もっと遠くへ
二月とは思えない、とても暖かな夕暮れ時だった。テストが終わってから、何とか五時まで粘った塾を後にして、幹久は地下鉄駅の構内へと降りていった。降りていった先でも、空気の生ぬるいのは変わらない。吸い込めば、ぬらりと不快な臭気が鼻の奥を撫でるばかりだ。そしてその鬱血したような澱みが、人の流れにかき回され、構内を行きつ戻りついしているらしい。いつものことだ。
幹久が改札を抜けると、すぐそこの柱影に、彼の部活の先輩、田口がたたずんでいるのを発見した。たたずんでいる、と言うと、どうも間の抜けたような気がするが、実際田口は、特に何をするわけでもなく、柱に背中をつけずに、水平よりも少し首を下げてたたずんでいた。おおかた、帰ろうと思って改札を抜けた矢先、どういう訳があってか帰る気勢を削がれてしまったんだろう。出鼻をくじかれると、本人も気づかないうちにしばらくの間呆然としてしまうのは、この先輩にはいつものことだった。いや、田口に限らず、この傾向は幹久にもたまにあることだ。ほとんど無自我の内に行動している時は、何かしら勢いを取り除かれるようなことがあると、急に頭が動かなくなる。
田口も、幹久の姿を視界に捉えたらしく、ふっと幽体離脱をしていた魂が本体に戻ってきたみたいに、顔を上げて幹久に歩み寄った。
「やあ、塾かい?」田口は幹久に言った。ちょうど良い相手が見つかったというような調子だ。
「ああ、はい。そうです。先輩はどうしたんですか?」
「うん。こっちも図書館で自習してから仲間と帰る予定だったんだけどね、結局俺一人で帰ることになって、どうしようか考えてたんだ」
まさに手頃な相手が見つかったというわけである。この先輩は、放っておくといつまでも持論を喋り続ける癖があって、特に幹久相手には、多少過激な内容も平気で話してくる。幹久も幹久で何も言わずにそれを聞くものだから、先輩はますます助長されて、ともすると尻の長い一言居士みたくなってくる。
とはいえ、彼もやはり、文学や文章での表現を追究する一人であったし、自分とは違う専門分野を持つ田口の文章論は、幹久にとっても大きな魅力であったから、幹久自身は、彼の話を面白く聞いていた。日本の教育制度の陳腐さから、リア充撲滅論までその論旨は広範にわたっていて、特に後者のような話題になると、他とは違ってある種現実味というか、どこまで冗談で言っているのか分からない緊張感があり、それはそれで聞き応えがある。「炎上した掲示板のやりとりを見物する愉快」とは彼の言葉だが、幹久が彼の持論を聞くときの感情も、それに近いかもしれない。
いずれにしても、幹久には田口のようにあれこれと論を垂れるだけの舌がないし、途中で意見を求められても両者満足のいく返答ができるわけでもなかったから、彼の話が途切れないよう、適当なところで相づちを打つのが、田口の喋りに対する幹久の策だった。
「お前って、帰り下畑方面?」田口が言った。
「はい。友山から乗り換えますけど」
「そうか。じゃあ、友山まで付き合ってもらおうか」
と言って、田口はホームへ降りていく。幹久の言葉を聞いて、存外残念そうだ。よほど話したい新説でもあるのだろうか。
会話の苦手な幹久にとっては、地下鉄に限らず誰かと連れだって帰るというのは肩の荷が重いタスクだが、この先輩のこうした小講演会を聞くのには、まだその中に楽しみを感じることができた。
「今日は授業中、ずっと『どうして緊急時の避難では女性が優先されるのか』ってのを考えてたんだ」
乗り込んだ地下鉄の中で、田口は言った。どうも男女平等について語りたいらしい。はあ、と幹久が答えると、田口は話し出した。
「船とか電車とかでの事故が起こると、大抵は女性と子供から先に避難してください、っていう指示がでるだろ。あれが男性差別じゃないかっていう論があるんだ」
