lesson.5
夏休みが終わり、気がつけば秋も深まっていて。
秋といえば文化祭なわけで。その準備で、いつもより帰宅が遅くなった。
カテキョの時間までには、余裕を持って帰れると思っていたけれど――終わった時には、ギリギリの時間。
どうにかお兄ちゃんがより先に家に着かないと。
「やばいやばいやばぁい!!!」
駅を出て、私は家までの道を必死で走っていた。
カテキョの時間まで、あと10分もない。
焦れば焦るほど、なかなか家に辿り着けない。途中で携帯を落っことしたり、信号に引っかかったり、普段、やらないようなドジをしてしまう。
それでもどうにか駅前の大通りを抜けて、住宅街に入る。
ここから家までのルートは二つ。街灯が整備された明るい道と、薄暗い公園を突っ切る道。
いつもなら明るい方を通るけど――
「……こっちの方が近いし、ね」
少し迷って公園の道を選ぶ。
大丈夫。少し暗くて人通りがないだけで、ここで事件なんて起きたことないし、絶対大丈夫。
多少の不安を押し込めるように自分に言い聞かせる。
けれど、少し前から後ろで聞こえだした自分以外の足音が妙に怖い。
気づかなければ、どれだけよかったか。
私が早足で歩けば、後ろの人も早足になる。私が足を緩めれば、後ろの足音もゆっくりになる。
「うぅ……」
待ってよ、ちょっと待ってよ。ホラー物とかも嫌いだし、体力だって自信ないし。怖いんだってば。何の嫌がらせなの、これ。
私がいくらそう思っても、後ろから聞こえる足音は消えてくれない。それどころか、どんどん近付いて――
「……お兄ちゃん、助けて」
小さく呟いた時、背後から「わっ!」と驚かされた。
その声に、今まで溜めに溜め込んだ恐怖がぶわっと出てきて、私は悲鳴と共に持っていた鞄をその人めがけて叩きつけた。
「うわっ!?」
反撃されると思っていなかった相手は、鞄をもろに頭に受けて蹲ってしまった。その隙に逃げようと私は踵を返す。
「あ、亜美ちゃん……」
後ろから苦しそうな、だけど、聞き覚えのある声。
「え?」
慌てて振り向くと、頭を押さえて蹲るお兄ちゃんがいた。
********
「……だ、大丈夫? 本当にごめんね」
場所は変わって、私の部屋。
あれから、どうにかお兄ちゃんをつれて、家に帰って。
びっくりするお母さんからアイスノンを受け取った私は「自分でするから」と遠慮するお兄ちゃんを制止して、負傷した箇所を押さえている。
「平気平気、これくらい」
「……ほんとに?」
「うん」
言葉とは裏腹にお兄ちゃんはどこか力なく笑う。
絶対、痛いんだ。嫌われちゃったらどうしよう……
「でも、ビックリしたよ。鞄ってすごい武器になるんだね」
「うぅ、ごめんなさい……」
「い、いや、あんなとこで驚かそうとしたこっちが悪いんだし」
「そ、そうだよっ。すっごく怖かったんだからね。変質者かと思ったもん……」
でも、そう思ってしまった自分が悲しい。
お兄ちゃんのことが好きなら足音で判別できるくらいにならないと。
私の中で、新たな目標が追加される。
お兄ちゃんは苦笑交じりに「……ごめんね」と言い、言葉を続けた。
「でも、あんな暗い公園を一人で歩いちゃダメだよ。危ないから」
「……う、うん」
なんて話していると、ノックの音がして「亜美ー、あんた、ご飯はどうするの?」と、お母さんがドアから顔を覗かせる。
そういえば、いつもは学校から帰って、お兄ちゃんが来る前に食べている夜ご飯。今日はお兄ちゃんと一緒に家に到着したので、まだ済ませていない
だけど、ご飯を食べていたら勉強する時間が減る。っていうより、お兄ちゃんと一緒にいる時間が減る。こっちの都合でカテキョの時間を延ばすなんてことできないし。
「あとで食べる」
「そう? お腹なっても知らないわよ」
「ならないよ」
そう言った瞬間、くぅっとお腹がなった。
な、なんでこんなタイミングで!? い、今の聞こえた?
