11話 看護の目
私は、ナースステーションの端に立ち、白衣の袖をぎゅっと握りしめていた。
今日は夜間実習もある。
夕方から夜にかけての病棟の様子を学ぶため、指導看護師さんに付き添って回る。
昼間とは違う空気。
照明は落とされ、廊下の足音も少ない。
その分、ナースコールの音がはっきりと耳に届く。
「緊張してる?」
指導看護師さんが、小声で声をかけてくれた。
「……少しだけ」
正直に答えると、指導看護師さんは軽く笑った。
「大丈夫。今日は“見る”のが仕事よ」
そう言われて、少しだけ肩の力が抜けた。
私は看護師じゃない。
でも、患者さんのそばに立つことは許されている。
それが、看護学生の立場だ。
◇
ナースコールが鳴ったのは、消灯から少し経った頃だった。
ピッ、という電子音が、静かな病棟に響く。
「302号室ね」
指導看護師さんがモニターを確認し、私を見た。
「一緒に行きましょう」
「はい」
私は頷き、指導看護師さんの一歩後ろについて病室へ向かった。
昼間に神崎くんが気にしていた、あの患者さんの部屋だった。
胸の奥が、ひやりとする。
◇
カーテンを引くと、患者さんはベッドの上で上半身を起こしていた。
顔色が、昼間よりも悪い。
「どうされましたか?」
指導看護師さんが、落ち着いた声で声をかける。
「……息が、苦しくて」
患者さんは胸のあたりを押さえながら、そう答えた。
「今、どんな感じですか?」
「横になると……どうも、息が入ってこない感じがして」
私は、その様子を横から見ていた。
呼吸が浅く、少し早い。
「起き上がると、どうです?」
「少しは……楽になります」
指導看護師さんが、私に目配せをする。
「美月さん、バイタル一緒に見ましょうか」
「はい」
私は内心焦りながらも、教えられた通りに機器を準備する。
脈拍。
――速い。
「心拍数、120台です」
私がそう伝えると、指導看護師さんがモニターを確認した。
「上がってるわね。昼間より、明らかに高い」
患者さんが、不安そうにこちらを見る。
「大丈夫でしょうか……?」
その声に、胸がきゅっと縮む。
「今、先生を呼びますね」
指導看護師さんはそう言って、ナースコールの受話器を取った。
私は、患者さんの呼吸と表情から目を離さない。
「胸は、痛みますか?」
「痛いってほどじゃないです」
「でも……」
患者さんは言葉を探すように、一度息を吸った。
「なんとなく、怖くて」
その言葉に、はっとする。
昼間は、そんなことは言っていなかった。
◇
研修医が病室に入ってきた。
「どうした?」
落ち着いた声だが、表情は引き締まっている。
「夜間、呼吸苦が出ています」
「心拍数が120台です」
指導看護師さんが簡潔に説明する。
研修医は患者さんに声をかけた。
「今、息苦しいですか?」
「はい……」
「仰向けはつらい?」
「つらいです」
研修医は一瞬、カルテに目を落とした。
「昼間は、ここまでじゃなかったよな……」
その言葉を聞いた瞬間、背中がぞくりとした。
やっぱり。
神崎くんの言葉が、頭をよぎる。
――「良くもなってない」
「酸素、少し入れましょう」
研修医が指示を出す。
指導看護師さんが素早く動く。
私は、その横で患者さんの様子を見続けた。
「大丈夫です」
そう声をかけると、患者さんは小さく頷いた。
でも、目の不安は消えていない。
◇
一連の対応が落ち着いたあと、私は廊下に出た。
足が、少し震えている。
ナースステーションの向こうに、人影が見えた。
神崎くんだった。
壁にもたれ、こちらを見ている。
私は一瞬迷ってから、近づいた。
「……状態が悪くなってる」
小さな声で、そう言う。
「呼吸が苦しくなって」
「心拍も、上がってる」
神崎くんの表情が、はっきりと変わった。
「どれくらいだ」
「120台」
「昼より、明らかに高いな」
神崎くんは、目を閉じて短く息を吐いた。
「ありがとう」
その声は、医学生としてじゃなく。
一人の人間としての声だった。
「……神崎くん」
私は、言葉を選びながら続ける。
「昼間、言ってたよね。“嫌な感じがする”って」
神崎くんは、すぐには答えなかった。
でも、否定もしなかった。
「……ああ」
その一言で、すべてがつながった気がした。
私は、ナースステーションの明かりを見つめた。