これまた、アンダーグラウンドで好んで展開されていそうな話だ。
「もちろん、そう言うときの建前としては、女性と子供を先に避難させないと、全体の避難がスムーズに進まないからっていうことになってるんだけど、これはどう考えても的確な説明ではないんだよね。子供についてはともかく、女が避難する上で何かスムーズにいかなくなるものがあるかっていうと、なかなか想像できない。
救助の順番を遅らせたとして、自力で生き延びられる力は男の方が強いんじゃないかっていう意見もあるけど、たとえば北極海のまっただ中で客船が沈没しようとしているときに、生き延びる力の男女差なんてあったもんじゃないだろう。逆に、女の方が皮下脂肪が多くて寒さには強いぐらいなんだ。つまり、緊急時に女性が優先されるのは、女よりも男の方が強いから、男は率先して女を守るべきだ、っていう都市伝説的道徳観が理由になってると考えられる」
「はあ、なるほど」
「でもそれは、明らかに男尊女卑に対する反動的な道徳観でしかなくて、フェミニストからでも嫌悪されるべき考え方だと思う。いくら女性優位といっても、女性の能力を否定する考え方だから。でも、もうその道徳観は社会通念化していて、男から優先して助けますなんて言ったら一斉に白い目で見られる。
そういうのは、いろんなところであると思う。極端な話をすれば、中東のどこかの町が空襲されたとして、多分多くの報道では、『死傷者は多数で、犠牲者の中には女性や子供も含まれています』みたいな風に言われる。これじゃあ男は戦争で死んでも当たり前、女子供を殺すのは非人間的って言ってるようなもんだろ。女性専用車両もそうだし、女性限定ナントカにしても、本来男女平等のために作られた考え方が、男子撲滅の武器に変質してるんじゃないかって話」
「まあ、そうかもしれないっすね」
そこで田口の話は一通り終わった。相変わらず、小さな声で話さなければ社会から手痛い仕打ちをされそうな話だ。
今回の田口の論説でも、彼の思考の特徴がよく現れていた。話の切り口や方向性は攻撃的で、ある程度の根拠をもって裏付けとしているが、話が混んできて結論というところになると、すべてを決着しきれずに、一般論の総括で結んでしまっている。とはいえ今回に限っては、結論が竜頭蛇尾となってしまったのも、星ヶ丘から本山までという短い時間しか彼に与えられなかったからかもしれない。いずれにしても幹久は、田口の論については、無感想に近かった。幹久にとってその論は、女性の口から発せられて始めて意味を持つものに感じられた。少なくとも、それほど社会貢献をしているでもない高校生が、声高に吹聴するようなことではないと。
地下鉄が本山に着き、幹久は形ばかり田口に礼をして電車を降りた。彼はささやかな開放感を感じてふうとため息を吐く。今降りた電車を振り返ろうとはしなかった。あそこからずっとあの手の話をされていたら、たまったもんじゃない。彼にとって、田口がするように、あれこれと思索、評論することは決して億劫なことではないが、だからこそ、そうしてばかりいると草臥れてしまうのだ。
乗り換えの電車がホームにやってくるまで、幹久は柱にもたれかかって、ホームへと階段を降りてやってくる人々をぼんやりと眺めていた。階段を降りてくるのは、大抵が大人だ。男女は問わない。制服を着た高校生もけっこうな割合でいる。すこし女子が多いかもしれない。降りる方向にはエスカレーターと階段の両方があるが、そのどっちを使うかに何か社会学的分類による偏りは見られない。歩きたい人は歩くし、立ち止まっていたい人は立ち止まっている。当たり前のことだ。
階段から目を離して、辺りを大げさにならないように見回してみる。大して何か発見を期待していたわけではないが、やはり目新しいものは見つからない。次の電車を待つ間、誰もが斜め下を向き、その内の大部分がケータイやらスマホを弄び、あるいは何人かで固まって話をしている。ざっと見た限り、暇にまかせて人間観察をしているのは幹久だけのようだ。
