隔靴掻痒
隔靴掻痒という言葉がある。今の僕の気持ちにはこれがよく当てはまる。と言っても別に足が痒いわけじゃない。痒いところに手が届かない。はがゆく、もどかしい。
僕はアリスのことを知っているのに、アリスは僕のことを知らない。他のクラスメイトも同様だ僕は彼らのことを知っている。しかし彼らにとって僕は初めて会う他人なのだ。再び仲良くなんてなれるのだろうか。
「始めまして。私は桐生アリス。席が私だけ1人で寂しかったの。あなたが来てくれてよかった」
どきりとした。僕に小児性愛の気はなかったはずなのだが、身体に精神が引っ張られているのか。そういうこともあるかもしれない。なにせ前例がない。とにかく、アリスの微笑みはどこか妖艶で魅力的だった。
僕は曖昧に相槌をうつと席に座る。久しぶりの木製の椅子はひどく硬く感じた。
一時間目は国語。佐久間が人当たりの良い笑顔で授業を始める。
「よーし、今日からはやるのは “手袋を買いに” だ」
手袋を買いに、たしか子狐が手袋を買いに行く話しだったか。よく覚えてないな。
「まずは読んで見ようか。麻倉、いってみよう」
「……俺⁉︎」
ちょうど真後ろから声が上がった。麻倉良平。みんなからはリョウと呼ばれていた。彼は少しぼーっとしたところがあるが、誰とでも分け隔てなく接し、不思議と周りの空気を柔らかくすることが出来るような存在だ。あまり気付かれないがリョウに救われている奴も多いはず。難点は目が細すぎてどこを見てるのかわからないことか。リョウとは不思議と馬があった。また味方になってくれるだろうか。
「さ、さむい冬が北方から、きつねの親子のすんでいる森へもやってきました。ある朝、ほらあなから……」
こどもの頃にはわからなかったかもしれない。この物語はこういう話だ。
冬の朝、子狐の冷え切った手をあたためながら、母狐は手袋を買ってやろうと思いつく。町に出かける途中で人間が怖いのを思い出した母狐は足がすくんでしまい、子狐だけを町に行かせることにした。母狐は子狐の片手だけを人間の手に変え、町の帽子屋に行って戸のすきまから人間の手だけを出して手袋を買ってくるように教えた。同時に人間がおそろしいものだということも。子狐は帽子屋に着くと戸を叩いた。すると戸が一寸程開き、中から光が子狐に差し込み、それが眩くめんくらった子狐は間違って狐のままの手を出してしまう。帽子屋は狐が騙しにやってきたのかといぶかしむが渡された白銅貨が本物だった為、子狐に毛糸の手袋を持たせた。母狐のもとに帰った子狐は間違って狐の手を出してしまったが人間は手袋を売ってくれたことを話した。「にんげんってちっともこわくない」と話す子狐に母狐は呆れ「ほんとうににんげんはいいものかしら」と呟き物語は終わる。
「さて、この話、どう思った?」
佐久間は少し間を空け続ける。
「俺はね、雪の積もる土地には住みたくないなと改めて思ったよ。いやね、この学校に来る前少しだけ北海道に住んでたことがあるんだが、雪かきってのはつらいぞ」
少しおどけたように話す佐久間に食いつく声がひとつ。
「先生には物語を楽しむ心ってのが足りないと思いまーす」
「へぇ、じゃあ真泉、お前はどう感じた?思ったことならなんでもいい」
真泉翔子はその吊り上がった大きな目を少しだけ瞑るとハキハキと話し始めた。
「お母さんはどうして子狐をひとりで町に行かせたのかなって思ったよ。だって自分のかわいいこどもなんでしょ? 私のお母さんなら絶対に一緒に来てくれるよ! あっ! 勘違いしないでよ。私はひとりでも買い物できるからね!」
「あはは。真泉がひとりで買い物に行けるかどうかは置いておいてだ。母狐が子狐をおそろしい人間のいる町になぜひとりで送りだしたのか。それはこの物語の主題のひとつだと俺も思うぞ」
言いながら背後の黒板に、母きつねはなぜ子供を1人で町に行かせたのか。と書き込んでいく。
「なぜかな?」
