lesson.3
「……えへへ」
お兄ちゃんと約束した次の日。私は、にやける顔をとめることができずにいた。
今までは、週に一度しか会えなくて、それもたったの2時間。そんなの、少なすぎると思っていた。それが昨日の今日で、またお兄ちゃんに会えるのだ。にやけずにはいられない。
「ふふ……」
――ああ、ダメだ。
今はめちゃくちゃシリアスな古文の補習中。お兄ちゃんが教えてくれる教科じゃないから、ちゃんと聞いておかないと、ついていけなくなる。
なのに、にやける顔はやっぱり止められなくて。
だって、学校が終わったらお兄ちゃんに会えるんだもん。そうなっちゃっても、仕方ないよね。
「……神田ぁ、随分幸せそうだな」
「はいっ、そりゃあもう!!!」
「そうかそうか。そんなに古文が好きか。じゃあ、ここを訳してもらおうか」
「ぅえ?」
ほとんど上の空で聞いていたせいで、結局、上手く訳せなくて怒られた。
にやけすぎるのも考えものかもしれない。
少し反省して、それからは顔が緩みそうになるのをどうにか抑えた。
そんな古文の補習が終わるなり、隣の席の奈津子が呆れたような顔で「……亜美さぁ、今日、超キモイんだけどなんかあった?」と声をかけてきた。
「キモイ?」
「にやけすぎてキモイ」
「ひどーい」
そうは言っても、にやける頬は止まらない。何を言われても嬉しいのだ。
「マジ、あんた、ヤバイ薬きめてない?」
「きめてない。そうじゃなくて、今日はね……ふふふ」
「思い出し笑いとかマジキモイからやめて」
「なに言われても今日は怒らないよー」
「……なに? なにがあるの?」
「よくぞ聞いてくれました! 今日はね、お兄ちゃんの家に遊びに行くんだぁ」
「お兄ちゃん?」
奈津子が少し首を傾げる。
「亜美、お兄ちゃんなんていたっけ?」
「え? あ、違うよ。お隣に住んでたお兄ちゃん。今は一人暮らしなんだけど、家庭教師に来てもらってるの」
「へぇ~。どんな人? かっこいいの?」
「んー、かっこかわいい感じで超優しいの」
「年は?」
「4つ上」
「いいじゃん、年上。で、付き合ってるわけ?」
うっ……これはちょっと嫌な質問。
「……ま、まだだけど」
思わず口ごもると、奈津子は「なーんだ」と、拍子抜けしたように言った。
「で、でも、今日は進展させるつもりだもん」
「へぇ、ってことは、一気に2人で朝を迎えちゃうとか?」
奈津子がからかうような笑みを口元に浮かべて言う。
ふ、二人で朝!? そ、それって――頬がカッと熱くなるのを感じる。
「そ、そこまでの進展は考えてないよっ!」
「でもさ、亜美にその気はなくても、相手がどうかは分かんないよー」
「……分かるよ。お兄ちゃんにもその気はないと思う、多分」
「どうして?」
「どうしても」
キスでさえほっぺ止まりの『超』がつくほどシャイでウブなお兄ちゃんのことだ。多分じゃなくて絶対。
もうちょっと行動に移してくれたらなーって思う気持ちもある。でも、そんなとこも可愛いって言ったら、それまでなんだけど。
「まあ、いいじゃない。とにかく、私は今ハッピーなんだから」
「そりゃ、よかったね。でも、次はにやけない方がいいよ?」
「……分かってるよぅ」
さっきみたいににやけすぎて当てられるのは御免だ。
私は頬をペチペチ叩いて、にやける頬を抑えるように努めた。
********
髪型よし。制服のボタンよし。香り、よし。顔、いつでもよし。なんてね。
駅のトイレで自分の姿を確認後、お兄ちゃんに、今、駅にいることを電話で伝える。
「すぐ迎えに行くよ」と言ったお兄ちゃんは本当に言葉どおり、すぐに来てくれた。
「お待たせ」
「全然待ってないよー」
「そ、そっか。じゃぁ、いこうか」
「うん」
