lesson.2
夏休みが始まった。といっても、午前中は補習だったり部活だったり、午後は友達と遊んだり、色々と忙しい。
でも、お兄ちゃんが来る日だけは、ちゃんと家にいるようにしていた。
今日だってそう。
それなのに、夏の暑さと遊び回っていたツケに負けて、私は襲いくる眠気に勝てず、ベッドに突っ伏してしまった。
もちろん、お兄ちゃんが来るまでには、シャキッと起きているつもりだったのだけれど。
※
ふと髪を撫でられたような感覚に薄く目を開けると、お兄ちゃんがすごく優しい顔で私の髪に指を滑らせていて。びっくりして、思わず寝た振りをしてしまった。
お兄ちゃんは、私が起きたことに気づいていないのか「……よく寝てるなぁ」と、しみじみ言いながら、私の目にかかった前髪を払ってくれた。
その手が、流れるように私の頬にそっと触れ、そこでピタリと止まる。
目を閉じていても、お兄ちゃんの視線を感じる。なんだかドキドキしてきた。
お兄ちゃんが、今、なにを考えているのかはわからない。
でも、私は少しだけ期待してしまう。
二人っきりの部屋。
前、出来なかったキス。お兄ちゃん、してくれないかなって。
頭の中に浮かんできたその光景は、どんどんどんどんリアルさを持っていく。自然と頬が熱くなるのを感じる。私の頬に手を触れているお兄ちゃんに、その熱が伝わっちゃうんじゃないかなって不安になるくらい。
そんなことを考えていると「……亜美ちゃん」不意に名前を呼ばれた。
一瞬、寝た振りがばれたのかと思ったけれど、違った。
お兄ちゃんの吐息が近くなって――チュッと額に落ちてくる唇。
してくれた! 唇じゃないけど、してくれた!!
嬉しくて、嬉しくて。
「……お兄ちゃん」
無意識のうちに言葉が零れた。
「え?」
お兄ちゃんがぎくりとした声を出す。
このタイミングで呼んでおいて、寝た振りを続けるのはちょっと無理があると思って、もう目を開けていた私とお兄ちゃんの視線が合わさる。
「……………」
「……………」
しばらくの沈黙。
私の頬はピンク色のままで、逆にお兄ちゃんの顔色は青く、青白くなっていく。
「あっ、あああ亜美ちゃん!!! 起きてたの!?」
「ご、ごめんなさい!!!」
ベッドからガバッと起き上がって頭を下げる。
お兄ちゃんの顔色は、青白くから真っ赤に変わっていた。
「あ、あのね、さ、最初は本当に寝てたの! ホントだよ」
「……い、いつから?」
「えっと……髪の毛、触られた時に、その」
「……」
「ご、ごめんなさい」
「や、こ、こっちこそなんて言ったらいいのか……その、ごめん」
お互い、真っ赤になって謝って。勉強する時間なのに、謝る時間みたいで。
放っておくと、ずっと謝り続けちゃいそう。私はとにかくとして、お兄ちゃんが。
「――お、お兄ちゃん、そろそろ勉強しよ勉強!!!」
だから、そう助け舟を出す。
「あっ、そ、そうだね。そうそう、勉強勉強……えっと、今日は200ページから」
「お兄ちゃん、これ180ページしかないんだけど」
「……あ」
動揺して、混乱しているお兄ちゃん。そんなお兄ちゃんが可愛く思えて、私の顔はだらしなくほころんでしまった。
なんとかお兄ちゃんを落ち着かせて、勉強を開始したのは、それから数分後。
ただ、なんていうか、寝起きっていうのもあって、いまいちはかどらない。
「……大丈夫? まだ眠たそうだけど」
見かねたのか、お兄ちゃんが心配そうに問うてくる。正直に答えるべきかどうか迷う。
とりあえず「あは」と笑って誤魔化すと、お兄ちゃんは「今日は、ここまでにしようか?」と言った。
「え?」
「頭が働かない時は、ムリしないで休んだほうがいいからね」
「……うーん。そしたら、お兄ちゃんは帰っちゃうの?」
もしも、そうならお兄ちゃんの言葉にノーを言わなきゃいけない。だって、まだ家庭教師の時間は1時間半も残ってるんだから。
「亜美ちゃんが眠くて死にそうなら帰るけど」」
「だ、大丈夫だよ。私、眠るよりもお兄ちゃんと話したい」
勢いに任せて言ってしまった。
お兄ちゃんの顔がまた赤くなる。多分、私も。
「……ま、間違い」
「え?」
「今の間違い。お兄ちゃんの話が聞きたい。こっちにする」
最近のお兄ちゃんのことも聞けるし。
「俺の話? ……そう言われても、なに話せばいいかな」
お兄ちゃんは少し困ったように頭をかく。
「えっとねー、じゃあ、私が質問していい?」
「いいよ、答えられる範囲なら」
「うん」
頷いたあと、えへへっと笑う。その顔を見て、お兄ちゃんも笑う。すごくいい感じの空気。
さて、なにを聞こうかな?
