lesson.13
今日は天気が悪い。午後の授業が始まる頃には空は真っ黒になっていて、幾分かもしないうちに、ポツポツと雨が降りはじめた。
「傘持ってきてないのに最悪」
放課後になっても、相変わらず、降り止まない雨にがっくり溜息をつく。
「部活終わるまでに雨あがるかもよ」
「だといいけどね」
奈津子の言葉に頷いては見たけれど、どうみたってそんな生易しい雨じゃなさそうだ。
「あ、亮くんに迎えに来てもらったら?」
「え?」
「お兄ちゃん、助けてって送ったらすっ飛んできてくれそうじゃん」
「心配かけそうなメールはやだよ」
と、一応は言ったものの、奈津子の提案に少し惹かれるものがある。
もちろん、助けてなんてメールは送らないけど――
私は携帯を取り出す。
『傘持ってきてないのに雨降ってきちゃったよぅ(T_T)』
これくらいならオッケーかな?
メールを打ち終わって顔をあげると、奈津子がにやにやとこちらを見ていた。
「普通のメールしただけだもん」
「ふーん」
まったく信用してない顔。
こんなことをしつこく否定するのも変だし、放っておこ。そう思った矢先、お兄ちゃんからメールが返ってきた。
『今日、部活あるの?』
『雨だから短めになると思うけど、あるよ』
『じゃあ、部活終わる頃に迎えに行くよ』
私はその内容に目を奪われた。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ期待してたけど、本当にそう言ってくれるなんて思ってもなかった。
お兄ちゃんに部活が終わる時間帯を教えて、メールを終える。
どうしよう、すごく嬉しい。この雨に少しだけ感謝。
「ニヤニヤしすぎ」
「あぅ」
奈津子がいるのを忘れてた。そういえば
「奈津子」
「ん?」
「ありがと」
提案してくれた奈津子にも感謝だ。
********
雨の日の部活は筋トレがメイン。それが一通り終わると、片づけをしておしまい。
私は素早く着替えを済ませて、お兄ちゃんが待っているはずの校門へ急ごうとしたんだけど「あ、神田」途中で名前を呼ばれた。振り返ると、同じクラスの山田君。
「え、なに?」
「明日の小テストの範囲ってどこだっけ?」
「小テスト? えっと、歩きながらでいい?」
早くお兄ちゃんの元に行きたくて、そう聞くと山田君は「おう」と快く頷いてくれた。
テスト範囲を教えて、あとは適当なお喋りをしつつ昇降口まで向かう。
「じゃ、明日ね」
靴を履き替えて外に出ようとすると「お前、傘は?」と、呼び止められる。
「持ってないけど、校門で待ち合わせしてるから平気」
「なら校門までいれてやるよ」
「ホント? ありがと」
断る理由もないし、雨で濡れるのも嫌だったので山田君の好意に甘えさせてもらう。
校庭の真ん中ら辺まで行ったところで、校門に立っているお兄ちゃんの姿を見つけた。
「ここでいいや。ありがと」
「おう。じゃーな」
山田君にお礼を言って、お兄ちゃんの元に駆け寄る。
お兄ちゃんは私に気づいていたのか、傘を持った手を小さく上げた。
「お待たせしましたー」
「……はい、傘」
持ってた傘をぶっきらに差し出された。
なんか、よく分からないけど、お兄ちゃんの様子がいつもと違う感じがする。なんていうか不機嫌? でも、気のせいかもしれないし。
「えー、相合傘しようよー」
私は確かめるように冗談を言ってみる。
私の冗談にお兄ちゃんは「やだよ」と、どこか不機嫌に答えて、そのまま歩き出した。やっぱり変だ。
「ちょっ、お兄ちゃん、待ってよ」
呼び止めても、お兄ちゃんは早歩きで。私が同じように早歩きしても、お兄ちゃんと私の歩幅は全然違くて追いつけない。けれど、小走りにかけて、なんとか追いつく。
不用意に駆けてきたせいで、ローファーや靴下に水が跳ねたりしたけれど、仕方ない。もう離れないようにお兄ちゃんの腕を取る。
「もう歩くの速いよ、お兄ちゃん」
「……ごめん」
「……ね、どうしたの…?」
先回りして正面から顔を覗き込むと「なんでもないよ。ごめんね」と、お兄ちゃんはどこか自嘲的な笑顔を浮かべてそう言った。
それからお兄ちゃんはいつものように私に合わせてゆっくり歩いてくれたけど、話しかけても上の空で、なんだか一生懸命話しかけてる自分がバカみたいに思えてくる。
自然と足が止まる。
「……お兄ちゃん」
聞こえていないのか、お兄ちゃんは足を止めてくれなくて、じわっと涙が溢れてきた。自分がこんなに涙もろかったなんて驚きだ。
