lesson.15
その日、奈津子の様子はおかしかった。
何度も私に何かを言いかけては止めて、けれど、やっぱり言いたいことがあったのだろう。さっき難しい顔で私の方を振り返った奈津子は、言葉を選ぶように少し迷ってから「ちょっと相談っていうか、悩みって言うか、聞いてくれる?」と、切り出した。
なんだかんだで奈津子には世話になってるし、当然、私は頷いたのだけれど。待てども待てども一向に奈津子は口を開かない。「あー」とか「んー」とか唸ってばかり。
そんなに言い辛いことなんだろうか? ここは私から聞きだした方がよさそうだ。
「奈津子」
「な、なに?」
「えっと、相談っていうかなにか悩みがあるんでしょ?」
「う、うん」
「なに関係? お金関係は、私、ちょっとしか力になれないかもしれないけど」
「いや、お金関係じゃないし」
奈津子は少し笑い、それから「なに関係かっていうと、恋愛関係になるのかなぁ」と、首を傾げながら言った。
「なんでそんな自信なさげに言うの」
「いや、だって、自分でもわっかんないんだよね。っていうか、ありえないし」
うん、ありえない、と奈津子は独り言のように続ける。
私は驚きを隠せずにいた。
これまでの奈津子の恋愛事情を知る身としては、ありえないと言って奈津子が躊躇することの方がありえない。好きになったら即ゲットがモットーじゃなかったっけ? しかも、それでこれまで全部上手くいってるんだからすごい。
そんな奈津子だから私とお兄ちゃんの牛歩のような関係を、じれったいと思ったんだろうけど。まぁ、それは今は関係ないとして。
「なにがどうありえないの?」
そう聞いてみる。すると、奈津子は「うーん」と頭を抱えた。
「……ぶっちゃけさぁ」
しばらく待っていると、意を決したように奈津子は口を開いた。
「私って男が途切れたことないじゃん?」
「へ? あ、うん」
「好きなわけよ」
「なにが?」
「男が」
きっぱり言い切る奈津子だけれど、私には、なんのことやらさっぱり分からない。
「……えっと?」
首をかしげる。
奈津子が「だから、私は男しか眼中になかったんだって。っていうか、今もそうなんだけど」とじれったそうに言った。
ますますなにがなにやら。首を傾げるにプラスして私は眉を寄せる。奈津子が大きな溜息をついた。
「菊池さんよ」
「菊池さん?」
「亜美には言ってなかったけど、ちょっと仲いいの、最近」
「へー」
唐突な、話題転換? それとも、菊池さんが関係してるんだろうか? なんにしても、もう少し分かりやすく話してほしい。
「ね、奈津子。もうちょっと分かりやすくお願い」
「……分かってるけど」
私の言葉にまた大きく溜息。髪を苛立ったように掻き揚げる。
「つまり、最近、菊池さんといるとすごい幸せ感じて、菊池さんのことを考えると胸がドキドキして勉強が手につかなかったりするんだけど、これは恋なワケ? っていうか、女とかありえないし、恋じゃないと思うんだけど、じゃあ、なんなの? って、そういうこと!」
奈津子は一息でそう言うと、顔を伏せてしまった。
菊池さんと奈津子は知らない間に仲良くなってて。菊池さんといると奈津子は幸せで。菊池さんのことを考えると胸がドキドキして勉強が――
「元から勉強は手についてないじゃん」
あまりに意外すぎて思わず、どうでもいい部分に突っ込んでしまう。奈津子が顔半分をあげ、目だけで私を睨んだ。
「あ、えっと、ゴメン」
謝って、頭の中を整理する。
とりあえず、奈津子の言ったことを自分のことに置き換えてみよう。
菊池さんをお兄ちゃんに変換してみて、と。
お兄ちゃんといると私は幸せで。お兄ちゃんのことを考えると胸がドキドキして――うん、これは間違いなく恋だ。断言できる。
でも、お兄ちゃんが菊池さんになると、はっきりと言い切れなくなる。
奈津子自身が『自分でも分かんない』と言っていたけれど、確かにこれは分からない。あんまり簡単に答えを出していいようなことでもないような気がするし。
「うーん」
難しすぎて唸ってしまう。奈津子が恐る恐る顔を上げた。
「……ぶっちゃけさ、引いた?」
私の唸りを勘違いしたらしい。そんな奈津子の問いかけには「え? あ、ううん。そうじゃなくて、難しくて」ちゃんと否定しておく。
すると、奈津子はうんうんと頷いて「でしょ? 難しいよね。なんだってこの私が」と少し元気な調子で言った。空元気なのは見え見えだったけど。
「でも、菊池さんって大人だし美人だしね。なんか憧れるってのは分かる」
