最終話:夜霧の帳越しに大樹は禍う。
部屋の中に、開け放しにした窓からの風が吹き込む。
生暖かい空気。つけたままのテレビの音。
「今日未明、ナイフ連続殺害事件の新たな被害者が見つかりました。犠牲者はこれで7人にのぼります。現場は……」
そよぐカーテン。俺はただ深く想いを馳せる。
左手に、琉樹のネックレスを握り締めながら。
俺は、あの夏の始まりから、何事もなかったように生活を続けた。
琉樹の葬式は、盛大に行われた。
元々、かなり大きな交通事故の被害者であり、さらに今回殺人事件の被害者となった琉樹は、世間の興味の的となった。
週刊誌には「薄幸の美少女」「狙われた眠り姫」「報われなかった少年の祈り」などなど、かなり好き勝手に書かれていた。
もちろん、琉樹が眠りに囚われる前、合唱部の部長として、生徒会の会計として、クラスのアイドルとして、多くの人望を集めていた彼女の死を、膨大な参列者の誰もが悼み、嘆いた。
俺以外は。
俺は涙を流す参列者たちの中で、一緒に泣いた。誰よりも強く感情のこもった涙であったと思う。
だが違うのだ。俺の涙の意味は違うのだ。
俺の涙は、別離と、羨望。
長く、長く、長く長くずっと傍にあり続けた彼女の存在がなくなってしまうことは、俺にとっては身を切るような悲しい出来事だった。
だが、それに勝るとも劣らない、この激しい羨望。
だってそうだろう。彼女はこれから、神様のいる世界で幸福に暮らしていけるのだ。
それはなんという幸福だろう。
琉樹は、彼女の罪をけして責めることのないであろう大樹に、何と言うだろうか。
大樹は、琉樹に何と言うだろうか。
俺には想像もつかないけれど、それでもその言葉が琉樹を救うのだ。
琉樹は大樹の下に存在ることが許されるのだ。
嗚呼。俺も、今すぐにでも行きたい。今すぐにでも大樹のいる世界で暮らしたい。
今すぐ大樹に会いたい。
けれど駄目なのだ。知らなかったとはいえ、何も気づかず、安穏と暮らしていた俺は罰を受けなければならない。
琉樹だって、罰は受けたのだ。繰り返し見る、自分の罪を映す過去の夢。
自らの罪を延々と映すその夢に、気も狂わんばかりだったろう。
ともすると、俺の手によって死ぬその直前まで彼女は夢を見続けたのかもしれない。
だが俺はまだだ。俺はまだ罰を受けていない。
償いをしなくてはならない。
考えた末に俺がしたのはとてもシンプルなことだった。
俺はまだ、楽園には行けない。
俺が行くのは、最後だ。
俺は楽園へと行ける幸福な人々を、その最も近くで見つめ続けるのだ。それが償いなのだ。
つまり。
多くの人を、幸福なる神様の世界に。
俺が、楽園へと人を連れて行くのだ。
琉樹のように、罪に悩む人々を神様の下へ。
そうすることで、俺は許される。多くの人を幸福にすることで、俺の罰は贖われるだろう。
そう考えた俺は、この贖いの機会を待ち続けた。
普通に学校に通って。普通に勉強をして。普通に受験して。普通に上位の大学を目指して。普通に大学に入って。
そして機は熟した。
俺は殺し、殺し、殺し、そして殺した。
そうして人を殺す度に、その人が幸福になれるのだと思えた。
自分の贖いが、少しづつ進んでいっているように思えた。
また一歩、大樹に会う日が近づいていっているような気がした。
この手に残る強い血臭はいつだって俺の胸を悪くさせた。
けれども、それが人にとっての幸せなのだ。
この神様のいない世界にいるよりも。
死して楽園に向かうことは幸福なのだ。
自分のしていることが正しいとは思わなかった。
どんなに言葉を取り繕ったとしても、人を殺していることには変わりない。
それを人に知られるわけにはいない。
だが、俺には唯一、理解者がいた。
琉禍だ。
日に日に大樹に顔形が似ていく琉禍。
俺をただ一途に慕う琉樹のような琉禍。
この大樹と琉樹の生き写しの姿を前に俺は、琉禍なしでは生きてはいけなくなっていった。
人を殺し、死者の周囲の人々への罪悪感と善行をしているのだという確信の狭間で不安定になった時。
琉禍の姿を見ることで落ち着いた。
俺は目的を見失わずにいられた。
けれど、最初の内。
俺は知られたくなかった。
この、純粋に俺を慕う少年、いや最早、青年である彼に。
大樹と琉樹に似る、この青年にではなく。
俺の大事な幼馴染の琉禍にだけは。
俺が殺人者であることを知られたくなかった――――
けれどそれでも、世界は俺がそうあることを許さない。
俺は、神様のために動かなくてはならないから。
「ねぇ、樹さん」
いつものように、琉禍と食事を共にした時。
「俺が死ぬ時は、樹さんが先に殺してくださいね?」
酔った勢いみたいに、眼だけは感情と想いを込め、琉禍はそう言った。
俺は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
