第十三話:再開と別離
ひっそりとした真暗闇の中に、俺は窓から音も立てずに入った。
この窓は立て付けが悪く、普通に鍵を閉めても何度か外から引っ張れば開いてしまうのだ。
俺はあの夜の夢で眠れない時、よく此処から病院の中へと侵入して、瑠樹の寝顔を見ていた。
例え目を覚まさなくても、同じ想いでいる人がいるなら安心できた。
例え目を覚まさなくても、同じ想い出を持つ人がいるなら行動できた。
けれどもう、「同じ」ではいられないのだ。
俺と瑠樹の大樹への想いは、全くの別物だった。
俺と瑠樹の想い出は、全く別のもので作り上げられていた。
俺だけが何も知らなかった。俺だけが狂おしい現実から守られていた。
暗闇の中にいるはずなのに、目の前は紅かった。
これは開かれ過ぎた瞳の、充血から来たものだろうか?
それとも精神的なものなのだろうか?
どちらにせよ俺は瞬きすら忘れ、黒猫のように眼だけを光らせ、瑠樹の病室へと入る。
眠る瑠樹。暗闇にまぎれて、ほとんど姿が見えないというのに、美しい。
眼の前に浮かんでくるのは瑠樹の記憶。
俺は今、何を見ているのだろう。
かつての日常の残滓か?
それとも狂気の残滓か?
何も知らない。嗚呼。それはなんと罪深いことか。
大樹……瑠樹。
人間という、美しく弱くそして醜い生き物。
嗚呼。俺は瑠樹に守られていたのだ。
瑠樹は意図すらしなかっただろう。
だが、俺は互いの思惑が入り混じった、発狂しそうな現実から紙一重で守られていたのだ。
何も知らされないという方法で。
俺の鈍さというヴェールによって。
でもそれももう終わった。
膜は破られた。
俺は選択をしなければ。
瑠樹の頬に触れる。
ひんやりとしているが暖かい。血の通う生きた人間の肌。
大樹の葬式の時も、俺はこうやって大樹の頬に触れた。
あんなに酷い事故だったのに、エンバーミング処置とやらを受けた彼の遺体はとても安らかだった。
とても綺麗だった。今まで俺が見てきた大樹の中で、一番綺麗だった。
頬に落ちる睫の影。
綺麗に紅く染まった唇。
大理石のような肌。
ひんやりとしていて、冷たい。血の通わない人間の肌。
嗚呼。
ただ血が通わないだけ。
ただ目が覚めないだけ。
それなら俺はこの眠り続ける大樹と一生、一緒にいても構わないと思った。
あの時に感じたのは、間違えようもない愛おしさ。
その死を疑ってしまう狂気。
けれど今感じているのは何だろう?
この胸に滾る想いは何だろう?
俺は身を屈め、瑠樹の頬に口付けた。
あの時、大樹の頬に口付けたのと同じように。
そうすれば分かる気がした。
何が分かるかなんて分からない。ただ、何かが動く気がした。
唇に感じる感触の違い。これは微かに通う血のせいだろうか?
違う。これは大樹じゃない。俺はもっとリアルにあの時を、大樹を思い出したい。
もっと、大樹を感じたい。
俺は伏せていた目を見開いた。
嗚呼。分かった。大樹が死に、瑠樹が眠ってからずっと、俺が思っていた事はこれだ。
永遠にしたかった、俺の神様との別れ。あの時をもう一度。
もう一度、大樹に会いたい。
俺はナイフを振りかぶって瑠樹の胸を刺し、抉った。
ナイフに当たる肋骨の、ごつごつとした感触。
あぁ。これが正に、瑠樹なのだ。
瑠樹という、人間の感触。
人間という、美しく弱くそして醜い生き物の感触。
頬が紅潮する。眩暈がするような高揚感。
俺は今、自ら神の元へと向かうことを許されなかった哀れな生き物を、美しい大樹の元へと送っているのだ。天国へと導いているのだ。
きっと、その天国につながる、その一瞬なら。
俺は大樹に会える。
俺は大樹を感じられる。
そう思いながら、俺は力任せに腕を捻りあげた。
吹き出る血。着ていたレインコートに返り血が、びしゃびしゃと飛ぶ。
その瞬間、瑠樹が微かに目を開いた気がした。
俺が見たその眼は、とても安らかで、温かかった。
消えいく命の火が、眼に移ったかのように。
俺はそっと、瑠樹の頬に再度口付けた。
さっきとは違う感触。冷え切っていく頬の感触が、大樹のそれに近づいていく。
嗚呼。そうだ。今、此処には大樹がいるのだ。
俺は、あの時伝えられなかった言葉を口にした。
「大樹……愛しているよ。俺の神様……」
愛してる、愛してると繰り返しながら、俺は霞がかった頭の片隅で、瑠樹、と自分が呟き、その眼を見て涙を零しているのを感じた。
開け放した窓から吹く生暖かい風が、カーテンを静かに揺らしていた。
それは夏の訪れを告げる……
こんばんわ甲崎零火です。遅くなって申し訳ない。
この場面に関しては、細かい話をここでするのは控えます。
ただ此処まで来れたことを皆さんに感謝します。
次話で「大樹が枯れたその後に……」は最終回となります。
最後までお付き合い頂けたら光栄です。