第34話「日曜日の夜、俺は『俺たちのこと』に気づいた」
土曜日の夜、配信が終わって、また書いた。
昨日と同じ場所に座った。同じノート。同じペン。
昨日書いた、一行が、そこにあった。
「俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。」
今夜は、その下に、続きを書こうとした。
しばらく、止まっていた。
でも、昨日より、少しだけ、書ける気がした。
昨日、最初の一行を書けた。それが、たぶん、いちばん難しいところだった。今夜は、続き。続きは、最初より、少しは、簡単なはずだった。
ペンを、紙に、つけた。
書き始めた。
「他の人が、リアルタイムで感じる感情を、俺は、三日後に受け取る。映画を見た時の感動。誰かに褒められた時の嬉しさ。叱られた時の怒り。全部、三日後に、届く。」
書けた。
たぶん、二〜三分で、書けた。昨日、一行を書くのに、二十分かかったのに、今夜は、もう少し、速く書けた。
彼女の方を、ちらっと、見た。
ソファで本を読んでいた。俺の方を、見ていなかった。
書き続けた。
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「だから、その日、その時、俺は、何も感じていない。隣で誰かが泣いていても、俺の感情は、動かない。三日経って、その人の涙が、俺の中で動き始める。」
「これは、人と関わる時に、たぶん、不便な体質だった。誰かと『同じ瞬間に同じ感情を共有する』ことが、できないから。」
「ずっと、欠陥だと、思っていた。」
「でも、今は、少し、考えが変わってきている。」
そこまで書いて、ペンが、止まった。
「考えが変わってきている」の、次に、何を書くか。
たぶん、それは、ルシアと暮らすようになってからのこと、だった。
具体的に、書こうとした。
「ある日、誰かが、俺の部屋に来た。」
書いた。
「彼女は、感情を強く受信する体質で、俺の部屋を、唯一の静かな場所だと、感じた。」
書いた。
「彼女と暮らすようになって、俺は、自分の体質について、新しい解釈を、見つけ始めた。」
そこまで書いて、また、止まった。
何が起きているか、気づいた。
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俺は、自分の体質のことを、書こうとしていた。
でも、書いていくうちに、必ず、彼女が、登場した。
彼女が登場しないと、俺の体質の話は、進まなかった。
「ずっと、欠陥だと思っていた」と書いたら、「今は違う」と書きたくなる。「今は違う」と書くと、なぜ違うのか、を書きたくなる。
なぜ違うのかは、ルシアと暮らすようになって、変わったからだ。
だから、ルシアの話を、書かないと、続けられない。
俺の体質の物語は、もう、ルシアと、切り離せなくなっていた。
俺は、ペンを、置いた。
書いた文章を、もう一度、読んだ。
「俺の感情は、三日遅れて届く。」
「他の人が、リアルタイムで感じる感情を、俺は三日後に受け取る。」
「ずっと、欠陥だと、思っていた。」
「でも、今は、少し、考えが変わってきている。」
「ある日、誰かが、俺の部屋に来た。」
「彼女と暮らすようになって、俺は、自分の体質について、新しい解釈を、見つけ始めた。」
「俺」だけの話、じゃなかった。
「俺たち」の話に、なっていた。
書きながら、知らないうちに、主語が、変わっていた。
今夜は、そこで、書くのをやめた。
ノートを閉じた。
でも、心の中では、何かが、まだ、動いていた。
「俺」の話を、書こうとしたら、「俺たち」の話に、なる。
それは、たぶん、自然なことだった。
俺の体質は、もう、俺一人のものではなかった。ルシアと共有することで、新しい解釈を、見つけた。だから、その新しい解釈を語るには、彼女のことを、書かないといけない。
でも、それは、俺一人が、決めていいことだろうか。
彼女の話を、彼女の許可なく、書いていいんだろうか。
たぶん、駄目だった。
でも、書きたい、と思った。
彼女のことを書かないと、俺の話が、進まない。
難しいな、と思った。
半年前なら、こんなこと、悩まなかった。
半年前の俺は、自分の体質を、誰かに伝える、なんて、考えてもいなかった。書く、ということ自体、考えてもいなかった。
今、悩んでいるのは、俺が、変わったから、だった。
悩めるようになった、というのも、たぶん、変化のひとつ、だった。
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「終わりましたか」と彼女が聞いた。
「うん。今日は、終わりです」
「進みました?」
俺は少し、迷った。
「進みました。でも、止まりました」
「止まった」
「うん。書きたいことが、少し、変わってきて」
「変わった」
「うん。今日は、ここまで、にします」
彼女はうなずいた。それ以上、聞かなかった。
彼女が、聞かないでいてくれた。それが、ありがたかった。
今夜は、まだ、自分の中で、整理がついていなかった。
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日曜日の朝、目が覚めた。
昨夜書いた文章のことが、頭の中で、ぐるぐる、回っていた。
「俺」の話が、「俺たち」の話に、なっている。
これを、どう、するか。
方法は、たぶん、三つ。
一つ目。ルシアの話を、書かない。俺の体質だけを、抽象的に書く。でも、それだと、俺は、書きたいことが、書けない。
二つ目。ルシアの話を、勝手に、書く。匿名にして、わからないように。でも、それは、彼女に失礼な気がした。
三つ目。ルシアと、一緒に、書く。
三つ目が、いちばん、自然だ、と思った。
