lesson.9
「うぅー」
お兄ちゃんからメールが来ない。
お兄ちゃんが忙しい時間帯には送らないようにも気をつけているから、いつもなら遅くても1時間以内には返してくれるのに。返信が来なくなってもう5時間近く。
キリがよくて返事が来ないって可能性はない。
だって、最後にしたのは宿題に関する質問メールだ。ハテナマークで終わってるのに、お兄ちゃんがキリがいいなんて思うわけがない。
「むぅー」
考えれば考えるほど、悪い方悪い方へ思考が動いてしまう。
もしかして、ウザイ、と思われたとか。はたまた、事故に巻き込まれた、とか。
しかし、こうして考えていても時間は刻々と流れていく。メールの着信音は一向に鳴る気配すらない。
お兄ちゃんとメアドを交換してメールをするようになってから、こんな事態は初めてで、どうしたらいいか分からない。
『で、私に電話してきたの?』
「そう」
呆れたような奈津子の声に私は力なく頷く。
『これ携帯?』
「ううん、家電。携帯は、だって、使えないでしょ。すぐメール見たいもん」
『あっそ』
「つめたーい」
『あのねー、そんなに気になるなら家に行けばいいじゃん』
「あ、そっか」
その手があった。今すぐ行けば、そんなに遅くなることはない。
ちょっとだけでもお兄ちゃんの顔を見たら安心できる。
「ありがと、奈津子」
お礼もおざなりに通話を終えると、私は上着を羽織って、家を飛び出した。
********
電車に乗る前に一度、お兄ちゃんに『今からお家に行ってもいい?』とメールをしたけれど、相変わらず、返事は来ない。
そうこうするうちにお兄ちゃんのアパートに着いてしまった。
ドキドキしながらインターホンを押してみる。出てくる気配はない。
ドアに耳を当てて、中の音を探ってみる。
傍から見たらヤバイ人っぽいけど、気にしてられない。
中はシンと静まり返っている。なんの音もしない。
家にもいない。メールもない。本格的に心配になってきた。
そんな不安な心を煽るように、空はなんだか曇っている。
「……お兄ちゃん」
反応してよ。出てきてよ。
寂しくなって、携帯に電話をかけてみると、さっきまでなんの音もしなかった部屋の中から、聞き覚えのある着メロが聞こえてきた。
「……え?」
コールは鳴らしたままで、再度、ドアに耳を当ててみる。
やっぱり聞こえる。
でも、なんで?
お兄ちゃんが中にいる気配はないのに。携帯だけ。
「……亜美ちゃん?」
さらにドアにへばりついていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「お、お兄ちゃん」
ビクッと飛び上がりそうになるのをかろうじて押さえて、私はなんとか平静を保ちつつ振り返る。お兄ちゃんは私を見て顔を綻ばせた。
「やっぱり亜美ちゃんだ。なにしてるの?」
「……え、えっと、あの」
「とりあえず、中入りなよ。寒いし」
「う、うん」
お兄ちゃんに促されて、部屋に入る。
「ねぇ、亜美ちゃん」
「な、なに?」
「これ、取った方がいいの?」
お兄ちゃんは鳴り続けている携帯を手に取り私を見やった。
なんだろう? ……あ、そうだ。私が鳴らしてるんだった。
「あ、ああ! ごめん、切るの忘れてた」
慌てて携帯を切ると、部屋の中に静寂が訪れる。
静かすぎて、なんか色々意識してしまう。
「け、携帯お家にあったんだね」
「そうそう。友達が急に来てさ、ムリヤリ外連れてかれちゃって忘れたんだ」
そういいながら、お兄ちゃんは携帯をチェックする。
きっと私が送った何通ものメールが表示されるはずだ。うざいって思われたら、どうしよう。
そんな私の不安は杞憂に終わった。
携帯をチェックするなりお兄ちゃんは「……ご、ごめん、亜美ちゃん」と慌てたように頭を下げた。
「返信ないから、心配して来てくれたんだよね?」
「……ん」
「ホントにごめん!」
「……そんなに謝んなくていいよ。私が勝手に心配しただけだから」
ブンブンと手を振って笑ってみせると、お兄ちゃんはホッとしたように表情を緩めた。
とにかく、理由が分かってよかった。
急に友達に連れて行かれたら、携帯持ってくの忘れちゃっても仕方ないよね、うん。
一安心一安し……ちょっと待てよ。
友達ってまさか菊池さん?
しょっちゅう、家に来てるし。この間だって。
まさか、でも――
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「と、友達って……菊池さん?」
「え? 違うよ」
あっさり否定。その顔にウソはない、と思う。少し胸をなでおろす。
お兄ちゃんが不思議そうな顔で「なんでいきなり菊池さんがでてきたの?」と訊いてくる。
「え、えっと。仲いいでしょ。よくお兄ちゃんの家に来てるみたいだし、だから」
「ああ、そっか」
「……奈津子なんか、お兄ちゃんと菊池さん付き合ってるみたいだって言ってた。お、お似合いだしね」
流れに任せて言ってしまった。これまで触れられなかった部分に。
心臓がバクバクと音を立てる。お兄ちゃんはポカンとした顔で固まっている。
一秒が一分にも感じられる沈黙。やっぱり言わなきゃよかった、と後悔を始めたその時。ぷっとお兄ちゃんが吹き出した。
「え?」
「ははは、俺と菊池さんがお似合いってないよ、それは」
お兄ちゃんは楽しそうにゲラゲラ笑う。私は呆気に取られた。
「菊池さんとはなんでもないの?」
「当たり前じゃん。ただの友達だよ。やだなあ、亜美ちゃんまでそう思ってたの?」
「……ちょっとだけ」
「菊池さんは絶対にないから」
お兄ちゃんはきっぱりと断言する。そして。
「それに、俺、好きな子いるから」
いつもみたいに照れもせず、私を真っ直ぐに見てそう言った。
カーッと頬が、ううん、全身が熱くなってくのを感じる。
好きな子って誰? と聞きたいのに言葉が上手く出てこない。
お兄ちゃんを見ていることさえ恥ずかしくなって、急に、この部屋には私たちしかいないことを思い出して、頭の中はもうしっちゃかめっちゃかにパニック状態。
「亜美ちゃん」
「へぁ」
不意に呼ばれて変な声がでる。お兄ちゃんは少しだけ笑って、私の体を引き寄せる。
手が私の頬に触れる。指が私の唇に触れる。目が私に訴えている。
拒むなら、今のうちだよって。
なにがどうなってこうなっているのか分からない。
体は緊張で1ミリも動かない。
でも。
でも、私だってずっとずっとしたかった。ずっとずっとしてほしかった。
お兄ちゃんに。
お兄ちゃんだから。
「……お兄ちゃん」
呟くなり、唇を塞がれた。
軽く重なって、すぐに離れて。そして、また塞がれる。
「んっ」
何度も何度も、角度や向きを変えて、ゆっくりと味わうようなキスにとろけそうになる。全身から力が抜け取られていくみたい。
その場に座り込んでしまわないように、お兄ちゃんの背中をギュッと掴む。
もう全部、お兄ちゃんが好き。