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五十二歳救命医、医学部六年に戻る ――救えなかった恋人を、今度こそ救うために  作者: 猫又ノ猫助
医学生編

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3話 眠りの先で

 部屋の明かりを落とし、ベッドに横になる。


 天井を見つめながら、今日一日のことを思い返していた。


 食堂での会話。


 帰り道。


 一瞬だけ乱れた、美月の呼吸。


 思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。


 何気ない言葉。


 何気ない仕草。


 それらが、今はやけに胸に残っていた。


 何も起きなかった。


 本当に、何も。


 それが、どれほど幸運な一日だったのかを、俺は知っている。


 ただ平穏である、というだけの一日が、


 どれほど脆く、簡単に壊れてしまうものかを。


(……まだだ)


 まだ、何も始まっていない。


 まだ、取り返しのつかないことは起きていない。


 それでも、時間だけは確実に進んでいる。


 止めることも、巻き戻すこともできないまま。


 瞼が、ゆっくりと重くなっていく。


 意識が沈む、その直前。


 浮かんだのは、笑顔だった。


 理由は分からない。


 ただ、守りたいと思った。


 ――守りたい。


 次の瞬間、世界が裏返った。



 瓦礫の匂いと、血の匂いが混ざっていた。


 耳鳴りがする。


 頭の奥で、低い音が鳴り続けている。


 そこかしこで怒鳴り声や泣き声が上がっていた。


 助けを呼ぶ声。


 名前を呼ぶ声。


 どれもが混ざり合い、意味を持たない騒音になる。


 未曽有の大災害。


 そんな言葉で片付けられる規模ではないことは、肌で分かっていた。


 視界の端で、何かが崩れ突き刺さる音がした。


 反射的に身をすくめるが、恐怖を考える暇はなかった。


 連日の昼夜問わずの手術で身体は重い。


 まるで、鉛を流し込まれたようだった。


 それでも、瓦礫に囲まれた仮設医療テントに向けて、足だけは前に出ていた。


 止まれなかった。


 理由を考える前に、身体が動いていた。


 考える余地があるなら、


 きっと俺は立ち止まってしまう。


 テントの中は、さらにひどかった。


 血の色。


 消毒薬の匂い。


 焦った声。


 担架が運び込まれる。


 横たえられているのは、若い患者だった。


 一瞬だけ、視線が止まる。


 理由は分からない。


 ただ、胸の奥がざわついた。


 似ている――


 そう思いかけて、首を振る。


(……今は、目の前だ)


 過去を見るな。


 考えるな。


 今、ここで、


 この命を見る。


 脇腹に鋭い痛みが走った。


 誰かが何かを叫んでいる。


 だが、言葉の意味は拾えなかった。


「先生、出血が――」


 聞き取れたのは、それだけだった。


「後だ」


 短く答える。


 それ以上の言葉は、必要なかった。


 患者がいる。


 それだけで、十分だった。


 視界が揺れる。


 足元が崩れ、膝が地面に落ちた。


 地面の冷たさが、やけにはっきりしている。


(……すまない)


 その言葉が、どこから出てきたのかは分からなかった。


 誰に向けたものだったのかも、その時の俺には、まだ分からなかった。


 胸の奥が、ゆっくりと暗くなっていく。


 意識が遠のく。


 音が消え、


 色が消え、


 世界が静かに閉じていった。



 はっと、息を吸う。


 暗い天井が、目に入った。


 心臓が、やけにうるさい。


 しばらく、身体を動かせなかった。


 ――夢じゃない。


 あれは、確かにあった記憶だ。


 俺は、ゆっくりと起き上がる。


 なぜ、戻ってきたのか。


 答えは、まだ言葉にならない。


 だが、一つだけは確かだった。


 俺は、止まれない人間だ。


 目の前に命があれば、


 身体が先に動く。


 それが、取り返しのつかない結果を生むことがあっても。


 窓の外は、静かな夜だった。


(……今度は)


 同じ過ちは、繰り返さない。


 そう、静かに誓いながら、


 俺はもう一度、拳を握りしめた。

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