聞いた話によると、高校生にもなって趣味で人間観察をしているなどと言うと、人によっては「中二病」というレッテルを貼られるらしい。もちろん幹久だって、趣味で人間観察などはしていないが、中二病というものの症例はそれだけではなく多岐に渡っていて、それに罹患していると知れると、いわゆる常識人から陰で笑われると言うからなかなか穏やかでない。
幹久が今抱えている懸案は、現在進行中の学年末テストのことよりも、春の文化祭で配る文芸部の部誌のことであったが、それも一応は全校生徒に向けて作るのだから、中二病の謗りを受けないで済むようなものにしたい。しかしそれ以前に、もっと根本の何を書くかについてもまだ決まっていないのが現実だ。
夏に配った同様の部誌は、全くの失敗だったと幹久は考えていた。ほとんど校内で興味を持ってもらえなかったというのもその大きな理由ではあるが、それよりも、ある意味で見境のない作品を載せてしまった感は、彼の心中で否めなかった。あれはあれで、かえって誰の目にも触れない方がよかったのではないかと思うぐらいだ。
一体、文化祭で配られる部誌に、冗長で娯楽性のない文章を誰が望むだろう。いくら文学の営みは偉大と言えど、誰も読む気の起きない文章にどれほどの意味があるだろう。
若者の活字離れが言われ出して久しい(部誌の売れない理由をそこに帰そうと言うことではない)が、その原因を極言すれば、娯楽の多様化だ。文学界に文豪と呼ばれた人たちのいた時代は、大衆娯楽と呼ばれるものは、歌劇か、競技観戦か、読書ぐらいしかなくて、いつでも手にとって楽しめるものが文学だけであったというが、現代においてその役目は、ケータイとネットと、あとは漫画などに完全に取って代わられようとしている。
そもそも、文章というメディア形態事態が、その多様化したメディアの中で、最も伝達効率の悪い方法なのだから、今の現状はどうしようもないことではある。どうして、ぱっと見てせせこましい文字の羅列でしかない小説が、視覚的にも感動を与えてくれる漫画に勝てるだろうか。少なくとも、簡略さが美徳とされる時代が続く限り、行間を読むなんていう前時代史的な娯楽に、勝機はない。そしてそれは、どちらの方がいいとか悪いとかではなくて、ただ、時代が変わったという一言に帰着して終わりだ。
であるからして、当面の問題は、どんなものを書くかというよりは、どうすれば読んで貰えるかということのようだった。しかし、それを考えてみても、そう簡単に答えが出てくるはずはない。そうこうしているうちに電車も到着したので、幹久は、一度思考に登った物事をすべて振り捨てて、開かれた車両ドアへと乗り込み、ドアの脇の手すりがあるところに立った。
ちらりと車内を見回してみると、誰も彼も、この世界には自分だけ、とでも言うように、それぞれ思い思いに狭いスペースを占領し、隣の人との間に薄く壁を作って、そして申し合わせたように、皆両耳へイヤホンをあてがっている。仰々しいヘッドホンを装着している人もいる。よほど周りの音に耳を傾けたくないらしい。
車両の奥の方からは、数人の女子大生風の声が、やかましく鳴っていた。確かに、ああいう音を聞くぐらいなら、いっそ塞いだ方がましかもしれない。そう思って、幹久も、制服のポケットから音楽プレイヤーに挿入されたイヤホンを取り出し、両耳に掛けた。
少し前までは、電車で音楽を聴くにも音漏れに気をつけなくては、と音量を気にしていたが、近頃は、みんながみんな耳を塞いでいるのに、わざわざ心配するのも馬鹿らしくなって、電車のノイズをかき消すぐらいの音量で聴くようになった。電車が止まったときに、その音が思ったより大きくて驚くことがある。
