lesson.8
今、私はお兄ちゃんの部屋で勉強をしている。
家庭教師の日でもないのに、どうしてこんなことになっているかというと――
「亮くんの教え方わかりやすいですよー」
「そうかな」
「うん。学校よりも全然分かりやすい。次のテスト、私すごいことになるかも」
「ははは」
すぐ傍で繰り広げられる会話。
そう全ては、今日返ってきた小テストから始まった。
※
「亜美、マジで成績上がってんね……」
結果を見比べながら奈津子が言う。
「それはもう。お兄ちゃんのおかげでね」
私は、えへんと胸を張って。
すると、奈津子は少し真面目な顔になって「私も家庭教師してもらおうかな」と言った。
「……誰に?」
「お兄ちゃん」
「へぇ……って、ええ!?」
一瞬、聞き逃しそうになった。
けれど、確かに奈津子はお兄ちゃんと言っていた。
「私もあんな家庭教師ならやる気でるかも」
「ダ、ダメ! ぜーったい、ダメ!!!」
きっぱりと奈津子の意見を却下する。
家庭教師のお兄ちゃんは私専用なんだ。週一回だけだけど。
「いいじゃん。別に変な意味じゃないんだし」
「どんな意味でもダメ! っていうか、お兄ちゃんは忙しいの。私だってムリしてお願いしてもらってるだから、これ以上カテキョの時間なんて増やせないと思うな」
別にウソは言っていない。
お兄ちゃんが忙しいのも、ムリしてお願いしたのも事実だ。
私以外の人と二人きりで勉強をしてほしくないっていうのが一番にあるのも事実だけど。
「ふぅん。じゃあさ、一回だけ体験授業」
「却下」
「ちょっ、即答すぎ」
呆れたように奈津子が笑う。
でも、考えたって答えは一緒だもん。
「ねぇ、亜美。嫉妬深くて独占欲強いと男の人は嫌だと思うよ」
「うっ……」
「亜美は子供だから分かんないかもしれないけどさー」
必死に奈津子に訴えても笑っているだけで聞き入れてくれない。
それどころか、もう体験授業を受ける気満々だ。
「今日は? 今日授業あるの?」
「あっても言わない!」
「うわっ、マジ子供。じゃ、直接聞いちゃおっと」
「はぁ? 電話番号なんか知らな……って、ちょっとぉ!」
気付いたら、奈津子の手には私の携帯。
すぐにお兄ちゃんの番号が出てくる。
「どうする? 私が聞くか、亜美が聞いてくれるか、どっちにする?」
奈津子の意地悪な問いかけ。
私はニヤニヤしている奈津子の手から携帯を取り返し、溜息をつきながら、表示されている番号にコールした。
『もしもし』
すぐにお兄ちゃんの声。
ああ、幸せ。なんて思ってる場合じゃないんだけど。
「あ、お兄ちゃん……今、大丈夫かな?」
『うん、大丈夫だけど、どうかした?』
「あのね……えっと、今日勉強教えてもらっていい?」
『今日?唐突だね」
「あ、ムリならいいの。急だし、ムリだよね?」
話をNG方向へ無理矢理もっていく。
私が我慢していると勘違いしたのか、お兄ちゃんは少し笑って『大丈夫だよ』と、言ってくれた。
これが私とお兄ちゃんだけなら飛び上がりたいほど嬉しいこと。
でも、隣から私の肘をつついてくる存在。
分かってるよ、と目だけで答えて私はお兄ちゃんに問いかける。
「あのね、お兄ちゃん。実は、私一人じゃないの」
『え?どういうこと?』
「友達が一緒に勉強したいって。あ、この間、会ったでしょ、奈津子」
『ああ、あの子か』
「やっぱり、ダメだよね?」
お願い。ダメって言って。
『いいよ。大丈夫、二人でおいで』
私の祈りは通じず、優しいお兄ちゃんは快諾してくれた。
********
そんなわけで。私と奈津子はお兄ちゃんの特別授業を受けている。
始まってから、もう一時間。そろそろ休憩かな、なんて思っていると「もうムリー」と、奈津子が両手をあげて後ろに倒れこんだ。
「疲れるの早すぎ」
お兄ちゃんの手前、ちょっとだけいい子ぶって、奈津子の手を引っ張り起こしてやる。
「亜美だって、この間まで10分くらいしか勉強できなかったくせに」
「なっ、そ、そんなこと今言わなくてもいでしょ」