二人並んで歩く。なんだか緊張する。これからお兄ちゃんの部屋に行こうとしているのだから、緊張するのは当然だけど。奈津子に変なこと言われたせいで余計に意識しちゃう。
そんなことを考えているうちに、お兄ちゃんの住むアパートに到着した。
「汚いとこだけど」
「お、お邪魔しまぁす……」
お兄ちゃんと会うのは、いつも私の部屋。それが場所を変えただけで、こんなに変な感じになるんだろうか。ドキドキしすぎて死んじゃいそうだ。
「今、飲み物用意するから、そこ座ってて」
「う、うん」
言われたとおりにクッションに腰を下ろす。
自分自身を落ち着かせるために、お兄ちゃんの部屋チェック開始。
なにがあるかなぁ? って、チェックするほど物がない。本当に生活必需品しか置いていないみたい。これぞシンプルイズベストって感じだ。お兄ちゃんらしいといえば、らしいかな。なんて、ある意味、感心していると「はい、どうぞ」と、お兄ちゃんが私の前に淹れたての珈琲を置いてくれた。
ちゃんとミルクと砂糖が二つずつついている。私の好み、把握されまくってる。
「ありがとー」
なんとなく気恥ずかしくて俯き加減でお礼を言う。
お兄ちゃんは何処に座ろうか少し迷ったような素振りを見せ、やがて、ベッドに腰掛けた。
「じゃ、なにしよっか?」
「え? えーっとねぇ」
元々、お兄ちゃんに逢いたくて家に来ただけだから、特に部屋で何かしようという目的もない。
かといって、ここで勉強するっていうのも、どうだかって感じだし。いや、教えてほしいことは一杯あるけど。それは次の家庭教師の時間で間に合うし。どうせなら、2人っきりの時間を大事にしたい。
考えて考えて、私はいいことを閃いた。時刻もちょうどいい時間。
「ねぇ、お兄ちゃん、もう夜ご飯食べた?」
「いや、まだだけど」
「じゃあじゃあ……私が作ってあげよっか?」
「亜美ちゃんが?」
「うん」
「でも、家で食べるんじゃないの?」
「そうだけど、お兄ちゃんの分だけ作ろっかなぁって?」
「い、いいの?」
「うん!!」
「……じゃあ、お願いしようかな」
「任せて!」
はりきって腕まくりなんかしてみる。
綺麗に手も洗って、料理する気は満々だ。
……さて、なに作ろう?
「冷蔵庫見ていい?」
「いいよ」
冷蔵庫を覗いてみる。
中身、玉子とタマネギだけってビッミョー。
冷凍庫も覗いてみる。冷凍庫には、氷しか置いてなかった。
こんなんでいいのか、大学生!? こんなに何もなかったら栄養が足りないじゃん。
お兄ちゃんの体が、心配になってくる。
「お兄ちゃんって、いっつも何食べてるの?」
「えーっと……ラーメンとかコンビニ弁当とか、あとは、友達の差し入れ」
「……」
「……」
「とにかく今日はぁ、卵あるから愛情たっぷりオムライス! ケチャップは、あるよね?」
「あるある、大丈夫」
食材はないのに、ケチャップの他、やたらと出て来る調味料。
調味料を揃えるくらいなら、食材にもう少し気を回したらいいのに、と思ったけど、口に出さない事にする。それに、お兄ちゃんが料理しないなら私が料理してあげればいいんだし。
頭の中では、エプロンをした自分と料理が出来上がるのを待っているお兄ちゃんの姿。まるで新婚さんだ。
私がそんな想像を膨らませている間にお兄ちゃんはというと「じゃ、俺は米研ぐね」と、さっさと調理を始めてしまう。
「わ、私が研ぐよ」
「いいっていいって、これくらい」
「そう? じゃ、お願いします」
「はい、お願いされます」
正直、お米って炊き上がったところしか知らない。
とにかく、水洗いしたらいいんだと思っていたけど、お兄ちゃんがしているのを見ると、それはちょっと間違った認識だったのかもしれない。
ジャーと水出して、ある程度溜まったら、水を止めて手でジャコジャコ掻き回す。
