lesson.4
お兄ちゃんからデートに誘われた。
いつもの時間。私が問題を解いている間中、お兄ちゃんは頬杖を付き、どこか不機嫌そうで。時折、大きく溜息までして。問題を解くのが遅すぎて、イライラさせているのかもしれないと私は申し訳なくなった。
「……ご、ごめんね、遅くて」
「え?」
「私がなかなか出来ないから、怒ってるんだよね」
「……ち、違うよ。そうじゃなくて。ちょっと考え事っていうか」
お兄ちゃんはそこで言葉を区切り、ポケットから勢いよくなにかを取り出した。
バンと机の上に置かれたそれは、映画のチケットで。
「こ、これ貰いものなんだけど……よかったら一緒に見に行かないかなって」
「え……?」
「い、嫌だったらいいんだ。全然」
「や、ヤじゃないよ」
「ほんと?」
「うん」
「あー、よかった」
ホッとしたように笑うお兄ちゃんが、愛しい。これってデートだよね?
それからは勉強はそっちのけ。待ち合わせ場所と日時を決めることに一杯になってしまった。
二人して舞い上がってしまった結果、お兄ちゃんは私にチケットを渡すのを忘れて帰ってしまい、私もチケットのことをすっかり忘れていた。
後でそのことに気づいたけど、当日受け取っても問題はないだろうと、あまり気にしないことにした。
だから、私は当日まで知らなかった。お兄ちゃんが誘ってくれた映画が、今一番人気の、ホラー映画だったなんて。
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そして、約束の日。夏休み中ということもあり、映画館の前にはたくさんの人。
ここでの待ち合わせは失敗だったかも――私はキョロキョロとお兄ちゃんの姿を探す。
お兄ちゃんが超奇抜な服を着てくれてたら、すぐに分かるんだけど……普段の服装から考えたら、そんなのありえないしなぁ。
想像したらちょっと笑えた。
ヤバイヤバイ。一人で笑う変な子になってる。
私は顔を戻して、時計に目をやる。
約束の時間より10分前。
早く来すぎちゃったかな。
突っ立っているのも疲れるので後ろの柱に寄りかかる。
「亜美ちゃん!」
程なくして、お兄ちゃんがやってきた。時間ぴったりだ。
「ごめんね、遅くなって」
小走りで駆け寄ってきたお兄ちゃんは、開口一番にそう言った。
「時間ぴったりだよ」
「でも、待たせちゃったみたいだから」
「いいのいいの。待つのもデートのうちだし」
「デ、デート?」
聞き流してくれればいいのにご丁寧に反応してくれるお兄ちゃん。デートでいいじゃん、バカ。
「違うの?」
「え……あ、ち、違わない、かな」
よく出来ました。
私は、ニッコリ笑ってお兄ちゃんの手を握る。
大丈夫、この人混みだもん。赤くなってる私の頬なんて誰も気にしない、はず。
私はお兄ちゃんの手を引っ張って、映画館の中へ向かう。
「あ、亜美ちゃん、入り口そっちじゃないよ」
「え? だって、これ見るんじゃないの?」
私が入ろうとしたのは、泣けると評判の恋愛映画。
でも、お兄ちゃんがバッグから取り出したチケットは、怖くて泣けると評判のホラー映画のものだった。
こんな機会がなければ見ようとも思わない映画。出来れば、こんな機会つくりたくなかった。
「……こ、これ見るの?」
「菊池さんが福引かなんかで当てたんだけどさ、ホラーダメだからってくれたんだよね。俺、これ見たかったらラッキー」
「そ、そうなんだ……」
勝手にライバル視してる菊池さんからのチケットっていうのもあれだけど、これってなにかの嫌がらせ?
まだ映画も見てないのに泣きそうになってくる。
鈍感なお兄ちゃんはワクワクした様子で「亜美ちゃん、早く」と足取りの重くなった私を急かす。
「……お兄ちゃんって、子供みたい」
呟いて私は、大嫌いなホラー映画を上映する会場へ向かった。
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映画が始まってから、数十分。
嫌な予感のするシーンではギュッと目を閉じて、なるべく見ないようにしているけれど、耳から入ってくる悲鳴や効果音だけはどうにもならない。
変に耳押さえたら、お兄ちゃんに気づかれちゃうし。
そんなわけで、私は既に限界を感じていた。
「……亜美ちゃん」
「……え? な、なに?」
急に小声で話しかけられて、そっと目を開ける。
「大丈夫?」
「な、何が?」
「もしかして、ホラーダメだったんじゃない?」
「そそっ、そんなことな――キャーッ!」
言い当てられて、思い切り目を開けてしまったのが失敗だった。
目を思い切り開けた所に見えたのは、えぐい死体。思わず、お兄ちゃんの腕へと抱きつく。
「……で、出ようか? あんまり面白くないし」
その言葉に、ふるふると首を横に振る。
だって、面白くないって、絶対、ウソだし。
「そんな、無理して見なくても……俺が悪いんだし。ね、意地はらないで出よ?」
「……意地はってないもん。それに、お兄ちゃん悪くない」
「亜美ちゃん……」
「だって、この映画超見たかったんでしょ? だったら、私も見る。お兄ちゃんが見たい映画なら、一緒に見たいもん」
困ったようなお兄ちゃんの声にかぶせて言った。
お兄ちゃんは少し押し黙り、不意に私の頭を抱え込むように抱き寄せた。
「……こうしてたら、怖くなくなるかな?」
頭の上からボソボソと囁かれる声。
かなり早いお兄ちゃんの心臓の音が聞こえる。
トクトク、トクトク。
聞いていると、さっきまでの恐怖がウソみたいに消えてゆくのを感じる。
私はギュッとお兄ちゃんの体にしがみつく。
「あ、亜美ちゃん?」
「映画終わるまで、こうしてていい?」
「……う、うん」
「ありがと」
それから、私たちはずっと無言で。
だけど、これまでよりもずっと近くにお兄ちゃんを感じた。