lesson.10
カチコチと時計の針の音。それ以外に音はない。
静かで集中の出来る快適な部屋にいるのに出された問題が全く頭に入ってこない。
こっそり、こっそりと気付かれないように、お兄ちゃんを盗み見る。
教科書に目を落としているお兄ちゃんは全く気づかない。お兄ちゃんが気づいていない時なら、こうして見れるんだけど。
不意に私の視線に気付いたのか、お兄ちゃんが教科書から顔を上げる。思いっきり、目が合ってしまった。
「「!!」」
瞬間、私もお兄ちゃんも即座に目を逸らす。
だけど、心臓だけは正直で。目が合ったという行為に、ドキドキが隠せない。
キスを交わしてからの最初の授業は、始まりからずっと、こんな感じ。
顔を見るのが恥ずかしい。目を見るのが恥ずかしい。唇を見てたら、あの日のことを、思い出す――
結局、あの日は、キス以上のことは何もなかったのだけれど。
あのあと、我に返ったお兄ちゃんは、倒れてしまいそうなくらい真っ赤になって「ごめん」と謝ってきて、私は私でもう一杯一杯で、キスの余韻も何もあったもんじゃなかったし。
だから、今日会うまでこんなに恥ずかしくなるだなんて思ってもいなかったのだ。
一見、キスをしたことで大きな進展を見せたかのような私たちの関係は、実は少しも進展していない。それどころか、今まで出来ていたことすらまともに出来なくなっている。この状況が長く続くのは考えものだ。
私としては、お兄ちゃんと普通に喋りたいし、見つめたい。どうにかしないと。気ばかりが焦る。
うーん、と悩んでいると「分かんないところでもある?」と、お兄ちゃんが訊いてくる。でも、うまいこと視線が合わないようにしている。
「え? あ、えっと、多分分かってるんだけど、ちょっと今日は分かんないかも」
お兄ちゃんは支離滅裂な私の言葉の意味を理解してくれたのか、少しの間のあとに「……そっか」と頷いた。
「じゃあ、今日は勉強はやめておこう」
「う、うん」
とは言うものの、この静かな空間になにもしないで二人きりっていうのもちょっと困る。
なにか気が紛れるものでもないかと探していると、不意にお兄ちゃんが立ち上がった。
「ちょっと外の風あたりにいこうか?」
「え?」
「おじさんとおばさんが許してくれたらだけど」
「う、うん。聞いてくる」
私は階段を駆け下りて、両親がいるリビングに向かった。
********
亮くんが一緒なら安心、という理由でオッケーがでたので、私とお兄ちゃんは家を出て、ぷらぷらと外を歩いている。
さっきよりはマシになってきたけど、会話はやっぱりなかなか弾まない。
「あ」
公園の入り口で思い出したようにお兄ちゃんが口を開く。
「ここ、亜美ちゃんに叩かれたところだね」
「うぅ、そんなこと思い出さなくていいよぉ」
「はは、ごめんごめん。ちょっと寄っていこうか」
「うん」
どうせこの辺には散歩に適したところなんてないし、そう思って、お兄ちゃんの提案に頷く。
夜の公園で二人っきり。自惚れなんかじゃなければ、思いは一緒なんだと思う。私たちに足りないのは決定的な言葉だ。
そして、今、このシチュエーションはそれを相手に伝えるのにぴったり。
私はお兄ちゃんを横目で窺う。
お兄ちゃんは、涼やかな風に気持ちよさそうに目を細めて、ずいぶんとリラックスしているようだ。
うーん。お兄ちゃんからはないかな。
お兄ちゃんのリラックスっぷりにそう結論を出すのと同時に少しだけがっかりする。こんなこと考えてるのは私だけなのかなって。
はぁ、と小さく溜息をつくと、お兄ちゃんが「疲れちゃった? そろそろ帰ろうか」と、心配そうに顔を覗き込んでくる。
急にお兄ちゃんの顔がアップになって、ボンと音を立てるように顔が熱くなる。でも、その反面、今なら私からキスが出来ると思う自分がいて。
「亜美ちゃん?」
黙っている私にさらにお兄ちゃんが近づく。熱に浮かされるように私は、お兄ちゃんの唇をふさいでいた。
自分のものとは違う温もりを感じて、自分のした行動に心底驚く。
お兄ちゃんにキスをしているのだという状況が、遅ればせながら脳に伝わってくる。
その事実をようやく頭の片隅で認識した途端に全身が沸騰したように熱を持つ。それでも、ぴたりと繋がる場所から想いの全てを送り込む。
お兄ちゃんが好き。お隣さんとして初めて会った時から、ずっとずっと好きだった……
時間にして数秒。だけど、私の気持ちを伝えるには十分な時間。