「マジなんですよ、これ。一緒に宿題とかしてると、亜美がいっつも『これくらいで大丈夫だよ、休憩しようよ』って、私を誘惑するんですよー」
お兄ちゃんに家庭教師をしてもらう前までの私の話を、奈津子がお兄ちゃんにぶっちゃける。
お兄ちゃんはどう反応したらいいのか困ったような顔で「あはは……」と笑っている。
「もういいでしょ。今はちゃんと宿題もしてるし、すぐ休憩なんてしないんだから」
「そうなんだよねぇ。一人で抜け駆けして、テストでいい点取ってるし……それもこれも全部亮くんのおかげなんだよねー?」
ズバリ言われて、赤くなる。お兄ちゃんまで赤くなっている。
奈津子が見過ごせないというように目を細めて
「なに二人して赤くなってるの? 怪しい」
「あ、あ、怪しいってなにが?」
「まさか、家庭教師にかこつけてあんなことやそんなことまで、教えちゃってるんじゃないのー」
「そんなわけ」
「なにもしてないよ!」
私が否定するよりも早く、お兄ちゃんが大否定。ほら、シャイだから。
でも、そこまで力いっぱい否定しなくてもいいのに。
それに、何もしてなくはないよね。
キス未遂があったし、映画見に行ったし、その時、抱きしめられたし、唇ずっと見られた時もあったし。あと、家にも行ったし、手も繋いだし。
何気に、色んな初めてを経験してる気がする。
それなのに、いまだにはっきりとした関係を言い表せない、微妙な関係。
いつかはっきりする日がくるのかな?
そんなことを考えたら、なんか溜息が出た。
********
結局、休憩からあとはほとんど雑談になってしまった特別授業。
お兄ちゃんは少しだけ申し訳なさそうだったけど、奈津子は全く気にしてないみたいだった。
どっちかっていうと、こっちが目的だったんじゃないかって言うくらい話してたし。
そんな雑談も一段落して、私たちはそろそろお暇することにした。
そのことをお兄ちゃんに言うと、時間も時間だったので駅まで送ってくれることになった。
「それじゃ、気をつけて帰るんだよ」
「はぁい」
「また教えてくださいね!って、いたっ」
改札の前で、さりげなく次の勉強の約束を取り付けようとした奈津子の足をこっそり踏みつける。
奈津子が恨めしそうにこっちを睨んでくるけど知らん振り。
「今日は本当にありがとう、お兄ちゃん」
「いや、これくらいなら全然」
「今度は私のお家でね」
「うん。気をつけて」
お兄ちゃんに手を振って改札を潜る。
呆れて先に行ってしまった奈津子が「ラブラブだね」と私を小突いた。
「そう見える?」
「見えるけど、進展してないの?」
「うん」
「告っちゃえばいいじゃん」
「んー、でもさー」
ホームに向かいながら話を続けていると
「あれ? 亜美ちゃん? 亜美ちゃんでしょ」
前方から手を振る綺麗なお姉さんの姿が。って、菊池さんだ。
「こんなところで会うなんてビックリ。片瀬くんのところに行ってたの?」
「あ、はい」
「あーん、もうちょっと早めに行けばよかった。そしたら、亜美ちゃんと遊べたのに」
菊池さんががっくりと肩を落とす。
え?ってことは、まさか。
「え? もしかして、お姉さんこれから亮君のところに行くんですか?」
私の抱いた疑問を奈津子が口にしてくれる。
菊池さんは一瞬、奈津子が分からなかったようだけど、すぐに思い出したみたい。
「あら。あなた、確か文化祭の時に会った子よね」
「はい。んで、どうなんですか?」
「ええ、ちょっとノート写させてもらおうと思って。私、今日の講義サボちゃったから」
まいったまいったという風に笑う菊池さん。
今日の講義のことなんて知らないし。まいったのはこっちだ。お兄ちゃんと菊池さんが二人きりなんて。
引き返そうかな?
でも、それも変だし。
考えている間に「それじゃあ、今度一緒に遊ぼうね」と言いながら、菊池さんは改札の向こうに行ってしまった。
その背中を見送りながら
「私よりも、あの人の方が余裕で危険だと思うよ」
奈津子がポンポンと励ますように私の肩を叩いた。
そんなの言われなくても分かってるよ……