第27話「土曜日の昼、彼女は俺に手紙を託そうとした」
土曜日の朝、目が覚めた。
ルシアは台所にいた。卵焼きを作っていた。今日も鼻歌を歌っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
彼女は振り向いた。少し首を傾けた。
「ユウさん、今日、なんか、決めた顔してます」
「そうですか」
「うん」
「決めました」
「そうですか」
彼女はそれ以上、聞かなかった。
待つ、という関係は、今も続いていた。彼女は俺が「決めた」と言ったら、それ以上踏み込まない。話すタイミングを、待ってくれる。
でも、今日は、たぶん、出かける前に、少しだけ伝えた方がよかった。
「ルシア」
「はい」
「お昼前に、出ます」
「コンビニ?」
「コンビニ、と」
「と?」
「あのカフェに、寄ろうかと」
彼女は卵焼きを巻く手を、少し止めた。
「橘さん、ですよね」
「うん」
「話、しに行くんですか」
「うん。話してきます」
彼女は少しの間、何も言わなかった。卵焼きを皿に盛って、テーブルに座った。
「気をつけてください」と彼女は言った。
「はい」
「もし、何かあったら」
「あったら」
「無理しないで、戻ってきてください」
「うん」
「私、ここにいます。家で、待ってます」
彼女が「家」と言った。
俺はうなずいた。
帰る場所が、ある。
それだけで、出かける足が、軽かった。
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朝食を食べた。
卵焼きと味噌汁。今日はおにぎりも作ってくれた。「コンビニで何か買うより、家のおにぎりの方がいい」と彼女は言った。
「ありがとうございます」
「うん」
「美味しいです」
「うん」
何でもない朝食の会話。でも、その下に、たぶん、いつもより重い何かがあった。
彼女も、たぶん、緊張していた。でも、それを表に出さなかった。
俺が決めて、行く。彼女は、家で、待つ。
お互いに、役割を、果たしていた。
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十一時、家を出た。
いつもの道を歩いた。
空気は、昨日より少し肌寒かった。春は来ているけど、まだ、安定していなかった。
あのカフェの前に、着いた。
窓越しに、ナナミが見えた。
彼女は今日も、シフトに入っていた。客は、二人くらいだった。土曜日の昼の少し前。混む前の時間。
俺は、ドアを開けた。
ベルが鳴った。ナナミが顔を上げた。
俺を見て、少し驚いた顔をした。それから、すぐに、嬉しそうな顔になった。
「白瀬くん」
「来ました」
「来てくれた」
「うん」
彼女は嬉しそうに笑った。でも、その嬉しさの中に、たぶん、何かを「待っていた」感じが、含まれていた。
「コーヒー?」
「お願いします」
俺はいつもの窓際の席に座った。
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コーヒーが来た。
「座っていい?」
「どうぞ」
彼女は向かいに座った。
俺は、最初、何を切り出していいか、わからなかった。
でも、彼女の方が、先に言った。
「来てくれて、ありがとう」と彼女は言った。
「うん」
「実は、ずっと、白瀬くんに話したいことがあって」
「うん」
彼女は俺の目をじっと見た。
「白瀬くん」
「うん」
「ひとつ、お願いしてもいい?」
俺は少し息を止めた。
「お願い」
「うん。変なお願い、かもしれないけど」
「言ってみてください」
彼女は少し迷ったような顔をした。
それから、ゆっくり、言った。
「もし、白瀬くんが、Lulu=Luciaを知ってる人だったら」
俺は何も言わなかった。
彼女は続けた。
「ひとつだけ、伝えてほしいことが、あって」
「俺が、その人を知ってる、って、決まってないですけど」
「うん。決まってない」
「それでも、お願いする?」
「うん。もし、知ってたら、でいいから」
彼女の声は、慎重だった。
彼女は、たぶん、確信していた。俺がルシアを知っている、と。でも、それを直接、口に出して聞かなかった。
「もし知ってたら」というクッションを、入れていた。
俺の答えを、追い詰めない、彼女なりの配慮だった。
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俺は、しばらく黙っていた。
コーヒーを一口飲んだ。
彼女が、何を頼むつもりか、まだ、わからなかった。
でも、聞かないと、進まなかった。
「何を、伝えたいんですか」と俺は聞いた。
彼女は少しの間、考えた。
それから、言った。
「ありがとう、って」
「ありがとう」
「うん。ただ、ありがとう、って」
俺は何も言えなかった。
「会いたいわけじゃないんです」と彼女は続けた。「会ったら、たぶん、彼女に迷惑かける。感情共有が苦手って、知ってるから」
「うん」
「だから、会わない。私は、見つけにいかない」
「うん」
「でも、ありがとう、だけは、もし、もしどこかに彼女がいるなら、届けたい」
「届けたい」
「うん」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
それから、続けた。
「引退ライブで、抽選で、キーホルダーが当たった日、私、運営に手紙を同封してもらいました」
「手紙」
「うん。彼女に、届くかわからない手紙。三年間ありがとう、って書いた手紙」
「うん」
「届いたかどうか、わからない。たぶん、何百通もの手紙が来てたから、彼女が全部読めたとは思わない」
「うん」
「だから、もし、もう一度、彼女に伝えるチャンスがあるなら、自分の口で、伝えたい」
