10話 感じた違和感
昼前の病棟は、朝よりも人の気配が増えていた。
ナースステーションではキーボードを叩く音と電話の呼び出し音が重なり、廊下ではストレッチャーが静かに行き交っている。
慌ただしいはずなのに、どこか落ち着いた空気だった。
俺は配られた資料を手にしたまま、無意識にさっき見た患者の病室番号を目で追っていた。
――五十八歳。動悸、胸部不快感。
数値も所見も、今のところ大きな異常はない。
だからこそ、頭から離れない。
「神崎くん?」
呼ばれて顔を上げる。
そこに立っていたのは、美月だった。
看護学生用のユニフォームに身を包み、首から下げたネームプレートを指で押さえている。
「今、少し時間あるか?」
「うん、ちょうど休憩に入ったところ」
そう答えた美月に対し、少し声を落として耳打ちする。
「さっきの循環器の患者さん……」
「動悸で入院してきた人?」
「ああ」
短く答えると、美月はわずかに眉を寄せる。
「やっぱり、気になってる?」
その一言で、胸の奥が小さく鳴った。
「……正直に言うと、少しな」
俺は、言葉を慎重に選びながら続ける。
「俺の気のせいかもしれない」
「数値も所見も、今は問題ない」
「研修医の判断も、間違ってないと思う」
そこまで言って、一度言葉を切った。
ここから先は、医学生が踏み込む領域じゃない。
自分でも、それは分かっている。
「でも」
それでも、続けてしまう。
「“何も起きない”って、確信できるほど安心できる感じもしない」
美月は、俺の顔をじっと見ていた。
否定もしないし、すぐに同意もしない。
その沈黙が、逆にありがたかった。
「……どういう意味?」
問い返されて、俺は一瞬言葉に詰まる。
「説明しろって言われると、難しいが症状の出方とか、話し方とか……数字じゃない部分が、少し引っかかってる」
自分でも曖昧だと思う。
医者なら、根拠を示せと言われるだろう。
だが、あまり具体的なことを言うわけにもいかない。
「……神崎くん。それだけじゃ今一分からないよ」
美月が、少し困ったように言う。
「様子を見て、感じたことを教えてほしい」
「それ以上は、何も言わなくていい」
美月は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと頷く。
「分かった指導看護師さんにも、声かけてから行くね」
「……ありがとう」
そう言うと、美月は少しだけ困ったように笑った。
「まだ、何も確定してないよ」
「それでも、ありがとう」
◇
それからしばらくして、俺は廊下で立ち止まった。
自販機の前。
缶コーヒーを買うでもなく、研修医がただ人の流れを眺めていた。
「……落ち着いてますね。今のところ、あの患者さんも安定してます」
「このまま何もなければ、明日には――」
言葉の途中で、俺は視線を落とした。
(“何もなければ”、か)
その言葉が、やけに重く響く。
「心配しすぎると、疲れますよ。病棟は、意外と静かに回るものですから」
「……そうですね」
そう答えながら、胸の奥のざわつきは消えなかった。
◇
その後、隙間時間に廊下で美月と合流した。
「どうだった?」
俺がそう聞くと、美月は一拍置いて答える。
「変わらないかな」
それから、はっきりと言った。
「でも、良くもなってない」
それだけで、十分だった。
俺は深く息を吸う。
「ありがとう」
美月は小さく首を振った。
「判断は、私にはできない」
「でも、見て、聞いて、伝えることはできるから」
その言葉が、胸に残る。
俺は動けない。
だが、一人じゃない。
まだ確定じゃない。
まだ決めつけてもいけない。
それでも――。
このまま何もしない、という選択肢だけは、
もう、俺の中にはなかった。