水の色が白くなってきたら、釜を傾けて水を流す。
今後のために覚えておこ。
また料理する機会があったら、今度はお兄ちゃんには座って待ってて欲しいしね。
それにしても、こうしてお台所で隣に並んで料理をしていると(私は見てるだけだけど)、やっぱり新婚さんって感じでいいなぁ。
「ね、お兄ちゃん」
「んー?」
「なんかさ、私たち、ちょっと新婚さんっぽくない?」
「え!?」
よっぽど驚いたのか、お兄ちゃんは手から釜を落っことしそうになった。すんでのところでキャッチしたから大丈夫だったけど。
「そんなに驚かなくてもいいのに」
「いや、だって……」
「嫌だった?」
「そうじゃなくて……ちょっとそう思ってたから、俺も」
お兄ちゃんは、私から視線を逸らしぼそぼそとそう言う。
言った人がそこまで照れてちゃ、聞いてる人はもっと照れちゃう。なんだか心がくすぐったい。
「……お兄ちゃん」
好き。大好き。ウブなお兄ちゃんが、超好き。もう気持ちがマックス過ぎて抑え切れないよ。
告白するなら。
告白されるなら。
今かも、しれない。
「「あ、あの――」」
二人同時に、言葉を発したその時だった。インターホンも押さず、ノックもなしに誰かが部屋に入ってきたのは――
「どうもー、夜ご飯のおすそわけにきましたよー!」
スタイルよくて、綺麗で、なんていうか、一言で表すと――大人の女性。
突然、現れたこの美女は一体、何者!?
「菊池さん!?」
お兄ちゃんが驚いたように言う。
菊池さん? だから、何者なの?
くいくいとお兄ちゃんの袖を引っ張って小声で「誰?」と問うと「大学の友達」と、返事が返ってきた。慌てた様子もない。
言葉どおりに受け取っていいんだろうか。うーん。
「……あれ? お客さんだった?」
菊池さんはお兄ちゃんの隣にいる私に気づくと、困ったような微笑を浮かべた。
「あー、うん。実家の隣に住んでる子。今、家庭教師やってるんだ。神田亜美ちゃん」
「……あ、どうも初めまして、菊池陽子です」
「は、初めまして、神田亜美です」
ペコリと頭を下げて、様子を窺う。
菊池さんは私とお兄ちゃんを交互に見やり、なにやら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「んーんーんー、もしかして、私、恋人たちのスイートタイムに入ってきたお邪魔虫ってやつ?」
「い、いきなりなに言ってんだよ」
「いいのいいの。そんな顔赤くして否定しなくたって」
じゃれあうような言い争いをはじめる、お兄ちゃんと菊池さん。
菊池さんと話しているお兄ちゃんは、いつも私が見てるお兄ちゃんとはまた違って見える。
なんだろ。なんかモヤモヤ。
っていうか、スタイルいいし、顔キレイだし、大人だし、普通に考えて、勝てる要素が見当たらない。
お兄ちゃんは、本当は菊池さんみたいな大人の女性が好きなんだろうか。だとしたら、今の自分は、全然、お兄ちゃんの好みと違う気がする。
……これは、ピンチかもしれない。ウカウカしてたら、今、目の前にいる人にお兄ちゃんを取られてしまうかも。
「お兄ちゃん!」
「はっ、はい!?」
「……私、今日は帰るね」
「えっ!? ちょ、ちょっと亜美ちゃん?」
「でも、期待してて」
「……な、なにを?」
「今日明日で大人の女性にはなれないと思うけど、私、頑張るから!」
そう宣言して、お兄ちゃんの部屋を出る。
全く状況がつかめていないお兄ちゃんはすぐに追いかけてきてくれたけど、私は階段を駆け降りて、降り終わった所でお兄ちゃんを振り返った。
「またね、お兄ちゃん」
手を振ってまた走り出す。
お兄ちゃんは呆気に取られたような顔をしていた。
このあと、お兄ちゃんが「……オムライスは?」と、呟いたのは、私のあずかり知らぬ話。