「そっか。憧れねー。いいね、それでいこ!」
「え?」
「うん、憧れいいね。憧れにしとけば、私も平常心でいられるし」
ちょっとそんな簡単に決めちゃっていいの? っていうか、ムリヤリそう思い込もうとしてるだけじゃん。
「奈津子、ちょっとストップ」
「んー、なに?」
「あのね、憧れかもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そんな簡単に判断できるものじゃないでしょ? っていうか、どっちでもいいんじゃないかなぁとか言ってみたり、しちゃったり……」
言葉の途中で奈津子の目が鋭くなったので、ついしどろもどろになってしまう。
「どっちでもいいって……よくないから悩んでんじゃん」
「で、でも、どっちにしたって奈津子は菊池さんのこと好きなんでしょ?」
「う……まあ、ね」
なんとなくはっきり好きだと口にしたくないのか、奈津子は曖昧に頷く。気にせずに私は言葉を続けた。
「だったら、憧れにしても……もしも、恋だったにしても、好きは好きでいいんじゃない?」
「……そうかなぁ」
「そうだよ」
「……じゃ、そういうことにしとく」
悩んでても仕方ないし、と奈津子は頬杖をついた。
うーん、これでよかったのかな? 人から相談を受けるって難しいと痛感した。
「ところで、亜美」
「ん?」
「今日、ヒマ?」
「……んー、ヒマだけど?」
「じゃ、付き合って」
悩みが晴れたからか、すっきりした顔で奈津子が言う。
特に予定もないし、私は頷いた。
※
付き合ってと言われて連れてこられたのは。
「お兄ちゃんの大学じゃん」
「そうそう。菊池さんの大学ね」
ということで。正門のところで待つこと数分。奈津子の顔がなにかを見つけてパッと明るくなる。
奈津子の視線の先を追ってみる。菊池さんだ。
「陽子ちゃん」
奈津子が手を振る。
陽子ちゃん?
「お待たせ、なっちゃん」
な、なっちゃん?
本当に知らない間に仲良くなってたんだなぁ、と思わせるお互いの呼び名に私はただ驚くばかり。っていうか。
「ね、ねぇ、奈津子。私、邪魔なんじゃない?」
奈津子の制服の肘の辺りを引っ張り小声で問うと、奈津子は「いや、あんたは栄養ドリンク? 的な?」と、ワケの分からない言葉を返してくる。
菊池さんはそんな私たちのやり取りが聞こえていないのか、不思議そうに首をかしげてこちらを見ている。
そんな視線に気づいた奈津子は菊池さんの方を向いた。
「ごめんね、陽子ちゃん。急に呼び出して」
「ううん。でも、いいものって?」
「あー、うん。ほら」
チラリと奈津子が私の方を見やり。それにつられるように菊池さんが私の方を見やり。そして、合点がいったというように微笑を浮かべた。
「昨日、なんか元気なさそうだったから。元気の源宅配してみたの」
奈津子が言う。
元気の源? さっきも栄養ドリンク?的な?とか言ってたけど。なんのことやら。
「ありがと。でも、別にそのことで落ち込んでたりはしてないんだけどね」
「え? そうなの?」
「ええ。もう大丈夫っていったでしょ」
「そうだけどさぁ……」
「でも、ありがと」
菊池さんが笑うと、奈津子にしては珍しく頬を少し染めはにかんだように笑う。
これが恋でないならなんなんだ? といった反応。
そして、私は相も変わらず蚊帳の外。むしろ、お邪魔でしかない。
「そろそろ帰っていい?」
奈津子に声をかける。奈津子は「明日、お昼奢るね」と、あっさり開放してくれた。と思ったら、
「あ、亜美ちゃん」
菊池さんに呼び止められた。
「はい?」
「片瀬くんのところには寄るの?」
「えっと、その予定はないですけど。どうしてですか?」
「んー、昨日かなり飲まされてへろへろだったのよ。今日は、一度もみかけなかったし、大丈夫かなぁと思って」
飲まされてへろへろ? それは聞き捨てならない。
っていうか、大丈夫なの? 急性アルコール中毒とかで死んじゃう人だっているって言うし、心配になってくる。
「じゃ、じゃあ、寄ってみます。ここからなら近いし」
私は菊池さんにお礼を言って、お兄ちゃんのアパートへ急いだ。
※
やって来たるは、お兄ちゃんの部屋の前。さっきからインターフォンを鳴らしてるけど、お兄ちゃんが出てくる気配がない。
菊池さんの情報によると、今日は学校には行ってないみたいだけど……
「買い物かなぁ……」
出歩ける元気があるならいいんだけど。部屋に向かう際に出したメールの返事がないのが気にかかる。
