15話 試験の日
目覚ましが鳴るより少し前に、目が覚めた。
窓の外はまだ暗く、街は音を立てていない。
いつもより早く起きたはずなのに、体は妙に軽かった。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映っているのは、六年生の医学部生だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
受験票をもう一度確認し、鞄に入れる。
筆記用具、時計、身分証。
何度も確認してきたはずなのに、今朝も同じ動作を繰り返していた。
医師国家試験当日。
その言葉を頭の中で反芻しても、実感は薄い。
前世では、何度も試験会場に向かった。
国家試験も、専門医試験も、資格試験も。
だが、今世ではこれが最初の「入口」だ。
靴を履き、玄関を出る。
冷たい空気が肺に入ってきて、少しだけ目が覚めた。
◇
試験会場の建物は、静かだった。
同じ年頃の受験生が、無言で歩いている。
誰も話さない。
視線を合わせない。
それぞれが、それぞれの世界に閉じこもっている。
席に着き、机の上を整える。
前を見ても、横を見ても、知らない顔ばかりだ。
前世では、この光景を何度も見てきた。
だが、その記憶があるからといって、気が楽になるわけじゃない。
試験監督の声が響く。
「それでは、試験を開始します」
ペンを握る。
問題用紙をめくる。
問題の内容は、意識して考えないようにした。
難しいとも、簡単とも、感じない。
ただ、問われていることに答えるだけだ。
時間だけが、一定の速さで進んでいく。
周囲のペンの音。
椅子の軋む音。
それらが、現実として耳に残る。
前世の知識が助けになる場面は大いにある。だが、それだけでは足りない。
前世では当たり前だった技術が確立されていない今では現在の医学レベルに合わせた勉強が、確実に必要だった。
昼休憩。
軽くパンを齧り、水を飲む。
スマートフォンを見ると、通知が一つ来ていた。
――今日は本番だね。落ち着いて受けてきてね
美月からのメッセージ。
「ありがとう」
それだけ返して、スマートフォンを伏せた。
それ以上、言葉が出てこなかった。
大丈夫、とは言わなかった。
言ってしまえば、何かを共有した気になってしまいそうだったからだ。
◇
午後の試験も、同じように過ぎていった。
集中していたのか、そうでもなかったのか。
終わってみれば、よく分からない。
最後の問題を解き終え、ペンを置く。
試験監督の声が、また響いた。
「これで試験は終了です」
立ち上がり、鞄を持つ。
会場を出ると、外はすでに夕方だった。
空は少し赤く、風が冷たい。
試験が終わった実感は、まだなかった。
スマートフォンが震える。
――どうだった?
美月からのメッセージ。
「取り合えず、終わった」
それだけ送る。
少しして、既読がついた。
返信はなかった。
その沈黙が、妙に心地よかった。
言葉を重ねなくていい距離。
だが、踏み込めない距離でもある。
◇
駅へ向かう道を、一人で歩く。
足取りは重くない。
かといって、軽くもない。
試験は終わった。
それだけは事実だ。
だが、何かが終わった気はしなかった。
合格すれば、次に進む。
不合格なら――立ち止まざるを得なくなる。
どちらにせよ、学生ではいられなくなる。
それを受け入れる準備は、もうずっと前からしてきたはずだった。
それでも、今はただ、静かだった。
前世では、試験の後に安堵した。
今世では、そうはならなかった。
何かを乗り越えたというより、
引き返せない場所に立った、そんな感覚だけが残っている。
改札を抜け、ホームに立つ。
電車が来るまでの数分間、何も考えずに立っていた。
試験の日は、人生が変わる日だと思っていた。
少なくとも、昔はそう信じていた。
だが、この日は違った。
人生が変わったわけじゃない。
ただ、戻れない場所に、確かに足を置いた日だった。




