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五十二歳救命医、医学部六年に戻る ――救えなかった恋人を、今度こそ救うために  作者: 猫又ノ猫助
医学生編

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6話 崩れた日常

 ――ドンッ。


 硬い音が、食堂の空気を切り裂いた。


 一瞬、何が起きたのか分からなかった。


 トレーを置く音か、椅子が倒れた音か。


 誰かが何かを落としただけかもしれない。


 だが、次の瞬間。


「……え?」


 誰かの間の抜けた声が上がり、


 続いて、悲鳴に近い叫びが食堂に広がった。


「誰か倒れた!」


 視線が、一斉に同じ方向へ集まる。


 近くの席で、男子学生が床に崩れ落ちていた。


 仰向けのまま、微動だにしない。


 ざわめきが、波のように押し寄せる。


「おい! 大丈夫か!?」


「どうしたの!?」


 声は上がる。


 だが、誰も近づけない。


 距離だけが詰まらず、人の輪が歪に広がっていく。


 そのときだった。


「神崎くん!」


 美月の声が、はっきりと聞こえた。


 俺は、もう立ち上がっていた。


 椅子を引く感触も覚えていない。


 気づけば、倒れている学生の横にしゃがみ込んでいた。


「聞こえるか?」


 肩に手を置く。


 揺さぶるが、反応はない。


 周囲の音が、すっと遠のいた。


 呼吸を確認する。


 胸の上下――ない。


 頸動脈に指を当てる。


 ……脈が触れない。


(心停止)


 頭の中が、静かになる。


 余計な思考が消え、


 やるべきことだけが浮かび上がる。


 俺は立ち上がり、声を張り上げた。


「AED持ってきてくれ!」


 その一言で、食堂が凍りついた。


 AED。


 自動体外式除細動器。


 だが、周囲の学生は固まったままだ。


 誰かが動こうとして、足を止める。


 目を向けられた学生たちは視線を逸らす。


 完全なパニックだった。


「……!」


 その沈黙を破ったのは、美月だった。


「私、持ってくる!」


 そう言い残し、食堂の出口へ向かって走り出す。


 迷いはなかった。


 判断は早く、動きも的確だった。


 さすが看護学生だと、どこかで冷静に思う。


 俺は再び学生の横にしゃがみ込み、胸の中央に手を置いた。


「胸骨圧迫を始める」


 自分に言い聞かせるように、呟く。


 強く。


 速く。


 深く。


 一定のリズムで、胸を押し続ける。


 ドン。


 ドン。


 ドン。


 手のひら越しに伝わる感触だけに、意識を集中させる。


 周囲のざわめきが、さらに遠くなる。


(まだ若い)


(助かる可能性は高い)


(戻ってこい!!)


 ただ、それだけを考えていた。


 時間の感覚が曖昧になる。


 どれくらい圧迫を続けたのか、分からない。


「神崎くん!」


 美月の声が聞こえた。


 顔を上げると、息を切らしながら戻ってきた美月が、両手でAEDを抱えている。


「ありがとう」


 短く礼を言い、すぐに受け取る。


 蓋を開け、電源を入れる。


『電極パッドを装着してください』


 機械の音声が、やけにはっきりと響く。


 指示通り、パッドを貼る。


 胸。


 脇腹。


「全員、離れて!」


 声を張り上げると、


 学生たちが慌てて後ずさった。


『心電図を解析中』


 一瞬の静寂。


 誰も息をしていないように感じた。


『ショックが必要です』


(心室細動)


「誰も触ってないな!?」


 周囲を確認し、ボタンに指をかける。


「ショック!」


 バチッ、という音とともに、


 学生の体が跳ねた。


 すぐに胸骨圧迫を再開する。


 ドン。


 ドン。


 ドン。


 ――そのとき。


 ……ドクン。


 指先に、かすかな鼓動が返ってきた。


 もう一度、頸動脈に触れる。


 確かに、脈がある。


「心拍……再開」


 その言葉と同時に、食堂がざわめいた。


「戻った……?」


「嘘だろ……」


 倒れていた学生が、かすかに呼吸を始める。


 その瞬間。


「大丈夫か!?」


 白衣を着た医師が、食堂に駆け込んできた。


 大学病院の医師だ。


 そして、その後ろには――


「……神崎くん?」


 循環器内科の教授が立っていた。


 床の学生。


 AED。


 俺。


 状況を一目で把握し、教授が尋ねる。


「君がやったのか?」


「はい。心室細動でした」


 教授は、わずかに目を見開いた。


「……そうか」


 間もなく救急隊が到着し、学生はストレッチャーに乗せられて運ばれていく。


「初期対応、完璧です。ありがとうございました!」


 隊員の言葉に、張り詰めていた空気が、ようやく緩んだ。


 食堂に、静けさが戻る。


 その中で。


 美月が、こちらを見ていた。


 驚いたような顔。


 そして、少しだけ照れたように笑う。


「……昔からすごかったけど」


 一拍置いて。


「今の神崎くん、ちょっとかっこよかった」


 俺は、思わず苦笑した。


 壊れた昼休みは、

 

 もう元には戻らない。


 だが――。


 確かに、ここから何かが動き始めていた。

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