佐久間はクラス全体に問いかけた。そこに手を挙げたのは2人。1人は利発そうな短髪の少年。もう1人はおさげ髪のよく似合う背の低い女の子だ。
「おっケイスケ。めずらしいな自分から手をあげるなんて」
ケイスケは自慢げな表情で鼻をこすると少年らしい少し高い声で答える。
「お母さんぎつねはさ、風邪をひいていたんだよ。だってさ冬だろ?雪が積もるくらいに寒いんだ。そんなところにいたら寒くて寒くてたまらないだろ」
「ふむ。なるほど母狐は体調が優れなかったわけだな」
佐久間は黒板に、かぜをひいていた。と書き足していく。
「違うと思う」
おさげ髪の少女が呟いた。
「なんだよカスミ! じゃあお前はどう思うんだよ!」
「狐とかライオンとか動物には子供を突き離して育てる習性があるのよ。ほら獅子の子落としってことわざもあるくらいだからね。だからこの話の中に出てくる母狐もあえて子供を1人で町に行かせることで成長させようとしてたんだわ」
瞳に正解でしょ? という意味を暗に持たせてカスミは佐久間を見やる。
「はぁ? んだよシシノコオトシってタツノオトシゴの仲間か?」
「おーしストップだ! ……獅子の子落としってのは獅子っていうライオンに似た中国の空想上の動物だが、そいつは我が子を谷底に落とし、そこから這い上がることが出来た強い子供だけを育てる。という迷信から子供を立派に育てたければ楽をさせてはいけないっていう意味があるんだよ。よく知ってたなカスミ。よく勉強してるぞ。まぁそれはいいとして。カスミはの言ったことは正直正解に近い。人間だって子離れのために同じようなことをする。はじめてのおつかいとかテレビで見たことないか? あれと一緒だ。つまり母狐は子供をあえて1人で行かせることも今後の成長の為にはいいかも知れないと思った。のかもしれない。おそろしい人間の社会を1人で経験させることに意味があった。のかもしれない。これは物語だ。ここに書いてある言葉以外の正解は本当はないんだ。この物語を見てそれぞれが感じたことは全て正解で、どれが正しいなんて本当は意味がない。まぁそれじゃ授業にはならないんだが、まぁ、だからケイスケの言ったことも当然正解だよ。風邪をひいていた。だから母狐は一緒に行けなかったんだ。そんな物語があっても俺はいいと思う」
佐久間も結構やるもんだ。こどもの頃はただの変態ブーメランやろうだと思っていたが、人に物を教えている人間ってのはすごいね。
ケイスケはカスミに向かって舌を出している。こどもってのは無邪気でいい。佐久間が何を伝えたいかなんて、そんなことはあまり重要視していないのだろう。
「ちょっと脱線したなー。話を戻そう。他に何か思った奴はいないか? ……そうだ古井戸くん、どうかな? 何か感じたことはないかい?」
ここで僕にふってくるのか!? これは弱ったぞ。変なことは言えないし……。
「え、えーと帽子屋のおじさんは狐の手なのに手袋を売ってくれてとっても優しい人なんだなぁって……」
そこで僕の言葉はずいと目の前まで伸びてきたアリスの頭に遮られた。
「狐にとって人間は恐ろしい物であり味方ではない。森を壊し、時にはその生命すらも脅かす脅威となる。人間にとっても狐は味方ではない。作物を荒らし時には疫病を蔓延させる害獣となりえる。しかしそれはお互いに生きる為の正義を実行しているだけだ。手袋と子狐は両者を繋ぐ架け橋となりえたのだろうか。と古井戸くんのノートには書いてあるようだけど?」
クラス中の視線が痛い。どうしてノートに感想なんか書いてしまったのか。
「これは前の学校の先生が教えてくれた内容ですよ。ちょっと僕らには難しい内容でしたが」
「そうか、でも面白い解釈をする先生だったんだな。古井戸くん、俺が教えるものとは少し違うかもしれないがあまり気にせず授業を聞いてくれると嬉しい」
僕のついた嘘は咎められるでもなく、集まった視線は自然と離れていった。ただ1番近くにある2つの瞳は刺すような鋭さを持ったまま僕を射抜いていた。