北風優美里の特徴であり魅力でもある。朝は誰より早いはずの私よりも早く登校しているし、帰りは誰よりも早くいなくなっている。お昼ご飯の時もどこかへ消えてしまって、実は彼氏がいるんじゃないかってみんなが噂をしているけど、それは有り得ないだろう。この人と釣り合う人などいるはずはない。
コーヒーを机に置くとするりと視線を戻して尋ねてくる。
「今日の放課後って、何してた?」
「…何故そんなこと聞くんですか?」
「気になるの。答えて。」
「下校途中にさっきの書店に寄って。」
「そうじゃなくてさ。」
「え?」
「飼育小屋のニワトリを殺したところから聞きたいんだよね。」
**
私、北風優美里には秘密がある。誰にも話していない秘密が。
転勤族の父親の影響でした3度目の転校。3度目ともなれば慣れっこで、初日の朝もいつもと変わらない風に起きることが出来た。いつも通り顔を洗って、パンを焼いて、歯を磨いて。そして登校。転校して最初の挨拶はいつものでいっかなんて考えていたら、道の先を歩いている女の子を見つけた。職員室へ寄らなければいけないので少しだけ早く家を出たつもりなのに、こんなに朝早くから登校している生徒がいるなんて驚いた。だが、転校初日で声をかけるのも幅枯れるので、何となく気にしながら距離を開けたまま歩いていた。
少し歩いたところで女の子は急に脇の茂みに入っていった。思わず寄っていってそっと茂みを覗き込む。
そこでは女の子が何かを埋めている。
よく見るとそれは大量の骨だった。
瞬間、激しい動機と好奇心に襲われた。あの子は何をしているのか、何故そうしているのか、知りたくてたまらなくなった。と、同時に見てはいけないものを見た恐怖心に苛まれ、走って学校へ向かった。
そして数奇な運命のいたずらか、転校初日のHRで私は見つけた。南方さくらという女の子、骨を埋めていた不思議な子。
翌日から私の一日のルーチンには南方さんの尾行が追加された。朝、昼、下校。尾行はあくまで計画的に行われ、不審に思われないよう慎重に。
そして、ついに核心に迫る日がやって来た。その日もいつも通り尾行していると南方さんは飼育小屋へ入っていった。入るなり、ニワトリの首を捻って、殺した。あまりにも手際が鮮やかだったが、一つだけミスを犯していた。ニワトリの血が左手に付いてしまっていた。
数ヶ月にわたる尾行により、私は確信していた。南方さくらはあの奇行を他人に隠している、異常な程に。つまりあの左手の血は一刻も早く落としたいわけで、しかし今から校内に戻って手を洗う様子を生徒に見つかる訳には行かない。となると、可能性は一つ。私は南方さんより先に人通りの少ない裏通りの書店へ向かった。
そして、今、私は南方さんの前に座りコーヒーをすすっている。私の仮説を試すために性行為の話題を振ってみたが、やはり警戒されているようではぐらかされてしまった。もう直接聞くしかない。
「今日の放課後って、何してた?」
「…何故そんなこと聞くんですか?」
「気になるの。答えて。」
「下校途中にさっきの書店に寄って。」
「その前から。」
「え?」
「飼育小屋のニワトリを殺したところから聞きたいんだよね。」
「な…。」
南方さんの視線が揺れる。
「ごめんね、私実はあなたのこと、知っているの。」
「なぜ…。」
「それはこっちの質問だよ。何故あなたは毎日のように隠れて生き物を殺したり、車に落書きしたり、他人のポスターを破いたりしてるのか、聞きたいの。」
南方さんは押し黙る。息遣いは荒く、1mmたりともこうなることを予測していなかったであろうことが伺える。目の焦点を合わせてゆっくりと口を開ける。
「…追体験。」
*
「追体験?」
「本や映画の中でキャラクターが体験した出来事を私も体験しているんです。」
「なぜ?」
大きな目に依然私は囚われていた。きっと毎日こうやってどこかから見られていたのだ。細心の注意を払っていたつもりが、不覚だった。汗が止まらない。
「…私のコト、たくさん知っているんですよね。」
「知ってる。それこそ登下校と学校にいる間のことだけだけれど。あなたの持つ特性についても理解してるつもり。」
「なら、分かりますよね。私は先天的にキャラクターにのめり込んでしまうんです。その子が生き物を殺したり、犯罪を犯したとき何を感じたのか、なぜその行為を行ったのか、その興味で頭がいっぱいになってしまう。」
「だから追体験して発散している…ってこと?」
「そうです。理解できないと思いますが。」
「そうか~。」
なぜか、そう言うと思っていたかのように落ち着き払っているのが妙に気持ち悪い。北風優美里はどこまで私のことを読んでいるのか。どこまで理解しているのか。
「理解は…確かに出来ない。けど、良かった、やっぱりあなたに話しかけて。」
そう言うと突然北風優美里は私の手をとってきた。
**
「私、あと数日しか生きられないのよ。」
そう言うと、南方さんはやっと顔をあげた。哀れみと好奇心が混ざったような顔。ああ、さっきのニワトリにもそんな顔をしていたよね。
「詳しくは…興味が無いだろうけど、余命宣告はされてるの。」
「そ、それならもっと楽しいこととかした方が…。」
「私はあなたのおかげで毎日楽しいけどね。」
握った手はお互いに汗ばんでいた。
「ここじゃなんだし、外に出よっか。」
そう言って南方さんの手を引いて店を出る。あ、期間限定のモンブラン食べ忘れてたな、まあいっか、もう二度とは食べられないだろうけど。
*
しばらく歩いて公園へ着いた。
もう日が暮れて随分経っているので人影はなく、ただ私達だけがここに閉じ込められたかのようだ。北風優美里はにこりと笑って私の目をじっと見てくる。その行為になんの意味があるのか分からないが、ただそれを繰り返すだけの何も起こらない時間が続く。
それにしても、北風優美里は美人だ。こうして近くに寄って見つめたことはなかったが、薄く紅のさした頬や吸い込まれるような瞳は、まるでよく出来た人形のようで触れたら壊れそうだった。
あっ、と思わず声に出てしまう。
そうか、死期が近いからこんなにも美人なのだ。
死に近いものほど魅力的で可愛いとはよく言うが、北風優美里のそれはまさにそうだった。そう気付くと、今まで高嶺の花だった彼女がまるで儚い少女に変化するように、私の心の中にするりと入り込んできた。
「感情おばけって、言ってたよね。」
「あ…聞いてたの?」
「私はね、私を何も残せずに死んでいくの。身体なんて、死んだらただのガラクタよ。だから私が死んでも、その時は悲しいとか言いながらみんなすぐ忘れちゃう。だって私の中身なんて、誰も知ろうとしなかったんだもん。」
突然、肩を掴まれ引き寄せられる。
「だからね、貴方には覚えていて欲しい。誰よりも他人の心に染まれるあなたの心に、私の居場所を分けて欲しいの」
そう言うと、キスをした。ファーストキスだった。
彼女の唇は少し震えていて、淡い熱を帯びていた。
それからふいに走り去って、それ以来彼女と会ったことはない。転校したのだと聞かされたけれど、誰一人不思議がったりしなかった。
***
だから私だけはあなたのことを忘れない。
いや、忘れられないのだ。
あなたは本当におばけになってしまったけど、その代わり私に憑依して離れなくなってしまった。
何時いかなる時でも、心はあなたのそばにいる。