「会いには行かないけど」
「うん。会いに行かない。誰かに、託す」
彼女は俺をじっと見た。
「白瀬くん」と彼女は言った。「託してもいい?」
俺は何も言えなかった。
「変な話ですよね」と彼女は言った。「会わずに、誰かに託す、なんて」
「いえ」
「私もね、最初は、こんなこと思ってなかったんです」
「うん」
「キーホルダーが当たった日、ほんとは、彼女に会えるなら会いたかった。直接『ありがとう』って言いたかった。引退ライブの後、抽選で当たった人だけが集まる、小さい会があったらいいのに、って思ってた」
「うん」
「でも、ない。ファンと配信者の距離って、そういうものだから」
「うん」
「だから、ずっと、心の中で『ありがとう』を抱えたまま、生きてた。三年間応援した分の『ありがとう』を、どこにも届けられないまま」
「うん」
「重い荷物だった」
俺は何も言わなかった。
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「俺は」と俺は言った。「俺は、その人を知らないかもしれないですよ」
「うん」
「託しても、無駄かもしれない」
「うん」
「それでも、託すんですか」
「うん」
彼女は少し笑った。
「託したい」と彼女は言った。「無駄でもいい」
「なんで」
「私の中で、けじめがつくから」
「けじめ」
「うん。引退してから、彼女のこと、ずっと考えてた。会えないのに、考え続けるのは、苦しい。だから、誰かに『ありがとう』を渡して、それで、終わりにしたい」
「終わり」
「うん。彼女のことを、好きでいたまま、終わりにしたい」
俺は何も言えなかった。
彼女が、ファンとして、ルシアのことを「卒業」しようとしていた。
会いに行かない。声をかけない。でも、最後に、ありがとう、だけは、伝えたい。
たぶん、いちばん、誠実なファンの愛し方だった。
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俺は少しの間、考えた。
「わかりました」と俺は言った。
「託せる?」
「託せます」
「知らないかもしれないけど?」
「知らないかもしれない。でも、もし、いつか、その人に会ったら、伝えます」
彼女は少しだけ、笑った。今日の中で、いちばん、自然な笑い方だった。
「ありがとう、って、伝えてください」と彼女は言った。「『あのカフェの紅茶が好き、って言ってた、橘ナナミから』って」
「橘ナナミ」
「うん。フルネームで、伝えてほしい」
俺はうなずいた。
「あと、ひとつだけ、いいですか」と俺は聞いた。
「うん」
「『moutaichi_92』って、橘さんの、昔のアカウントですか」
彼女は少し驚いた顔をした。
「気づいた?」
「最近、配信のリスナーに、その名前が」
「あ。見られちゃってたか」
彼女は少し笑った。
「『もう、待ちすぎた』って意味」と彼女は言った。「三年間、ずっと応援してて、もう、待ちすぎちゃった、って」
「うん」
「彼女の引退で、待つことも、終わりかなって思って。一度、消したアカウント。でも、別の小さい配信を見つけて、もしかして、ってなって、別アカウントで、また見始めた」
「うん」
「ばれちゃったね」
「ばれちゃいました」
彼女は少し笑った。
「でも、配信、邪魔したくないから、コメントはしない。ただ、見るだけ」
「うん」
「それも、伝えてください。『邪魔しません』って」
俺はうなずいた。
「伝えます」
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会計をして、店を出た。
「来てくれて、ありがとう」とナナミは言った。
「うん」
「これで、たぶん、もう、私、しつこくしないから」
「うん」
「白瀬くんも、無理して、カフェに来なくていい」
「うん」
「気が向いたら、で」
「気が向いたら」
俺は少し笑った。
彼女は手を振った。俺も手を振り返した。
アパートの方に、歩き出した。
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歩きながら、頭の中で、彼女の言葉が回っていた。
「ありがとう、って、伝えてください」
たった一言。
でも、その一言の中に、三年間の何かが、入っていた。
ルシアに、これを、伝えるべきか。
「伝える」と俺は約束した。だから、たぶん、伝える。
でも、伝えたら、ルシアは、たぶん、泣く。
彼女が、自分のファンだった人の「ありがとう」を、リアルタイムで受け取る。それは、彼女にとって、たぶん、重い体験になる。
でも、彼女は、知っている。ナナミが、近くにいることを。
だから、ナナミの「ありがとう」を伝えないのは、たぶん、ルシアにも失礼だった。
伝える。
でも、伝え方を、考えないといけない。
アパートが見えてきた。
彼女が、家で、待っていた。
帰る。
「ありがとう」を持って、帰る。
それが、今日の俺の役目だった。
アパートのドアの前に、立った。
鍵を開ける前に、一度、深呼吸をした。
彼女に、これから、ナナミのメッセージを伝える。
「ありがとう」という、たった一言。でも、たった一言だから、伝え方が、大事だった。
急いで伝えない。
落ち着いてから、伝える。
彼女のペースで、受け取れるように、伝える。
そう決めて、鍵を開けた。
ドアを開けると、彼女が、本を読んで、待っていた。
「おかえりなさい」と彼女は言った。
「ただいま」と俺は言った。
彼女の顔を見て、伝える時が、たぶん、もう、すぐ近くまで来ていることを、感じていた。
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