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五十二歳救命医、医学部六年に戻る ――救えなかった恋人を、今度こそ救うために  作者: 猫又ノ猫助
医学生編

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7話 教授の一声

 食堂に残っていたざわめきは、少しずつ静まっていった。




 救急隊が去り、倒れていた学生の姿もない。




 ただ、床に残った椅子の乱れだけが、さっきまでの出来事を物語っている。




 俺はトレーを持ったまま、ゆっくり息を吐いた。




「……はぁ」




 久しぶりだ。




 心肺蘇生が終わった直後の、この感覚。




 体は動いているのに、頭だけが少し遅れて現実に戻ってくる。




「神崎くん」




 声をかけられて顔を上げる。




 循環器内科の教授だった。




 さっきは救急隊への引き継ぎで慌ただしく、ほとんど話す時間がなかった。




 今は白衣の袖を軽くたくし上げ、穏やかな表情をしている。




「少し、話してもいいかな」




「はい」




 俺は頷き、立ち上がった。




 美月が横から小さく声をかけてくる。




「神崎くん、大丈夫?」




「ああ。問題ない」




 短く答えると、美月はほっとしたように笑った。




「……あとで、ちゃんと座ろ?」




「そうだな」




 教授はそのやり取りを一瞥し、軽く咳払いをした。




「今の対応だが」




 食堂の端、人の少ない場所まで歩きながら、教授が言う。




「学生としては、かなり落ち着いていた」




「ありがとうございます」




「胸骨圧迫のリズムも適切だった」




「AEDの判断も早い」




 淡々とした口調だ。




 評価はしているが、驚愕や疑念はない。




「以前から、救命に興味が?」




「はい」




 俺は即答した。




「本で勉強しています。ガイドラインも一通りは」




 嘘ではない。




 三十年分の経験の上に、何度も読み返した知識だ。




 教授は「なるほど」と小さく頷いた。




「看護学生がAEDを取りに走ったのも良かった……白石さん、だったね」




「はい」




 美月が褒められて少しはにかんだ。




「ふたりともよく連携も取れていた。学生同士としては、理想的な対応だ」




「「ありがとうございます」」




「神崎くん、君はポリクリ中だったね」




「はい」




「循環器内科にも来ていると聞いている」




「見学ですが」




 教授は小さく笑った。




「そうか。では今後、カンファレンスにも同席しなさい」




「症例の説明を聞くだけでも、勉強になる」




 周囲の学生が息を呑む。




 その対応は、学生としてはかなり異例だ。




「……いいのですか」




 俺がそう言うと、教授は即答した。




「君は、現場に向いている」




 短い一言だった。




 だが重い。




「今回は運が良かった部分もある」




「だが、準備していた者が運を掴むのも事実だ」




 俺は黙って聞いていた。




「これからも、今の調子で勉強を続けなさい」




「将来、良い医師になる」




 それは、指導者としての激励だった。




「ありがとうございます」




 俺が頭を下げると、教授は満足そうに頷いた。




「では、午後の実習でまた」




 そう言って、教授は食堂を後にした。




 背中を見送りながら、俺は静かに息を吐く。




「神崎くん」




 振り向くと、美月が立っていた。




「本当に、すごかったね」




「そうか?」




「うん」




 少し照れたように笑う。




「看護学科の友達も、みんな固まってた」




「私も、頭真っ白だったし」




「美月は、すぐ動いただろ」




「……神崎くんがいたから」




 小さな声だった。




 だが、はっきり聞こえた。




 俺は一瞬、言葉に詰まる。




「ありがとう」




 美月はそう言って、胸に手を当てた。




「でも、ちょっと疲れたかな」




「さっき走ったし」




「……大丈夫か?」




「うん。平気」




 笑顔。




 いつもと同じ、明るい笑顔。




 だが。




 俺は見逃さなかった。




 一瞬だけ、呼吸が浅くなったこと。




 ほんの僅かな違和感。




(……今は、まだ)




 確信には足りない。




 だが、知っている未来が、静かに胸の奥で警鐘を鳴らす。




「席、戻ろう」




「そうだね」




 並んで歩きながら、俺は心の中で呟いた。


「……ねえ、神崎くん」


 美月が、歩調を少しだけ落とす。


「ん?」


「さっきの神崎くん……」


 一度、言葉を切る。


 視線が、少し泳いだ。


「なんていうか……」


「前から知ってる神崎くんなんだけど」


「でも、ちょっとだけ、違って見えた」


 胸が、かすかに鳴った。


「違う?」


「うん」


 美月は曖昧に笑う。


「遠くなった、っていうか……」


「でも、すごく頼もしかった」


 それ以上は言わなかった。


 言えなかったのか、


 言わなかったのか。


 美月は、いつもの調子で歩き出す。


「……ごめん。変なこと言ったね」


「いや」


 俺は首を振る。


「気にするな」


 だが。


 その一言が、胸の奥に残った。


 ――遠くなった。


 並んで歩いているはずなのに、確かに、何かが変わり始めている。


(……良い方向か悪い方向かは分からないけれど、確実に)


 ただ一つ確実な事は、守るべき未来があるという事だけだった。

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