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五十二歳救命医、医学部六年に戻る ――救えなかった恋人を、今度こそ救うために  作者: 猫又ノ猫助
医学生編

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10話 感じた違和感

 昼前の病棟は、朝よりも人の気配が増えていた。


 ナースステーションではキーボードを叩く音と電話の呼び出し音が重なり、廊下ではストレッチャーが静かに行き交っている。


 慌ただしいはずなのに、どこか落ち着いた空気だった。


 俺は配られた資料を手にしたまま、無意識にさっき見た患者の病室番号を目で追っていた。


 ――五十八歳。動悸、胸部不快感。


 数値も所見も、今のところ大きな異常はない。


 だからこそ、頭から離れない。


「神崎くん?」


 呼ばれて顔を上げる。


 そこに立っていたのは、美月だった。


 看護学生用のユニフォームに身を包み、首から下げたネームプレートを指で押さえている。


「今、少し時間あるか?」


「うん、ちょうど休憩に入ったところ」


 そう答えた美月に対し、少し声を落として耳打ちする。


「さっきの循環器の患者さん……」


「動悸で入院してきた人?」


「ああ」


 短く答えると、美月はわずかに眉を寄せる。


「やっぱり、気になってる?」


 その一言で、胸の奥が小さく鳴った。


「……正直に言うと、少しな」


 俺は、言葉を慎重に選びながら続ける。


「俺の気のせいかもしれない」


「数値も所見も、今は問題ない」


「研修医の判断も、間違ってないと思う」


 そこまで言って、一度言葉を切った。


 ここから先は、医学生が踏み込む領域じゃない。


 自分でも、それは分かっている。


「でも」


 それでも、続けてしまう。


「“何も起きない”って、確信できるほど安心できる感じもしない」


 美月は、俺の顔をじっと見ていた。


 否定もしないし、すぐに同意もしない。


 その沈黙が、逆にありがたかった。


「……どういう意味?」


 問い返されて、俺は一瞬言葉に詰まる。


「説明しろって言われると、難しいが症状の出方とか、話し方とか……数字じゃない部分が、少し引っかかってる」


 自分でも曖昧だと思う。


 医者なら、根拠を示せと言われるだろう。


 だが、あまり具体的なことを言うわけにもいかない。


「……神崎くん。それだけじゃ今一分からないよ」


 美月が、少し困ったように言う。


「様子を見て、感じたことを教えてほしい」


「それ以上は、何も言わなくていい」


 美月は、しばらく黙っていた。


 そして、ゆっくりと頷く。


「分かった指導看護師さんにも、声かけてから行くね」


「……ありがとう」


 そう言うと、美月は少しだけ困ったように笑った。


「まだ、何も確定してないよ」


「それでも、ありがとう」



 それからしばらくして、俺は廊下で立ち止まった。


 自販機の前。


 缶コーヒーを買うでもなく、研修医がただ人の流れを眺めていた。


「……落ち着いてますね。今のところ、あの患者さんも安定してます」


「このまま何もなければ、明日には――」


 言葉の途中で、俺は視線を落とした。


(“何もなければ”、か)


 その言葉が、やけに重く響く。


「心配しすぎると、疲れますよ。病棟は、意外と静かに回るものですから」


「……そうですね」


 そう答えながら、胸の奥のざわつきは消えなかった。



 その後、隙間時間に廊下で美月と合流した。


「どうだった?」


 俺がそう聞くと、美月は一拍置いて答える。


「変わらないかな」


 それから、はっきりと言った。


「でも、良くもなってない」


 それだけで、十分だった。


 俺は深く息を吸う。


「ありがとう」


 美月は小さく首を振った。


「判断は、私にはできない」


「でも、見て、聞いて、伝えることはできるから」


 その言葉が、胸に残る。


 俺は動けない。


 だが、一人じゃない。


 まだ確定じゃない。


 まだ決めつけてもいけない。


 それでも――。


 このまま何もしない、という選択肢だけは、


 もう、俺の中にはなかった。

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