幹久は、電車を降りてから、歩いて家まで帰られるだけの元気を起こせる曲を聴きたかった。元気と言うよりも気勢と言った方が正しいかも知れない。とりあえず、何も考えずに、ただ明るい口調で激励されたいのなら、多少思い入れのあるアニメソングでも聴けば十分だ。なんて言ったって、それらの大半は視聴者の一次的な感動を呼び起こすために作られているんだから。
しかし、今の彼の心境では、あまりにチープなものは需要の範囲外と言ってよかった。それでは何が聴きたいのか、と言われると、特にこれといってあるわけでもないのだが。一駅分選曲に迷ったあげく、彼は結局、お気に入りのプレイリストをシャッフルして聴くことにした。
プレイヤーの再生ボタンを押すと、間もなくイヤホンから、聞き慣れたイントロが流れ出す。それは、今この瞬間で、幹久だけが耳にしている音である。だから、どう、ということではないが、幹久には、そう言う状態に妙な違和感を覚えることがある。本当は周りにいる人全員に音が聞こえていて、その人たちは皆聞こえていない振りをしているんじゃないかと。実は彼自身、それを望んでいるのかも知れない。
電車が目的地へ着くまで、手持ち無沙汰をつぶす方法も、つぶそうとする意欲もないまま、幹久は、ただドアの窓に映った自分の顔を眺めるほか仕方がなかった。
いつかどこかで聴いたが、こうして、帰りの電車の中で何をするでもなくぼうっとしている時間が、一番アイデアの浮かびやすい状況なのだという。何もできない状況下で、かえって頭は回転するそうだ。まあ確かに、それも間違いではないだろう。寝ようと思って布団の中へ潜り込んでからの眠れぬ夜長や、味の無くなったガムを噛みながら無為の昼下がりを過ごしているようなときに、ふと新しいことを思いつくことがあるのもそのためだろう。
しかし、それはあくまで自分の中にアイデアが眠っている時だけの話だ。もしそうでないのなら、幹久は毎日家に着くたびに、キーボードの前へ向かわなければならなくなる。
幹久は、何か新しいことが思い浮かぶかも知れないと言うことを捨てて、ただ窓の中の自分を観察することにした。
幹久自身は、こうしてぼんやりと目に映すぐらいであれば、自分の顔にさして不満を感じてはいなかった。心持ち鼻筋が右側へ緩いカーブを描いていることを加味しても、まあまずい顔というわけではない。ただ、もちろん近づいてまじまじと見極めたいような顔でないことも確かである。美しいものは遠目で見てこそ美しい、なんていう常識から言えば、中途半端なものは近づいて見たってその半端さが際だつばかりだ。
それで、自分の顔をただ観察するのもすぐに馬鹿らしくなってしまって、今度はイヤホンから流れてくる曲に合わせて顔のパーツでリズムを取るということを試みてみた。
イントロのドラムで、のどぼとけを上下させてみたり、長い音のところで口を突き出してみたり、サビで目を大きく見開いてみたり、なかなか面白い。ただ、一曲分もやると、顔の筋肉が疲れてしまうのが問題だ。
それでも、その曲が終わって次の曲が、なかなかノリノリな曲だったから、勢いでそのまま、顔面舞踏会を継続することにした。
その間にも、電車はいくつかの駅に止まり、乗客は入れ替わっていく。そうしてだんだん席が空いてくる。しかし、幹久にはわざわざ席に座りに行くという理由もない。第一、一度座ってしまったらもう立ち上がれないような気もする。プレイリストのミュージックは、その盛り上がりも佳境に入っていた。躍動的なシンセサイザーの旋律が、幹久の耳の奥の、更にもっと深いところを小気味よくノックする。
こうした音楽を聴いている間、幹久は、このどうしようもない世界を忘れることができる。この救いのない世界を。
彼が何を望もうと、何を求めようと無関係に、地球は太陽の周りを回り、世界は日に日に複雑になり、その実体を失っていくばかりだが、彼は自分の言葉にさえ抗う術を持たない。文学は時代の流れの中で消滅しようとしている。どの発信源から得られる情報にも、誰かの利害と改竄があり、かといってそれらを無視して生きることもできない。
