第25話「木曜日の朝、彼女は俺の家を『家』と呼んだ」
木曜日の朝、目が覚めた。
ルシアはまだ眠っていた。今日もいつもより少し長く眠っていた。昨日、東京に行った疲れが、まだ残っているのかもしれなかった。
俺は布団から起き上がって、台所に行った。
お湯を沸かして、お茶を二人分淹れた。彼女が起きたら、すぐに飲めるように。
テーブルに座って、待った。
待つ、というのは、最近、本当によくする動作だった。
でも、待っている時間が、苦痛じゃなくなっていた。むしろ、その時間自体に、何か意味がある気がした。
しばらくして、ルシアが起きてきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「お茶、淹れました」
「ありがとうございます」
彼女は俺の向かいに座って、お茶を一口飲んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
彼女は俺の顔を見た。少し首を傾けた。
「話、ありますよね」
「あります」
「いつ、話しますか」
「朝食の後で、いいですか」
「うん」
「先に、食べましょう」
「うん」
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朝食を食べた。卵焼きと味噌汁。今日はサラダも作った。レタスとトマトとキュウリ。
食べながら、俺はずっと考えていた。話す順番、言葉の選び方、何から始めるか。
でも、考えれば考えるほど、難しくなった。
だから、考えるのをやめた。
話し始めれば、たぶん、出てくる。
食べ終わって、皿を片付けた。ルシアと一緒に。今日は二人で洗った。俺が洗って、彼女が拭いた。
それからソファに座った。並んで座った。少し距離をとって。話しやすい距離。
彼女は俺の方を向いた。
「話、聞きます」
「うん」
俺は息を吸った。
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「昨日、カナタさんに、言われたことです」
「うん」
「『あなた自身が、ルシアと一緒にいることで、何かを取り戻している』って」
「うん。横で、聞いてました」
「ちゃんと聞いてたんですね」
「うん。気になったので」
俺は少し笑った。彼女もたぶん、気になっていた。お互いに。
「俺、最初、その意味が、全部はわからなかったです」と俺は続けた。「俺がルシアを救う側だ、って、ずっと思ってたから」
「うん」
「でも、家に帰る電車の中で、考え始めて。家に着いて、寝る前にも考えて。今朝、起きて、お茶を飲みながら、また考えて」
「うん」
「整理できたこと、話します」
彼女はうなずいた。
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「俺、ルシアが来る前は、一人で泣くことが多かったです」
「うん」
「映画を見ても、隣で泣いてる人の気持ちがわからない。文化祭で盛り上がってるクラスメートの中で、一人だけぼんやりしてる。三日後に廊下で一人テンションが上がって、変な人になる」
彼女は少し笑った。
「そういう毎日でした」と俺は続けた。「友達はいたけど、深い友達はいなかった。みんなと『同じ瞬間に同じ感情を共有する』ことが、できなかったから」
「うん」
「ずっと、一人でいることに、慣れていました」
「慣れていた」と彼女は繰り返した。
「うん。慣れていた、というか、それしか選択肢がなかった」
彼女は何も言わなかった。聞いていた。
「でも」と俺は言った。「ルシアが来てから、変わったんです」
「うん」
「あなたは、俺と『同じ瞬間に同じ感情を共有』しようとしなかった。最初から、できないとわかっていたから」
「うん」
「代わりに、待ってくれた。俺の感情が三日後に来るのを、一緒に待ってくれた」
「うん」
「俺の人生で初めて、誰かが、俺の『三日後』を、一緒に待ってくれた」
彼女の目が、少しだけ動いた。
「それが、たぶん、大きかったです」と俺は続けた。「気分を聞かれる。今日のうどん、何の具にしますか、って。そういう、なんでもない会話。でも俺にとっては、大きかった」
「うん」
「ルシアが来てから、一人で泣く回数が、減りました」
「そうなんですか」
「うん。三日後の感情が来ても、隣にあなたがいた。『来てます?』って聞いてくれる人がいた」
俺は彼女を見た。
「それは、たぶん、『救われている』と言っていいことだったんだと思います」
彼女は何も言わなかった。
でも、目が、少し赤くなった気がした。
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「もうひとつ」と俺は続けた。
「うん」
「気づいたこと、あります」
「うん」
「俺の体質、ずっと『欠陥』だと思ってました。感情が三日遅れる。普通の人と『同じ瞬間』を共有できない。マイナスでしかない、と」
「うん」
「でも、もしかしたら、これは別のもの、なのかもしれない」
「別のもの」
「『ゆっくり考える時間が、強制的に与えられる』体質。三日かけて、感情を確かめる。それが、俺の生き方だった」
彼女は黙っていた。
「そして」と俺は言った。「あなたと、似てるかもしれない」
「似てる?」
「あなたも、自分の感情を確かめるのに、時間がかかる人。『自分のなのか誰かのものなのか、わからない』って言ってましたよね」
「うん」
「俺たちは、似ているんです。お互いに『確かめるのに時間がかかる人間』同士で。だから、お互いを待てた。相手が時間をかけることの意味を、わかっていたから」
彼女は少しの間、何も言わなかった。
お茶を一口飲んだ。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
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「ユウさん」
