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五十二歳救命医、医学部六年に戻る ――救えなかった恋人を、今度こそ救うために  作者: 猫又ノ猫助
医学生編

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12話 その一言

 夜の病棟は、昼間とは別の場所のように感じられた。


 照明は落とされ、廊下を行き交う足音も少ない。


 ナースステーションのモニター音だけが、一定のリズムで空間を満たしている。


 俺は一人の医学生として、廊下の端に立っていた。


 白衣のポケットに手を入れ、何度も同じ動作を繰り返す。


 落ち着かないわけじゃない。


 ただ、目を離す気になれなかった。



「……すみません」


 患者の声が、思ったよりはっきりと聞こえた。


 ベッドの上で上半身を起こし、胸のあたりを押さえている。


 昼間よりも、顔色が悪い。


「息が、また苦しくて」


 ナースステーションで呼ばれた看護師がすぐに反応する。


「いつからですか?」


「さっき、横になろうとしたら」


「横になると?」


「……空気が入ってこない感じがして」


 呼吸は浅く、早い。


 モニターの数字が跳ね上がる。


「心拍、130近いです」


 看護師が言うと、控えていた研修医が顔をしかめた。


「またか……さっきは落ち着いてたのに」


 研修医は患者に声をかける。


「今、胸は痛いですか?」


「痛い、というより……」


 患者は言葉を探すように一度息を吸った。


「息が追いつかない感じで、怖いです」


 その一言で、病室の空気が一段重くなる。


「酸素、もう少し上げましょう」


 研修医が指示を出す。


「体は起こしたままで」


 患者は頷きながら、必死に呼吸を整えようとしている。


 研修医はカルテを見返した。


「血圧は保たれてるし、SpO₂も、まだ落ちてないから血中の酸素は保てているな。胸痛もない……」


 言葉の並びは冷静だ。


 だが、その間にわずかな迷いがあるのが分かる。


 だからこそ、俺は一歩だけ近づいた。


「……すみません」


 研修医がこちらを見る。


「夜間に呼吸苦が出て頻脈が続いているなら、一度は心エコーと心不全の指標になる血液検査(BNP)を見ておくと判断しやすいかもしれません」


 まだ俺は学生でしかないから断定はしない。


 ただ、選択肢を置く。


 研修医はすぐには返事をしなかった。


 患者を見て、モニターを見て、もう一度カルテを見る。


「……確かに」


 小さく、そう呟いた。


 顔を上げる。


「上級医を呼ぼう」


 その一言で、病室が動き出した。



 上級医が到着する。


「状況は?」


 研修医が簡潔に説明する。


「夜間に再度呼吸困難。頻脈が持続しています」


 上級医は短く頷いた。


「心不全の初期像だな」


「エコー、今すぐ。BNPも追加」


 対応が前倒しされ処置が始まった。



 一段落した後、研修医が俺の方を見た。


「さっきの」


 一瞬、言葉を探す。


「助かりました。正直」


 俺は首を振る。


「たまたまです」


 研修医は苦笑した。


「その“たまたま”が患者さんを救ってくれたよ」


 そう言って、患者の方へ戻っていった。



 廊下で、美月と目が合った。


 夜間実習のバッジをつけたまま、少し緊張した顔をしている。


「……例の患者さん、対処して貰えたね」


 小さな声で、美月が言う。


「ああ」


「神崎くんが言ったから?」


 俺は答えなかった。


 研修医の背中を、ただ見ていた。


「……偶然だ」


 美月が少しだけ、笑う。


「そういう言い方、ずるいよね」


「……そうかもな」



 病棟の端で、一人立ち止まる。


 俺が言ったのは、ほんの一言だ。


 判断したのは研修医。


 責任を負うのも研修医。


 知識だけは有っても、今はまだ何も出来ない事に歯がゆさを感じていた。

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