大人であると言うのはすべての答えを永久保留することであり、子供であるというのはどうあがいても答えを見つけ出せないで、そうして諦めていく内に、まだ諦めないでいようとしている仲間を中二病と笑って大人になっていくことだ。
どれだけ時代が進んだって、結局のところ、夜空に見える星が少なくなった変わりに、寝首を掻かれる心配をしなくてよくなったぐらいのことらしい。その命だって、男に生まれれば、船が沈没するときには救助を後回しにされる。女に生まれたって、まあ、同じくらい面倒なことがあるんだろう。そうして、何かを変えようと思っても、決意は紙に書きつけるだけだ。
そうした言葉に尽くせない泥沼を、音楽は一時的に干し上げて、時には、もっと遠くへ、と励ましてくれるし、時には、すべて忘れろ、と言って慰めてくれる。そうして、その余韻の中に、現実の変化を予感させてくれる。
幹久は、書こうと思えば、部誌の文章でさえも、すべて自分の絶望と諦観で埋めてしまうこともできた。下手な空想にあれこれと頭をひねるよりも、ため息ついでにくどくどと書いてしまう方が楽なのは確かである。しかし、どれだけ悟りきったような顔をしてこの世界を嘆いてみても、どれだけ生きている意味の有無をうそぶいてみても、そんなことをして幾許の価値を見いだせるとも思えない。それこそ中二病と一蹴されるだろう。
たとえその間に矛盾があったとしても、幹久は、どうしようもないからこそ湧いてくる力を信じたかった。人間がどれだけ八方ふさがりになって、どれだけ独りぼっちにされても、それでもまだ生き続けようとする底力を、彼は前向きな力として表現したかった。それが、彼をここまで導いたものであり、彼の最も信頼するものだったから。
突然、幹久の目の前が目眩のするくらい明るくなった。太陽のまばゆい光が彼の瞳を射る。
電車が地上へ出たのだ。窓から見える景色は、灰色の屋根が並んだ変哲のない風景であったが、彼の地下に慣れた目には、そのまぶしさが、まるで青空に一点の曇りなく降り注ぐ太陽の光を受けて、地平線の彼方まできらきらと光る、緑の草原のように見えた。イヤホンから聞こえる音楽は、今ちょうど最高潮に達しようとしていた。今にも電車の車輪が線路から離れて、太陽めがけて飛び立ちそうであった。少なくとも、幹久の心は、彼の体を離れようとしていた。
幹久は、しばらくの間呆然として、目を大きく見開いたまま、窓の外へ釘付けとなっていた。そのうち目が光になれ、音楽が静かに鳴りやんでいき、草原のイメージがだんだんと滲んで町並みに吸い込まれてたとき、外が既に、夕焼け空であることを彼は知った。
彼が今まで見ていた草原は、太陽を冠した青空は、彼の願望から来た幻でしかなかったのだろうか。
いや、決してそうではないと彼は思った。そう信じることが彼にできる唯一の抵抗であり、それを表現しようとすることが、彼にできうる最も美しい創造なのだ。
この感動を言葉にしなくては、と彼は思った。これをそのまま部誌にのせたっていい。どれだけ暗がりの中で思索をしても、あの青空と、輝く地平線より美しいものを見いだすことはできないだろうから。
幹久は、それまでポケットにつっこんでいた右手を取り出し、顔の前に出してまじまじと見つめた。まだ、たいした苦労も知らない、柔らかく赤い手の平だ。しかし、使いようによっては、何かをこの手でかえられるかも知れない。誰がなんと言っても構うものか。男に生まれたのがどうした。どこまでだって言ってやる。
彼は、開いた手の平を、持ちうる限りの力で握りしめた。
彼が、起きながらにして降りる駅を乗り過ごしていたのに気づいたのは、そのすぐ後のことだった。