「はい」
「私、ずっと、自分は壊れた人間だと思ってました」
俺は黙って、聞いた。
「他の人と同じように、感情を共有できない。リアルタイムで自分の感情がわからない。みんなが普通にできることが、私にはできない」
「うん」
「だから、壊れてる、って」
「うん」
「でも、今、ユウさんの話を聞いて、思ったんです」
彼女は俺をじっと見た。
「私は、壊れたんじゃなくて、時間が違うだけ、なのかも」
俺は少しの間、息を止めた気がした。
「時間が違うだけ」と彼女は繰り返した。「人より、ゆっくり、感情を確かめる。それは、壊れてるんじゃなくて、ただ、時間軸が違うんです」
「うん」
「壊れてる、と思うと、治さないといけない。でも、時間が違うだけなら、治さなくていい」
彼女は少し笑った。
「自分のままで、いいんだ、って思いました」
俺は何も言えなかった。
彼女が、今、新しいことに気づいていた。
俺の整理が、彼女の整理に、繋がっていた。
お互いに、お互いを、整理し合っていた。
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しばらく、二人とも黙っていた。
彼女がお茶を飲んだ。俺もお茶を飲んだ。
「ユウさん」
「はい」
「ひとつだけ、今、言えそうな言葉があります」
「うん」
彼女は少しの間、何かを確かめるみたいに、目を閉じた。
そして、開いて、言った。
「『好き』は、まだ言えないです」
「うん」
「でも」
「でも」
「『あなたのいる場所が、私の家です』とは、言える気がします」
俺は何も言えなかった。
彼女が言った言葉が、今、俺の中で、止まらないまま、動いていた。
名前は、つかなかった。たぶん、つける必要もなかった。
ただ、温かい、何か、だった。
「家」という言葉が、彼女から出てきたことが、今、いちばん大きかった。
彼女には実家もあるはずだった。一度も話に出ないけど、どこかにあるはず。ルシアの本名で、ルシアが育った場所が、たぶん、ある。
でも、彼女が「家」と呼んだのは、俺の部屋だった。狭い六畳の、台所と寝るスペースだけの部屋。
それを彼女は、家、と呼んだ。
俺の部屋を、家にしたい、と彼女は言っていた。たぶん、すでに、彼女の中ではそうだった。
俺の部屋が、彼女の家になっていた。
俺一人の部屋じゃなくなっていた。
そのことが、たぶん、今朝の整理の、最後の答えだった。
「ありがとうございます」と俺は言った。
いつもの「ありがとう」じゃなかった。俺から、初めて、自然に出た「ありがとう」だった。
彼女は少し笑った。
「私も、初めて、ユウさんから自然な『ありがとう』が出たの、嬉しいです」
俺も少し笑った。
お互いに、「ありがとう」を、覚えていた。
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しばらくして、ルシアが立ち上がった。
「ユウさん」
「はい」
「家、出ましょうか」
俺は少し驚いた。
「え」
「散歩でも」
「うん」
「桜、咲き始めてました。電車で見ました、昨日」
桜。
彼女が来た時は、まだ冬だった。寒くて、毛布を巻きつけて寝ていた。
いつの間にか、季節が、変わっていた。
「行きます」と俺は言った。
「うん」
彼女はフードを浅めに被った。俺は普通の服で出た。
アパートの階段を下りた。
外は、少し暖かかった。
近くの公園まで、二人で歩いた。
公園には、桜の木があった。まだ満開ではなかった。三分咲きくらい。でも、確かに、咲き始めていた。
彼女は少しの間、桜を見上げた。
「綺麗ですね」と彼女は言った。
そして、少し小さい声で、続けた。
「ほんま、綺麗やわ」
関西弁が、ぽつりと、出た。
「綺麗です」と俺も言った。
最近、彼女の関西弁が、増えていた。
最初の頃は、「事故」みたいに、たまに出るだけだった。出るたびに「すみません、つい」と謝っていた。
でも最近は、謝らなくなった。自然に、混ざるようになっていた。
たぶん、それは、彼女が、少しずつ、自分を取り戻している、いちばんわかりやすい印だった。
俺たちは、桜の下で、しばらく立っていた。
「冬に来たの、覚えてますか」と彼女が言った。
「覚えてます」
「あの時、外の空気が、痛かったです。皮膚に、寒さがちくちく刺さって。それと、街の人の感情のノイズも、寒さに混ざって、痛かった」
「うん」
「今日、外の空気、痛くないです」
「うん」
「暖かいから、というのもあるけど」と彼女は続けた。「街の人の感情も、前ほど痛くない気がします」
「ノイズに、慣れた」
「慣れた、というか、自分の中に、もう少し、自分の場所ができたから、たぶん」
「自分の場所」
「うん。ユウさんの部屋で、私、少しずつ自分の場所を、作ってきました。それが、今、少しだけ、外でも、続いてる気がする」
俺は何も言わなかった。
桜の花びらが、一枚、彼女の肩に落ちた。
彼女は気づいて、それを摘んで、手のひらに乗せた。
「お土産」と彼女は言って、また少し笑った。
俺も少し笑った。
何も話さなかった。話さなくても、大丈夫だった。
お互いに、新しい場所に立っていた。
たぶん三日後、俺はこの瞬間を思い出して、もう一度、何かを受け取る。
でも、今日の俺にも、少しは届いていた。
桜の下に、彼女と立っている。
冬に来た人と、春の桜の下に、立っている。
半年探されて、ようやく見つかった人と、何ヶ月か一緒に暮らして、今、桜の下にいる。
それだけで、今日は、充分だった。
季節が、たぶん、これからも、二人で並んだまま、いつもの俺たちのペースで、ゆっくりと、動いていく。それで、いい。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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