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第23話「火曜日の午後、彼女の同期は俺の中身を読もうとした」



 月曜日、ルシアは少しソワソワしていた。


 明日が、カナタに会いに行く日だった。彼女は朝、カレンダーを何度も見ていた。火曜日のところに、何か印をつけていた。配信もいつもより短かった。


 「緊張してますか」と俺は聞いた。


 「してます」


 「俺もです」


 「ユウさんも?」


 「会ったことない人に会うのは、いつも緊張するので」


 彼女は少し笑った。


 夜、寝る前に、彼女が言った。


 「明日、十一時くらいに出ます」


 「電車で行くんですか」


 「うん。一時間くらいかかります」


 「遠いんですね」


 「カナタさん、東京の方に住んでるので」


 「カナタさん」


 「あの人の名前です」


 彼女が「あの人」の名前を、初めて口にした。鏡宮かがみやカナタ、と彼女は教えてくれた。


 「カナタさん」と俺はもう一度、口の中で言ってみた。


 「うん」


 「明日、お会いします」


 「うん」


-----


 火曜日の朝、目が覚めた。


 いつもより早く起きた。ルシアももう起きていた。


 「卵焼き、作りますか」と俺は聞いた。


 「うん。最後にちゃんとした朝ごはん、食べておきたいので」


 「最後?」


 「今日は、たぶん、忙しいので」


 「うん」


 卵焼きと、味噌汁と、サラダ。いつも通りの朝食だった。


 でも、今日は、いつも通りじゃなかった。


 十一時。


 俺たちは家を出た。


 ルシアはフードを被っていた。俺は普通の格好だった。電車の中で、彼女は少し肩を縮めていた。「人多いです」と小さく言った。「うん」と俺は答えた。


 彼女の隣に座った。なんとなく、隣にいた方が、彼女が落ち着く気がした。


 「ユウさん」


 「はい」


 「今日、ありがとうございます」


 「うん」


 「一緒に来てくれて」


 「うん」


 彼女は窓の外を見た。電車が走っていた。景色が流れていった。


-----


 東京駅で降りた。


 カナタの指定したカフェは、駅から徒歩五分くらいの場所だった。少し古い、隠れ家っぽいカフェ。観光客は来ないような場所だった。


 「ここ」とルシアが言った。


 「うん」


 ドアを開けた。中は薄暗くて、静かだった。客は少なかった。


 奥のテーブルに、一人で座っている女性がいた。


 俺たちに気づいて、立ち上がった。


 「ルシア」


 「カナタさん」


 二人は少し笑った。何ヶ月かぶり、と聞いていた。彼女たちにとって、たぶん、再会だった。


 俺は、その横に立って、見ていた。


 カナタは、二十代後半くらいに見えた。少し背が高い。長い髪を一つにまとめていた。眼鏡をかけていた。優しそうな顔をしていた。


 でも、目が、少し違った。


 彼女が俺を見た瞬間、何かを「測る」みたいな目になった。優しいけど、警戒も含んでいる目。


 「初めまして」と彼女は言った。「鏡宮カナタです」


 「白瀬ユウです」


 握手はしなかった。彼女はそういうタイプじゃないらしかった。


 俺たちは席に着いた。ルシアと俺が並んで座って、向かいにカナタが座った。


-----


 カナタは、まず、ルシアに話しかけた。


 「元気にしてた?」


 「うん。元気にしてた」


 「顔色、前より、ちょっと、いい」


 「そう?」


 「うん。前会った時より、落ち着いてる」


 ルシアは少し笑った。


 カナタは、それから俺の方を見た。


 「あなたが、感情同期に反応しない人」


 「はい」


 「噂は聞いてました」


 「そうみたいですね」


 彼女は少しの間、俺を見ていた。


 何かを読もうとしていた。でも、ルシアと同じで、読めていない顔。


 「不思議ね」と彼女は言った。「目の前にいるのに、感情の流れがない」


 「俺は慣れてます」


 「私は慣れてない」


 「すみません」


 「謝らないで。これは、たぶん、貴重な感覚だから」


 彼女は少し笑った。


-----


 しばらく、三人で何でもない話をした。


 最近の天気のこと、東京の街のこと、コンビニの新商品のこと。何でもない話。でも、その中で、カナタは時々、俺をちらっと見た。


 会話が、少しずつ、関西弁混じりになっていった。「あれ、ほんまにあったわ」「えー、知らんかったわー」「やんなあ」。二人とも、たぶん、同じ事務所の頃に、似たような話し方をしていたんだろう。同期と話す時の、自然な距離感だった。


