3話 眠りの先で
部屋の明かりを落とし、ベッドに横になる。
天井を見つめながら、今日一日のことを思い返していた。
食堂での会話。
帰り道。
一瞬だけ乱れた、美月の呼吸。
思い出そうとしなくても、勝手に浮かんでくる。
何気ない言葉。
何気ない仕草。
それらが、今はやけに胸に残っていた。
何も起きなかった。
本当に、何も。
それが、どれほど幸運な一日だったのかを、俺は知っている。
ただ平穏である、というだけの一日が、
どれほど脆く、簡単に壊れてしまうものかを。
(……まだだ)
まだ、何も始まっていない。
まだ、取り返しのつかないことは起きていない。
それでも、時間だけは確実に進んでいる。
止めることも、巻き戻すこともできないまま。
瞼が、ゆっくりと重くなっていく。
意識が沈む、その直前。
浮かんだのは、笑顔だった。
理由は分からない。
ただ、守りたいと思った。
――守りたい。
次の瞬間、世界が裏返った。
◇
瓦礫の匂いと、血の匂いが混ざっていた。
耳鳴りがする。
頭の奥で、低い音が鳴り続けている。
そこかしこで怒鳴り声や泣き声が上がっていた。
助けを呼ぶ声。
名前を呼ぶ声。
どれもが混ざり合い、意味を持たない騒音になる。
未曽有の大災害。
そんな言葉で片付けられる規模ではないことは、肌で分かっていた。
視界の端で、何かが崩れ突き刺さる音がした。
反射的に身をすくめるが、恐怖を考える暇はなかった。
連日の昼夜問わずの手術で身体は重い。
まるで、鉛を流し込まれたようだった。
それでも、瓦礫に囲まれた仮設医療テントに向けて、足だけは前に出ていた。
止まれなかった。
理由を考える前に、身体が動いていた。
考える余地があるなら、
きっと俺は立ち止まってしまう。
テントの中は、さらにひどかった。
血の色。
消毒薬の匂い。
焦った声。
担架が運び込まれる。
横たえられているのは、若い患者だった。
一瞬だけ、視線が止まる。
理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついた。
似ている――
そう思いかけて、首を振る。
(……今は、目の前だ)
過去を見るな。
考えるな。
今、ここで、
この命を見る。
脇腹に鋭い痛みが走った。
誰かが何かを叫んでいる。
だが、言葉の意味は拾えなかった。
「先生、出血が――」
聞き取れたのは、それだけだった。
「後だ」
短く答える。
それ以上の言葉は、必要なかった。
患者がいる。
それだけで、十分だった。
視界が揺れる。
足元が崩れ、膝が地面に落ちた。
地面の冷たさが、やけにはっきりしている。
(……すまない)
その言葉が、どこから出てきたのかは分からなかった。
誰に向けたものだったのかも、その時の俺には、まだ分からなかった。
胸の奥が、ゆっくりと暗くなっていく。
意識が遠のく。
音が消え、
色が消え、
世界が静かに閉じていった。
◇
はっと、息を吸う。
暗い天井が、目に入った。
心臓が、やけにうるさい。
しばらく、身体を動かせなかった。
――夢じゃない。
あれは、確かにあった記憶だ。
俺は、ゆっくりと起き上がる。
なぜ、戻ってきたのか。
答えは、まだ言葉にならない。
だが、一つだけは確かだった。
俺は、止まれない人間だ。
目の前に命があれば、
身体が先に動く。
それが、取り返しのつかない結果を生むことがあっても。
窓の外は、静かな夜だった。
(……今度は)
同じ過ちは、繰り返さない。
そう、静かに誓いながら、
俺はもう一度、拳を握りしめた。