おそるおそる隣に座るお兄ちゃんの方を見やる。
お兄ちゃんは、困ったような表情で「た、食べてきたほうがいいんじゃないかな?」と私を促した。
や、やっぱり聞こえたんだぁ。なんか今日は最悪かも。
ずぅんと落ち込んでしまう。
「ほら、亮くんもこう言ってくれてるし。どうせなら亮くんも一緒に食べたらどう?」
「え、あ、いや、僕は済ませてきてるので」
「そう? おばさん、寂しいわぁ」
何言ってるの、このおばさん。お兄ちゃん、困ってるじゃん。じゃなくって――
こうなったら
「じゃあ、ここで食べる」
これしかない。
「そんな器用なこと」
「出来るから。ね、お兄ちゃんもそれでいいよね?」
「……亜美ちゃんとおばさんがそれでいいなら」
よし、オッケー。何問か問題が出来たら食べれるってルールにしちゃえば、ちょっと楽しそうだし、お腹も満たされるし、オールオッケーだ。
「じゃ、持って来るね」
まだ少し渋るお母さんの背中を押して一緒に一階へ降りる。
「まったくあんたって子は」
「いいじゃん。勉強もできて、ご飯も食べれて、一石二鳥」
「はいはい」
お母さんの呆れた声を背中に受けながら、ご飯を載せたお盆を手にもって、お兄ちゃんの待っている部屋に戻る。
「あ、おかえり……と、大丈夫?」
「うん」
意外と重かった夜ご飯をテーブルに置くのを手伝ってもらって、いつもの定位置に座る。
ご飯は正面。ハンバーグのいい匂いが鼻をくすぐる。なんとなくやる気一杯。
「じゃ、勉強しましょ、勉強」
「ああ、うん。じゃあ、この問題をしようか?」
「あれ? これどうしたの?」
出されたのは、ノートに手書きされた数学の問題。
「亜美ちゃんが下に行ってる間につくったんだよ。正解した数だけ、ご飯食べれるってことにしたらどうかなって」
「それって1問正解だったら、一口。で、2問正解だったら、二口、ってこと?」
「そうそう。ちょっと楽しいでしょ?」
「ふふ、うん」
それってさっき私が考えてたことと似てる。お兄ちゃんが同じようなこと考えてたなんて嬉しい。
「よーし、がんばるぞー」
俄然張り切って、私はお兄ちゃんお手製の問題に取り掛かった。
そして、答え合わせ。20問中15問正解と、今までの成績から考えたらなかなかの出来だった。
「それじゃ、15口食べていいよ」
「はーい」
と、返事をしたはいいけれど。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「一口って、どれくらい食べていいの?」
「亜美ちゃんの好きなようにしていいよ」
昔みたいにこんな感じでもいいし、なんて言って、お兄ちゃんがぷくぅっと頬を膨らませる。
「そんなことしてないよ」
「してたよー。俺のお菓子口いっぱいに頬張ってさー」
「してない」
変なことばっかり覚えてるんだから。まったくもう、と思いながら、ご飯に視線を落とす。
お兄ちゃんはニコニコと私を見ている。
さすがにこの年で口いっぱい頬張るなんて、ましてや、その姿をお兄ちゃんに見られるなんて恥ずかしい。
「んと、これくらいかな」
いつもの一口より気持ち少なめにして。
「いただきまぁす」
もぐもぐ。……ごっくん。
「おいしい?」
「う、うん」
「数えてるからどんどん食べていいよ」
「……あ、うん」
……っていうか、待って。今、気づいたんだけど、この状況って、実はすっごく恥ずかしくない?
