第8話 静かな距離(美月視点)
その日の午後は、ずっと落ち着かなかった。
食堂での出来事が、何度も頭の中で再生される。
倒れた学生。
集まる人だかり。
張り詰めた空気。
そして――
迷いなく動いていた、神崎くんの背中。
「ねえ、美月」
実習前、更衣室で声をかけられる。
「さっき聞いたんだけどさ、あの食堂の救命、医学生がやったんでしょ?」
「うん……そう」
「六年生らしいよ。すごく落ち着いてたって」
友達は興奮気味だった。
「名前、知ってる?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……神崎くん」
「へえ。知り合い?」
「幼馴染」
「えっ!?」
声が裏返る。
「すごくない? 映画みたい」
そう言われて、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
でも、それと同時に――
言葉にできない違和感があった。
(……同じ学生、だよね)
そう思おうとして、思えない。
神崎くんは、昔から少しだけ先を歩いていた。
でも、今日見た姿は、
“少し”なんて距離じゃなかった。
実習が終わったのは、夕方近く。
着替えを終えて外に出ると、
廊下の先に、見慣れた背中があった。
「神崎くん」
声をかけると、振り返る。
「ああ。お疲れ」
それだけ。
特別な言葉も、得意げな様子もない。
少し拍子抜けするくらい、いつも通りだった。
「……今から、帰る?」
「いや、調べ物があるから少し残る」
「そうなんだ」
それだけで会話が途切れる。
一緒に歩き始めたものの、なんとなく、間に沈黙が落ちる。
以前なら、こんな空気はなかった。
(気にしすぎ、かな)
そう思っても、胸の奥がざわつく。
「ねえ」
歩きながら、意を決して聞いた。
「今日のこと……大丈夫?」
「?」
「その……疲れてない?」
神崎くんは少し考えてから、答えた。
「大丈夫だ」
短いけど、優しい声。
「美月は?」
「私は……ちょっとだけ」
本当は、かなり。
走った後の動悸も、
緊張が抜けた反動も。
でも、なぜか言えなかった。
「どこか、座るか」
「……うん」
病院の片隅にある、静かなベンチ。
夕方の光が、床に長い影を落としている。
並んで腰を下ろすと、さっきまでのざわざわが嘘みたいに静かだった。
「ありがとうね」
ふと、口をついて出た。
「さっき」
「……何が?」
「全部」
神崎くんは、何も言わない。
でも、立ち上がって自販機へ向かい、水を一本買って戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
受け取って、一口飲む。
冷たい水が、喉を通る。
「神崎くんって」
少し迷ってから、言う。
「昔から、こうだったっけ」
「どういう意味だ」
「……私が何も言わなくても、察するっていうか」
言葉を選びながら、続ける。
「頼りになる、っていうか」
一瞬、沈黙。
神崎くんは、視線を前に向けたまま答えた。
「そうか」
それだけ。
でも、不思議と寂しくなかった。
むしろ――
胸の奥が、静かに温かくなる。
(ああ)
(私、今)
理由もなく、この時間が終わってほしくないと思っている。
横にいるのが、神崎くんだから?
「ねえ」
「ん」
「また、こうして話せる?」
問いかけると、少しだけ間があった。
それから、神崎くんは頷く。
「もちろん」
その一言で、胸が軽くなる。
同時に、少し怖くもなった。
(……この人)
(どこまで行っちゃうんだろう)
でも。
今はまだ、考えないことにする。
夕暮れの病院で、隣に座っていること。
それだけで、十分だった。
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