「開いてたらいいのに……ん?」
ドラマなんかだと鍵が開いてたりするんだよね、と思いながら、なんとなくドアノブに手をかけてみると、なんの抵抗もなくそれは回った。
無用心な……なにはともあれ「お兄ちゃん?」と、部屋の中を覗き込んでみる。と、すぐに足が見えた。奥の部屋に上半身を突っ込んだままお兄ちゃんが倒れている。
「お兄ちゃん!?」
慌てて駆け寄ってその体を揺さぶる。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんってば!」
「ん……」
私の声に応えるように微かにお兄ちゃんの瞼が持ち上がる。倒れていたわけじゃなくて、寝ていただけみたいだ。少しホッとする。
でも、こんなところで寝ちゃうなんて……体なんて冷え切ってるし。風邪引いちゃうよ。
「お兄ちゃん、起きて」
どうにか抱え起こそうとするけど、男の人の体は、思っていたよりも重たい。
「……ん、亜美ひゃん?」
お兄ちゃんがもぞもぞと動いた。
っていうか、呂律が回ってないし、まだ酔いが残ってるみたいだ。一体どれだけ飲まされたことやら。
「……亜美ちゃん、好き」
私の腕の中にいるお兄ちゃんがいきなり抱きついてきた。
「え? ちょ、ちょっとお兄ちゃん……キャッ!」
お兄ちゃんの体重を支えきれずにそのまま後ろに倒れこむ。
目の前にはお兄ちゃん。目がとろんとしている。でも、なんだか嬉しそうな顔。
「お、お兄ちゃん?」
「んふふー」
お兄ちゃんは不適な顔をして笑うと、私の制服に手をかけた。
「ひゃっ! ちょ、お兄ちゃん? や、やめて!」
抵抗もむなしく、手際よくブラウスの前が開かれてしまう。お兄ちゃんの手が私の胸に伸びる。
「んっ! お、お兄ちゃん……やめ……」
「……ん、いい夢」
「ゆ、夢じゃないから!」
お兄ちゃんを睨む。お兄ちゃんは、子供のように私の胸とじゃれている。
なんか……可愛いと思ったりして。と、同時に。これがいい夢だと思うなんて、やっぱり普段、相当我慢してるんだろうな、と申し訳なくなる。
私はお兄ちゃんの頭を撫でる。お兄ちゃんの手が止まった。顔を上げて、私を見てくる。そして、にんまりしたと思ったら。その顔を私の胸に押し付けた。
「……ん、亜美ちゃ……大好き」
そのままお兄ちゃんは動かなくなって、やがて、スースーと規則的な寝息が聞こえ始める。
「お兄ちゃん……」
ホッとしたけれど、なんとなく残念な気もする。複雑な心境、ってやつだ。
それにしても、上半身ははだけられたまま。お兄ちゃんが上にいるから、服を着るに着れない。すっごく幸せそうな顔して寝てるのに起こしちゃうのも可哀相だし。
「……寒い」
ぶるっと身を震わせて、私は湯たんぽ代わりにお兄ちゃんを抱きしめた。
お兄ちゃんが目を覚ましたのはそれから一時間近く経ってから。
※※
「ん……頭いてー」
唸りながら体を起こしたお兄ちゃんは、下にいる私を見るなり、目が点になった。そして、光速で私の体から目を逸らす。
「……俺、なんかした? っていうか、したんだよね、ご、ごめん」
お兄ちゃんは両手で目を覆っている。けれど、なにげに指の隙間からこっちを見ちゃったりしてる。
私は慌てて服の前を掻き抱いて、さらけ出していた肌を隠し、お兄ちゃんを睨む。
「ご、ごめん」
指の隙間を閉じたお兄ちゃんは土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。途端「っつー!」と頭を抑える。
二日酔いってやつだ。私は未成年だからまだ体験したことないけど。かなり苦しそう。
「だ、大丈夫? えっと、こういう時ってお水とか持ってくるんだよね?」
立ち上がろうとした私の手をお兄ちゃんがぎゅっと握る。
「え?」
「……さっきのがいい」
「さっきの?」
「夢の……お願い」
夢のって、まさか……む、胸?
お兄ちゃんはなんだか熱っぽい目で私を見ている。
っていうか、お兄ちゃん、まだちょっと酔いが残ってる?
絶対そうだ。普通なら、こんなお願いしてこないもん。
じーっと私のことを見ているお兄ちゃん。そんな目で見られると弱い……
「……もう、お兄ちゃんのバカ」
少しだけだよ、と続けるとお兄ちゃんは「うん」と子供のように頷いて、私の胸に飛び込んできた。
ボタンを留めきっていなかったブラウスをあっさり開かれて……幸せそうに胸を触るお兄ちゃん。
知らなかった。お兄ちゃんがおっぱい星人だったなんて。