口いっぱいに頬張って食べてるわけじゃないけど、そんなこと以前に、好きな人に食事してる姿をまじまじと見つめられるのって……絶対、恥ずかしいよ。
思えば思う程、自分の顔が赤く染まってくのが分かる。こんな顔色、隠しようがないがないってくらい。次の一口にも、なかなかいけない。
そうなったら、いくら鈍感なお兄ちゃんでも当然、私の様子がおかしいってことに気づく。
「……どうしたの?」
「あ、えっと……」
「なになに?」
「たっ、食べてるとこ見られるの、ちょっと恥ずかしいなって気がして……」
「――あ」
カカカカッと、一気に染まるお兄ちゃんの頬。それは顔にも耳にも伝染して。
「ご、ごめんっ!! み、見ないから!! 食べ終わったら教えて!!!」
くるっと勢いよく回れ右をして、私に背を向ける。
少しの安堵。私はゆっくりと料理を口に運ぶ。
お兄ちゃんの背中はカチンコチンに固まったまま。チラリともこちらをうかがう様子は見られない。
なんか、なんだか。
自分で言っておいてなんだけど――同じ部屋にいるのに、お兄ちゃんが私のほうを見てくれないことが、ちょっと寂しい、かも。
「……お、お兄ちゃん」
箸をお茶碗の淵に置いて。背中を向けてるお兄ちゃんの服の袖を引っ張る。
「な、何?」
「……」
「あ、もう食べ終わった?」
「まだ、だけど」
「そ、そう」
私の方へ向き直すのをやめて、また背中を向けるお兄ちゃん。私はもう一回、お兄ちゃんの服の袖を引っ張る。
「ど、どうしたの?」
「……やっぱり、こっち向いてて」
「……え?」
「だって、ちゃんとお兄ちゃんが数えてくんないと、私、ご飯全部食べちゃうよ?」
「え、で、でも……」
「お兄ちゃん、数えて」
声が震えてるのが、自分でも分かる。
こんな恥ずかしいお願いして、もしも、聞いてもらえなかったらどうしよう。
もう恥ずかしすぎて、全身茹でダコみたいだ。そんな顔見られたくなくて、俯いて唇を噛んでいると、ゆっくりとお兄ちゃんが私の方を向き直る姿が見えた。
顔をあげると、やっぱりお兄ちゃんの顔も赤くて。
「……い、今、何口目?」
「えっと……5口目」
「……じゃあ、あと10口だね」
「う、うん」
お兄ちゃんに見られながら、箸を持つ手を再開する。
恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしい。でも、どこか嬉しい自分がいる。
今、お兄ちゃんの目に映っているのは私だけ。そんな喜び。
お腹が空いてるはずなのに、胸いっぱいになって。正直言って、味なんて全然分からなくなって。
こんなにもお兄ちゃんのことを好きな自分に驚く。
ずっとこんな瞬間が続けばいいのに。ずっと見つめてくれたらいいのに。心底、そう思う。
でも、お兄ちゃんの一言が私を現実に戻した。
「……10」
「あ、そ、そっか」
次の一口へと伸ばそうとした手を止める。第一回目の食事タイムは、これで終わり。
次は、またお兄ちゃんが作ってくれた問題をやるはずなんだけど、どうしてか、お兄ちゃんは動いてくれない。
「……お兄ちゃん?」
どことなく熱っぽいお兄ちゃんの瞳。その瞳は、私の顔でも問題集でもなくて、ただ、私の唇を見つめてて。
どうしようもなく恥ずかしくなって、私は俯いてしまった。
「あっ、ご、ごめん! えっと、つ、次の問題、しないとね!」
あたふたと我に返るお兄ちゃん。
お兄ちゃんが今、何を考えてたのかくらい、分かってる。料理を口に運ぶたびに、私の唇の方へ注がれたお兄ちゃんの視線をずっと感じてたんだもん。多分、私と同じこと想像してた。
次、頑張ったらしてくれるかな? 今度はほっぺじゃなくて、唇に――そんな想いが強くて、意識しすぎた結果、次の問題は、15問中0問という惨敗っぷり。
結局、その日はカテキョの時間が終わるまで、私は料理を口にすることが出来なかった。