隣のお家に行けば会えた昔と違って、一人暮らしをはじめた今のお兄ちゃんのことを、私はあんまり知らない。通っている大学は知ってるけど、どんな生活を送っているのかは分からない。
「うーんとねぇ、お兄ちゃんは大学でどんなこと勉強してるの?」
「先生になる勉強だよ」
「へー、お兄ちゃん、学校の先生になりたいの?」
「うん」
「いいなぁ、お兄ちゃんの生徒になる子たち」
「なに言ってんの? 亜美ちゃんは、俺の一番最初の生徒なのに」
サラリと笑って言われた言葉にドキッとする。
お兄ちゃんは、私のドキドキにまったく気づいた風もない。
たまーにこういうドキッとすることを自覚なしで言うんだから……
「……そ、そっかぁ。そういわれたら、私、お兄ちゃんの生徒だよね」
「うん」
「で、でも、やっぱり学校の先生だった方が嬉しいかなぁ」
「え、なんで?」
「だって、そしたら、毎日会えるし。担任の先生、お兄ちゃんだったらよかったなぁって思って」
「でも、それだと、亜美ちゃんばっかり贔屓して、他の生徒とか親御さんたちに怒られちゃいそうだよ」
ま、またそういうことをサラッと言うんだから。
「そっかぁ」って気の利かない返事しか出来なくなる。
なんかさっきからペースがつかめない。少し落ち着くために深呼吸して。
お兄ちゃんは質問されることが楽しくなってきたのか「他には聞きたいことないの?」なんて、のんきに聞いてくる。
「あ、あるよ。えっと、お兄ちゃん、今、どこに住んでるの?」
「結構、近くだよ。こっから電車で2つのとこ」
そう言って、お兄ちゃんは聞き覚えのある駅名を教えてくれる。
「本当に近いね。昔みたいに遊びに行っちゃおうかな……なーんてね」
言ってる途中でお兄ちゃんの表情が硬くなったから、冗談のフリをして誤魔化した。
ショックで顔が引きつるのが自分でも分かる。気づかれないように無理矢理笑ってみせると、お兄ちゃんは「あ、えっと、ダメってワケじゃないんだけど」と、慌てたように言った。
「ホントに?」
「う、うん。ただ狭いよ」
「平気!」
「そ、そっか。じゃあ、亜美ちゃんが暇で、俺が家にいる時にでもおいでよ。電話くれたら大丈夫だから」
照れくさそうにポリポリと頬をかくお兄ちゃん。
お兄ちゃんがすごく頑張って言ってくれたのが分かる。
なんだか、嬉しすぎて、少しの間、言葉が出てこなかった。
※
そんなこんなで話をしていると、1時間半なんてあっという間。いつのまにか時計の針は10を指していた。
お兄ちゃんを玄関で迎えるのが恒例なら帰りは門の前まで見送るのも恒例。
「それじゃ、また来週」
「うん。バイバイ、お兄ちゃん」
手を振ってお兄ちゃんの背中を見送る。いつもと同じ光景。
でも、なんかいつもと違って――来週まで我慢できそうにない。
「お兄ちゃん!」
後姿を呼び止める。お兄ちゃんが不思議そうに振り返った。
「あ、あの、明日ってなにか用事ある?」
「明日は……多分、なにもないけど」
困惑した顔でお兄ちゃんが答える。
「あのね、私……来週まで待てそうにないから、明日もおにいちゃんに会いたい……です」
私の言葉にお兄ちゃんは、ぽかんと口を開けて固まってしまった。
「……ダメ?」
不安になって問うと、お兄ちゃんは「ダ、ダメじゃないよ」と、首を何度も勢いよく横に振る。
「じゃ、じゃあ、明日、駅に着いたら電話するね」
今度は首を何度も勢いよく縦に振る。
明日、お兄ちゃんの首が筋肉痛にならないかちょっと心配。
「そ、それじゃ、また……明日」
「うん、おやすみなさい」
改めて、お別れの挨拶をして。
いつもなら、これから一週間我慢しなきゃいけないけど、明日にはまた会える。今日はいい夢が見れそう。