12話 その一言
夜の病棟は、昼間とは別の場所のように感じられた。
照明は落とされ、廊下を行き交う足音も少ない。
ナースステーションのモニター音だけが、一定のリズムで空間を満たしている。
俺は一人の医学生として、廊下の端に立っていた。
白衣のポケットに手を入れ、何度も同じ動作を繰り返す。
落ち着かないわけじゃない。
ただ、目を離す気になれなかった。
◇
「……すみません」
患者の声が、思ったよりはっきりと聞こえた。
ベッドの上で上半身を起こし、胸のあたりを押さえている。
昼間よりも、顔色が悪い。
「息が、また苦しくて」
ナースステーションで呼ばれた看護師がすぐに反応する。
「いつからですか?」
「さっき、横になろうとしたら」
「横になると?」
「……空気が入ってこない感じがして」
呼吸は浅く、早い。
モニターの数字が跳ね上がる。
「心拍、130近いです」
看護師が言うと、控えていた研修医が顔をしかめた。
「またか……さっきは落ち着いてたのに」
研修医は患者に声をかける。
「今、胸は痛いですか?」
「痛い、というより……」
患者は言葉を探すように一度息を吸った。
「息が追いつかない感じで、怖いです」
その一言で、病室の空気が一段重くなる。
「酸素、もう少し上げましょう」
研修医が指示を出す。
「体は起こしたままで」
患者は頷きながら、必死に呼吸を整えようとしている。
研修医はカルテを見返した。
「血圧は保たれてるし、SpO₂も、まだ落ちてないから血中の酸素は保てているな。胸痛もない……」
言葉の並びは冷静だ。
だが、その間にわずかな迷いがあるのが分かる。
だからこそ、俺は一歩だけ近づいた。
「……すみません」
研修医がこちらを見る。
「夜間に呼吸苦が出て頻脈が続いているなら、一度は心エコーと心不全の指標になる血液検査(BNP)を見ておくと判断しやすいかもしれません」
まだ俺は学生でしかないから断定はしない。
ただ、選択肢を置く。
研修医はすぐには返事をしなかった。
患者を見て、モニターを見て、もう一度カルテを見る。
「……確かに」
小さく、そう呟いた。
顔を上げる。
「上級医を呼ぼう」
その一言で、病室が動き出した。
◇
上級医が到着する。
「状況は?」
研修医が簡潔に説明する。
「夜間に再度呼吸困難。頻脈が持続しています」
上級医は短く頷いた。
「心不全の初期像だな」
「エコー、今すぐ。BNPも追加」
対応が前倒しされ処置が始まった。
◇
一段落した後、研修医が俺の方を見た。
「さっきの」
一瞬、言葉を探す。
「助かりました。正直」
俺は首を振る。
「たまたまです」
研修医は苦笑した。
「その“たまたま”が患者さんを救ってくれたよ」
そう言って、患者の方へ戻っていった。
◇
廊下で、美月と目が合った。
夜間実習のバッジをつけたまま、少し緊張した顔をしている。
「……例の患者さん、対処して貰えたね」
小さな声で、美月が言う。
「ああ」
「神崎くんが言ったから?」
俺は答えなかった。
研修医の背中を、ただ見ていた。
「……偶然だ」
美月が少しだけ、笑う。
「そういう言い方、ずるいよね」
「……そうかもな」
◇
病棟の端で、一人立ち止まる。
俺が言ったのは、ほんの一言だ。
判断したのは研修医。
責任を負うのも研修医。
知識だけは有っても、今はまだ何も出来ない事に歯がゆさを感じていた。