触れたままだった場所が、呼吸を求めるように自然と離れた。肩で大きく息を吐く。
お兄ちゃんは頬を赤くして固まっている。そんな顔を見ていると、段々と自分のしたことが恥ずかしくなってきて
「わ、私、帰るね。おやすみ、お兄ちゃん」
家に向かって全速力で走り出してしまった。
驚いたように私を呼ぶお兄ちゃんの声が聞こえたけど、私の足は止まらなかった。
********
「あら、おかえり。亮くんはどうしたの?」
家に飛び込むと、お母さんが不思議そうに声をかけてくる。散歩に出かける前に、きちんと家まで送り届けると約束していたお兄ちゃんの姿がないからだろう。
「げ、玄関で別れてきたの」
それだけを言うと、私はお母さんの返事も聞かず、階段を駆け上り、自分の部屋に飛び込む。
心臓がバクバクと酸素を求めて早鐘を打つ。立ってるのがきつくて、そのままドアに持たれかかる様にずるずると座り込む。
「……なにやってんだろ」
お兄ちゃんに触れた部分を手でそっと撫でてみる。
すぐに思い出せる、お兄ちゃんの、唇の感触。
体温が急激に上がるのを感じる。走ってきたせいじゃない。どうしてあんなことしちゃったのか。まるで自分じゃなかったみたいだ。
「っていうか、なんで逃げちゃったんだろ……」
はぁ、と深い溜息が出る。
今、私の胸にあるのは後悔。キスをした後に、気持ちを伝えればよかったと。
伝えなくても伝わったとは思うけれど、やっぱり口に出さないといけないことだ。そう考えていたのに……
どうして先にキスしちゃったのか、そして、どうして逃げちゃったのか
「お兄ちゃん、びっくりしただろうな」
怒ってないといいけど……
もう一度溜息をついて、火照った頬を冷まそうと、顔を洗いに立ち上がる。その時、携帯が鳴った。お兄ちゃん専用のメロディ。
「ど、どうしよ」
出なきゃいけないのは分かってる。分かってるのに、私の手は携帯を手に取ったきり、なかなか動いてくれない。
こういう時は、深呼吸。
吸って吐いて、吸って吐いて、吸って――勢いよく通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
『よかった。ちゃんと家に帰ってて』
「あ……ごめんね、さっきは急に」
『いや、全然いいんだけど……』
お兄ちゃんはそこで言葉を止めた。時折、風の音が聞こえるからまだ外にいるのだろう。
沈黙が続く。段々と焦ってくる。
何か言わないと。そう思って、私が口を開こうとしたその時
『好きだよ』
耳を疑うような一言がお兄ちゃんの口から発せられた。
「え?」
思わず聞き返してしまう。
だって、急に。今まで言ってくれなかったのに。
聞き間違いじゃないよね?
『俺、亜美ちゃんが好きだよ』
もう一度、告げられる言葉。視界が急にぼやける。
私、泣いてるんだ。嬉しくて涙が出るなんて初めてかもしれない。
『直接会って言いたいんだけど』
「え?」
『今、家の前なんだ。出てこられる?』
その言葉に私は部屋を飛び出していた。
階段を下りるのさえもどかしい。ドアを開けて、外へ。
「お兄ちゃん!」
私はお兄ちゃんに飛びつく。お兄ちゃんはしっかりと私を受け止めてくれた。
優しく背中に回される腕。全身にお兄ちゃんを感じる。
「好きだよ、亜美ちゃん」
耳元で囁かれる言葉。また涙が出そうになる。
でも、泣くのはまだ我慢。私もお兄ちゃんに伝えたい、この気持ち。
「……私も、お兄ちゃんが好き。ずっとずっと好きだったの、お兄ちゃんが好きだったの」
言えた、と思ったらもう我慢の限界。あっさりと私の目からは涙が零れて、お兄ちゃんがおろおろしだす。
「あ、亜美ちゃん……泣かないでよ」
「だって……嬉しいんだもん。お兄ちゃん、なかなか言って、くれないし」
「ごめんね」
「ううん」
「ほら、もう泣かないで、ね?」
滲んだ視界に、お兄ちゃんの瞳。その瞳が、少しずつ、閉じられていって。つられて私も瞳を閉じた。
そっと重なる唇。軽く触れるだけのキス。
「……いきなりは反則」
「じゃあ、言ったらいい?」
「……うぅ」
「もう一回していい?」
こんな時だけ照れないんだもん、お兄ちゃんはずるい。頷くしかなくなるじゃん。
そして、また重なる唇。さっきのと違う、熱くて甘いキスは次第に激しくなってく。
慣れてなくて少し息苦しいけど、お兄ちゃんの感情の昂ぶりがダイレクトに伝わってきて、素直に嬉しい。
甘い酸欠。
お兄ちゃんが大好き。