「……あ、亜美ちゃん?」
服の袖で涙を拭っていると、お兄ちゃんが立ち止まっている私にやっと気づいたようで慌ててこっちに戻ってくる。
「……ど、どうしたの?」
「お兄ちゃん、が……わ、私のこと」
上手に言葉が出てこない。でも、お兄ちゃんはそれだけで私の言いたいことが分かったのか「ご、ごめん、亜美ちゃん。ごめんね? ちょっと考え事してて」あたふたしながら謝ってくる。
通りすがりの人が何事かとこちらをチラ見していく。
「お兄ちゃん……私のこと、嫌いに、なった? 傘忘れたなんてメール、したから……私がワガママだから」
「嫌いになんてなってないよ。誤解だから。ともかく落ち着いて、ね?」
お兄ちゃんは私の頭を撫でながらそう言って、なにかを探すようにきょろきょろする。そして「とりあえず、場所変えよ。濡れちゃうし」と、私の腕を引っ張って歩き出した。
********
手軽に二人きりになれる場所なんて限られている。
連れてこられたのはカラオケボックス。
私の涙はまだ止まらなくて。
お兄ちゃんが顔を覆っている私の手を取った。じっと見つめられる。手を取られているから涙を拭えなくて、私の顔は涙で一杯になる。それをお兄ちゃんの唇が拭った。
「……ん」
くすぐったさと心地よさで声が出る。
私の涙が止まるまで、お兄ちゃんは何度もそうしてくれた。それから何度目かの謝罪を口にする。
「ホントにごめんね。俺、亜美ちゃんのこと嫌いになったりしてないし、迎えに行くのだって全然ワガママとか思ってないし……むしろ、今日亜美ちゃんと会えることになって嬉しかったし」
「……でも、機嫌悪かったもん」
そう言うと、お兄ちゃんは困ったように唸った。
「んー、それは、その……こういうこと言うのって、すごくウザイし、なんつーか子供っぽくて嫌なんだけどさ……亜美ちゃんが、男の子と楽しそうに話してたから、なんかムカついたっていうか」
「え?」
「ヤダよな。俺、こんなに自分が心狭いと思わなくてさ……」
お兄ちゃんは自嘲気味に笑って頭を掻いた。
「不安にさせてごめん」
「……ううん」
お兄ちゃんの気持ち分かる。私だって、お兄ちゃんが菊池さんと仲良くしてるの見たら気分よくないもん。
好きだからこそ、相手を独占していたい。笑顔も身体も心も、全部。
そんなことも気づかずに、お兄ちゃんの前で山田君と一緒に歩いてきたなんて、無神経にも程がある。
「私の方こそ、ゴメンね、お兄ちゃん」
「亜美ちゃんは悪くないよ、全然」
そう言って、お兄ちゃんが私の頭を撫でる。その心地よさにうっとりする。
「亜美ちゃん」
「んー?」
「……キスしていい?」
「そ、そんなの聞かなくていいよぉ」
「じゃ、じゃあ」
お兄ちゃんの唇がそっと私の唇に触れる。最初はちゅっちゅっと音がなるくらいの軽い口付け。次第にその口付けは濃度を増して。キスの激しさから私の体は自然と後ろへ。
「ぅ、ふ……んっ……」
お兄ちゃんが掻き抱いてくれているから、どうにか倒れずに済んでいるけど息が苦しい。それを悟ったのか、お兄ちゃんの唇が離れて、今度は私の首筋にキスが落ちた。
「……んぅっ!」
不意打ちに訪れた刺激に私の体は電撃に打たれたようにビクッと強張る。お兄ちゃんはそんなこと全く気にしていないようで首筋へのキスを続けている。
「お、お兄ちゃん」
「……ん?」
「私っ……部活したあとだから、汗くさいよ?」
「そんなことないよ」
チュッチュッと首筋を吸われて――これ以上、そんなことされたら、もうどうしたらいいのか分からなくなる。
「ダ、ダメ……」
私はお兄ちゃんの体を力なく押し返す。
少しびっくりしたような顔をしたお兄ちゃんはすぐに我に返って「ご、ごめん」と、土下座せんばかりの勢いで頭をさげた。今日のお兄ちゃんは謝ってばかりだ。
今のだってお兄ちゃんだけが悪いわけじゃない。私が子供すぎるから――お兄ちゃん、我慢してくれてるのに。
「……お兄ちゃん」
「……ん?」
「あのね、場所が場所だし、まだ心の準備が出来てないっていうか、だから……もうちょっと待って」
「う、うん」
「ありがと」
チュッと短い音を立てて、お兄ちゃんの唇にキス。
お兄ちゃんはポカンとした顔で固まり、その頬が段々と赤くなっていく。さっきのお兄ちゃんとは大違いの姿に少し安心する。
「そ、そろそろ帰ろっか。家まで送ってくよ」
ぎくしゃくとお兄ちゃんが立ち上がる。私はその手を握って、頷いた。