でも、ルシアが、それを、受け入れてくれるかは、わからなかった。
彼女が「相談される側になりたい」と言ったように、「書く側になりたい」と思うかは、別の話だった。
でも、聞いてみたい、と思った。
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朝食を食べた。卵焼きと味噌汁。サラダ。いつも通り。
食べ終わって、皿を洗った。彼女が拭いた。
午前中、彼女はソファで本を読んでいた。
俺は、テーブルで、また、ノートを開いていた。
でも、書かなかった。書く前に、決めるべきことが、あった。
昼前、彼女が口を開いた。
「ユウさん、何か、考えてますね」
「考えてます」
「書く話、ですか」
「うん」
彼女は、本を閉じた。
「話してくれますか」
「うん」
俺は、ノートを、テーブルに、置いた。
そして、昨夜、起きたことを、説明した。
「俺」の話を書こうとしたら、「俺たち」の話に、なってしまったこと。
「俺の体質は、もう、俺一人のものじゃない、と気づいた」こと。
「だから、書く相手は、俺だけじゃない、と思った」こと。
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
俺は、続けた。
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「ルシア」
「はい」
「俺、これ、一人で書けないかもしれません」
「うん」
「俺のことを書こうとしたら、ルシアの話になる」
「うん」
「だから」
「だから?」
俺は、息を、一回、吸った。
「俺たちのことを、一緒に、書きませんか」
彼女は、少しの間、何も言わなかった。
俺は、彼女を、見ていた。
彼女は、テーブルを、見ていた。
何かを、考えている顔だった。
俺は、自分が、今、何を提案したか、考え直した。
「一緒に書く」というのは、たぶん、これまでの「待つ」「お互いに気持ちを言葉にする」と、似ているけど、違うことだった。
書くというのは、形に残る。残った形は、後から、見られる。たぶん、何度も。
そういうものを、二人で作る、というのは、これまでの距離感と、違う距離感だった。
彼女は、それを、たぶん、考えていた。
だから、すぐに、答えなかった。
俺は、待った。
彼女が、ちゃんと、考えてくれている時間を、待つ。
たぶん、それが、いちばん、大事なことだった。
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しばらくして、彼女が顔を上げた。
「一緒に、書く」
「うん」
「私も、書くんですか」
「うん」
「私、文章は、書いたことないです」
「俺もないです、ほとんど」
彼女は、少し笑った。
「お互いに、初心者」
「うん」
彼女は、また、しばらく、考えた。
「ユウさんが、私のことを、書こうとして、止まった」と彼女は言った。
「うん」
「私の話を、勝手に書きたくない、って思ったんですよね」
「うん」
「だから、私に、一緒に書こう、って」
「うん」
彼女は、何度か、うなずいた。
「いい気がする」と彼女は言った。
俺は、少し、息を吐いた。
「ほんとに?」
「うん。むしろ、一人で背負わせるの、ちゃう気がする」
関西弁が、少し、出ていた。
「一緒に書く方が、たぶん、私たちの話を、ちゃんと、書ける」
「うん」
「私一人でも、ユウさん一人でも、たぶん、半分しか書けない。二人で書けば、両方の半分が、合わせて、ひとつになる」
俺はうなずいた。
「一緒に書きます」と彼女は言った。
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「形は、どうしますか」と俺は聞いた。
「形」
「うん。二人で書く、って、どう書くんですか」
「うーん」と彼女は少し考えた。
「交互に書く、というのは、ありかも」
「交互」
「うん。ユウさんが一段落、書いたら、私が一段落、書く。それを、繰り返す」
「うん」
「会話、みたいに」
「会話」
「うん。配信で、リスナーと会話するみたいに、書く側と、書かれる側が、入れ替わる」
俺は、少し考えた。
「いいですね、それ」
「うん」
彼女は、少し、笑った。
「明日から、始めますか」
「明日から、いいです」
「うん」
彼女は、立ち上がった。緑茶を、淹れてくれた。
俺たちは、二人で、お茶を、飲んだ。
昼の光が、テーブルの上で、ゆっくりと、広がっていた。
新しい形の何かが、明日から、始まる。
「俺の話」じゃなく、「俺たちの話」。
書く相手は、知らない誰か、と、お互い同士、両方。
難しい、と思った。
でも、難しいことを、彼女と、一緒に、やってきた。
だから、たぶん、できる。
そう、信じることにした。
彼女が、緑茶を、もう一口、飲んだ。
「ユウさん」
「はい」
「最初の一文は、ユウさんが、もう書いてくれた、あれですね」
「あれ」
「『俺の感情は、いつも、三日遅れて届く。』」
俺は少し驚いた。彼女がそれを覚えていた。「見ない」と決めていたはずなのに。
「見たんですか」
「見ました。一回だけ」
彼女は少し、悪戯っぽく笑った。
「ごめんなさい」と彼女は言った。「気になっちゃって」
「いえ」
「いい一文だと思います」
「そうですか」
「うん。それで始まる物語、続き、書いていきましょう」
俺はうなずいた。
「明日からですね」
「明日から」
彼女は、もう一度、お茶を、飲んだ。
光が、テーブルの上で、少しずつ、傾いていた。
午後が、新しい、二人の午後が、始まろうとしていた。
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