いや、わかったけれど、その言葉が意味することを認めたくなかった。
「……琉禍、お前……」
「樹さん。俺、知ってるんですよ。ずっと、知ってたんですよ。でも、俺はそれでも貴方が好きなんですよ」
必死に言い募る琉禍。
琉禍が知っていたことを、それでも俺を好きでいてくれていることを喜ぶ感情と。
この青年に全てを知られてしまっていたのだと、ただの優しいお兄さんではいられなかったことを嘆く感情と。
その二つが、心の中で暴れた。……胸が、心臓が、痛い。
痛い。
「……俺がもし、琉禍を好きになっていたら、今頃どんな風になってたかな」
……そうすれば、何も起きなかったのだろうか。
そうすれば、今も大樹と琉樹はこの場所にいたのだろうか。
「……そんな、ありえない事を」
掠れた琉禍の声。俺は自分の言っている言葉が、如何にこの青年にとって残酷な言葉か思い知らされる。
それでも、言葉はとまらない。
「うん、分かってる。でも、そうだったなら、幸福になれたかな。俺は普通に会社員していたかな」
俺は、この世界で幸福になれたかな。
大樹は、神様じゃなくただの人間で俺の隣にいたのかな。
「……ごめんな。琉禍」
「……それは、貴方のしている事についてですか。それとも俺を好きになってはくれないという意味ですか」
琉禍の瞳が不安げに揺れる。何の不安だろう。
琉禍にとって絶対的な存在である俺の、謝罪への不安だろうか。
……俺という存在への不安だろうか。
俺はその、男にしては細い肩をそっと抱き寄せた。
「……俺は自分のしている事を正当化するつもりはないけど、悪い事をしているとは思ってない。俺が謝ったのは、俺は未だに大樹を忘れていないのに、それでも琉禍に想われていたくて、ふってあげられない事」
……なんて。
嘘ばかり。
琉禍は喉から絞り出すように声を出した。
「……貴方、勝手ですね」
「……すまん」
嘘しかつけない俺で。
大樹は俺の神様だ。忘れるとか、そんな存在じゃない。
俺が謝ったのは、俺が昔、琉禍を、琉樹の付属品としか見ていなかったことについてだ。
今ではこんなにも、俺にとって大きな存在だというのに……
「……樹さん。貴方が死にたくなったら、俺が殺してあげますよ」
……琉禍?
「だから、貴方が死ぬまで、俺が死ぬまでそばにいさせて下さい。何でもします」
涙。琉禍が泣いている。
……俺は、いつもこの子を泣かせてばかりだ。
帰りたくないと泣く幼い琉禍。
それが、今の琉禍に重なって見える。
「殺してあげます」
いつの間に、こんなに大きくなったのだろう。
俺を殴りにきた時のあの表情。
俺に日記帳を渡した時の表情。
過去のどれとも違う、現在の琉禍がいる。
何処にもいけない、俺とは違って、
「……ごめんな。琉禍」
「樹さん……」
「お前とならいい気がする。お前に殺されるなら、許される気がする」
大樹に似た琉禍、ではなく。
琉樹に似た琉禍、でもなく。
ただ純粋に俺を慕う、幼馴染の琉禍だから。
きっと、お前だからこそ、俺の罪を途切れさせることが出来る。
「樹さ、」
だから俺は言った。
「だから、いつかに俺と死んでください」
そしてこのことが、俺をいっそう大胆にさせた。
俺を肯定する存在は、俺を強く、無謀にさせた。
俺が思うのは唯一つ。
大樹に会いたい。
お前を幸福にしてやりたい。
……そうであると、信じていなければ、足場全てが崩れ去るような気がした。
そして今日。
俺は琉禍を迎えに行く。
部屋の中に、開け放しにした窓からの風が吹き込む。
生暖かい空気。つけたままのテレビの音。
「今日未明、ナイフ連続殺害事件の新たな被害者が見つかりました。犠牲者はこれで27人にのぼります。現場は……」
そよぐカーテン。机の上に転がる。薄紫の石。
もう誰も戻らない。
もう、誰も……
お久しぶりです。甲崎零火です。
この話をもちまして「大樹が枯れたその後に……」は完結とさせて頂きます。
この話の枠組みを作ったのはまだ小学生の時でした。
今、大学生になってこうして一つの物語として形作ることができ、本当に幸運に思います。
当初のハッピーエンドを、このような形にしたことに後悔はありませんが、それでも、本当は登場人物たちに幸福な人生をあげたかったようにも思います。
このような、筋書きもしっかりしていなかった話に、今までお付き合い頂いて本当にありがとうございました。
完結記念として、もう少ししたら番外編の方に短編をアップします。それで「大樹が枯れたその後に……」は終幕とさせて頂きます。
連載当初からお付き合いいただいた方、途中で評価を下さったSSG様、そして最後まで読んでくださった方、皆様に感謝させて頂きます。
ありがとうございました。
失礼します。
甲崎零火