 俺は、その関西弁の混ざる会話を、隣で聞いていた。


 ルシアの普段のしゃべり方より、ずっと、関西弁が多かった。本当の彼女の話し方は、たぶん、こっちなんだろう。


 「カナタさんは」と俺は聞いた。


 「うん」


 「ルシアと同じ事務所だったんですか」


 「うん。同期。同じ年にデビューした」


 「そうなんですね」


 「私も、感情同期を強く受信する体質。ルシアと同じ」


 俺は少し驚いた。


 「同じ体質」


 「うん。レベルは違うけど。ルシアの方が私より、はるかに強かった」


 「強い、というのは」


 「私は、何百人くらいまでは耐えられる。それ以上来ると、危ない。ルシアは何十万人を抱えても、最初の頃は持ってた。でも、最後は持たなくなった」


 俺は何も言わなかった。


 「だから」とカナタは続けた。「ルシアが倒れた時、私、たぶん、誰よりも怖かった」


 「怖かった」


 「私もいつか、同じように壊れるって、知ってるから」


 俺は少し息を止めた。


 ルシアの方を見た。ルシアは静かに、お茶を飲んでいた。話を聞いていた。でも、たぶん、ずっと前から知っていた話だった。


 カナタは続けた。


 「私、まだ配信を続けてます。今もリスナー、二万人くらい。ルシアの全盛期に比べたら全然小さいけど、でも、それでも、たまに危ない瞬間があります」


 「危ない、というのは」


 「リスナーの感情が、一気に来る時。誰かが何かでバズって、視聴者数が普段より一万人多くなった時とか、そういう時に、私の中で何かがあふれそうになる」


 「うん」


 「その時、ルシアの引退の日のことを、思い出します」


 彼女は少しの間、黙った。


 「だから、心配してた。今も、心配してる。だから、相談に来てくれて、嬉しい」


 「カナタさん」とルシアが言った。


 「うん」


 「今日、もう少し、続き、話したいです」


 「うん」


 「でも、その前に」


 ルシアは俺の方を見た。


 「カナタさん、ユウさんと、少し話してくれますか」


 「私が?」


 「うん。私、トイレに行ってくる」


 ルシアは立ち上がった。カナタは少し驚いた顔をした。それから、笑った。


 「了解」


 ルシアは奥に行った。


 俺とカナタが、テーブルに残された。


-----


 しばらく、二人とも黙っていた。


 カナタは、お茶を一口飲んだ。


 「白瀬さん」と彼女は言った。


 「はい」


 「ルシアから、話は聞いてます。あなたのこと」


 「うん」


 「『自分を取り戻させてくれた人』って言ってました」


 「そうですか」


 「あなた、本人は、どう思ってますか」


 俺は少し考えた。


 「ルシアが、自分で取り戻した、と思ってます」


 「自分で」


 「俺は、隣にいるだけです。彼女が、自分で、自分の感情を確かめてきた」


 「そう」


 カナタは少し笑った。


 「ルシアと、同じこと、言いますね」


 「同じこと?」


 「『相手が自分で頑張った』って、二人とも言う」


 俺は少し驚いた。


 「ルシアも、それを言ったんですか」


 「言いました。『ユウさんが、私を信じて待ってくれたから、自分で動けた』って」


 俺は何も言えなかった。


 彼女が、俺の知らないところで、俺のことを、そう話していた。


-----


 カナタは少しの間、俺を見ていた。


 「白瀬さん」


 「はい」


 「あなた、たぶん、自分のことを、よく分かってないですね」


 俺は少し戸惑った。


 「自分のこと」


 「ルシアの『救い手』として、自分を見てる」


 「うん」


 「でも、たぶん、それだけじゃない」


 「それだけじゃない」


 「あなた自身が、ルシアと一緒にいることで、何かを取り戻している。それに、まだ気づいてない」


 俺は何も言えなかった。


 彼女の目は、優しかった。でも、鋭かった。


 「感情が三日遅れる体質、と言いましたよね」


 「はい」


 「ずっと一人で生きてきた」


 「はい」


 「その『一人』が、今、変わってきてる」


 俺は少しの間、何も言えなかった。


 「気づいてました?」と彼女は聞いた。


 「……気づいてなかったです」


 「やっぱり」


 彼女は少し笑った。


 「ルシアと、似てるんですよ、あなたたち。お互いに、相手を救ってるつもりで、自分も救われてる」


 「そんな大層な」


 「大層なんです。お互いにそれを認めないと、たぶん、長く続かないですよ」


 俺は何も言わなかった。


 でも、彼女が言ったことは、たぶん、正しかった。


 俺は、ルシアを「救う」側だと思っていた。でも、たぶん、違った。彼女がここに来てから、俺は、誰かと暮らすことを、少しずつ覚えていた。一人で泣くことが、減っていた。誰かに「気分」を聞かれることが、嬉しかった。


 俺もたぶん、取り戻していた。


 何かを。


-----


 ルシアが戻ってきた。


 「お待たせしました」


 「うん」


 「何か、話しましたか」


 俺は少し考えた。


 「大事な話を、聞きました」


 「そうですか」


 彼女は少しの間、俺の顔を見た。


 「いい顔になってますね」


 「そうですか」


 「うん」


 カナタが、ニヤッとした。


 「ルシアの言う通り。あなた、今、いい顔してます」


 俺は何も言えなかった。


 でも、たぶん、少しだけ、自分が変わった気がした。


 カナタが言ったことを、まだ全部は飲み込めていない。でも、頭の中に、はっきりと、残っていた。


 「お互いに、相手を救ってるつもりで、自分も救われてる」


 たぶん三日後の俺は、この言葉を思い出して、もっとはっきり、自分のことを考える。


 今日の俺には、まだ全部は来ていない。


 でも、少しだけ、来ていた。


 帰りの電車で、ルシアの隣に座った。


 彼女はフードを浅めに被って、窓の外を見ていた。来た時より、少し肩の力が抜けていた。


 「カナタさん、優しい人ですね」と俺は言った。


 「うん。優しいです」


 「ルシアのこと、大事に思ってます」


 「うん。私も、カナタさんのこと、大事です」


 「うん」


 しばらく、二人とも黙っていた。電車が走っていた。


 「ユウさん」


 「はい」


 「カナタさん、何を話したんですか」


 俺は少し考えた。


 「俺のことを、教えてくれました」


 「俺のこと?」


 「うん。俺が知らない、俺のこと」


 彼女は少し首を傾けた。


 「どんなこと?」


 「全部、整理してから話します」


 彼女は少し笑った。


 「私と、逆ですね」


 「逆?」


 「私、ユウさんに、整理してから話すって、言いました。今度はユウさんの番ですね」


 俺も少し笑った。


 「うん」


 「待ちます」と彼女は言った。


 「うん」


 待ちます、と今日も彼女が言った。


 俺も、彼女のことを、まだ待っていた。


 お互いに、待ち合っていた。


 それが、今の俺たちの距離だった。


 悪くない距離だ、と思った。少しだけ近づいた、新しい形の距離だった。二人で並んで、お互いを待ち合う。今日からは、そういう距離になるんだろう、と思った。

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