1話 最愛の人との思わぬ再会
瓦礫の匂いと、血の匂いが混ざっていた。
耳鳴りがひどい。
怒鳴り声も、叫び声も、もう遠い。
視界の端で、何かが崩れ落ちるのが見えた。
身体が、言うことをきかない。
(……ここまで、か)
立ち上がろうとして、失敗した。
地面の冷たさだけが、やけにはっきり伝わってくる。
患者の顔が浮かぶ。
助けた命。
助けられなかった命。
そして――。
(……会いに行くよ)
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
胸の奥が、ゆっくりと暗くなっていく。
次の瞬間、すべての音が途切れた。
◇
鼻をくすぐる、匂い。
油の匂い。
炊き立ての米の匂い。
どこか懐かしい、温い空気。
(……?)
意識が、浮上する。
重いまぶたを開けると、白い天井ではなかった。
蛍光灯。
ざわめき。
金属製のトレーが擦れる音。
――食堂だ。
俺――神崎恒一は、ゆっくりと身体を起こした。
目の前には、カレー。
スプーン。
安っぽいプラスチックのトレー。
理解が追いつかない。
(……なぜ、ここに)
周囲を見回す。
若い学生たち。
自身が身に着けた白衣ではない服装。
聞き慣れたはずなのに、ひどく遠い会話。
胸の奥が、ざわつく。
「……神崎くん?」
背後から、声がした。
一瞬、呼吸が止まった。
その声を、俺は知っている。
何度も呼ばれた。
何度も、返事をした。
そして――もう二度と、聞けないはずだった。
ゆっくりと、振り返る。
そこに立っていたのは、白石美月だった。
黒髪のセミロング。
少し色の薄い瞳。
困ったように、優しく笑う表情。
頭の中が、真っ白になる。
あり得ない。
いるはずがない。
三十年前。
心臓の病気で。
手術台の上で――。
「どうしたの? 顔色、すごく悪いよ」
心配そうに覗き込んでくる、その距離が近すぎて、息が詰まった。
幻覚か。
夢か。
だが、匂いも、音も、温度も、あまりに現実だった。
「……み、つき」
声が、震えた。
今わの際に見た夢でも、幻でも何でもいい。
美月がそこにいるだけで、様々な感情が濁流の様にこみ上げてきた。
「え? なに、急に」
美月はきょとんとした顔で笑う。
――生きている。
確かに、ここにいる。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
俺は、知っている。
この先に待つ未来を。
彼女が、いつ、どうして死ぬのかを。
「……大丈夫?」
再び、名前を呼ばれる。
俺は視線を逸らし、無理やり言葉を絞り出した。
「……ちょっと、考え事をしてただけだ」
「また? 昨日も遅くまで勉強してたって言ってたでしょ」
何でもない会話。
何でもない昼休み。
それが、たまらなく怖かった。
美月は俺の向かいに座り、トレーを置く。
「相変わらずカレーなんだね」
「……安いからな」
「医学部六年生なのに、食生活が高校生」
くすっと笑う。
――と、そこで。
美月は一瞬だけ、俺の顔をまじまじと見た。
笑顔のままなのに、どこか探るような視線。
「……ねえ、神崎くん」
「ん?」
「なんか、今日ちょっと変じゃない?」
心臓が、跳ねた。
「……変?」
「うん」
少し言いづらそうに視線を逸らし、それから曖昧に笑う。
「いつもと雰囲気が違うっていうか……うまく言えないけど」
言葉を探すように、指先でトレーの縁をなぞる。
「ま、いいや。気のせいかも」
それ以上、踏み込んではこなかった。
美月の笑顔を見た瞬間、確信した。
(……戻ってきた)
理由は分からない。
なぜ、今なのかも。
だが、一つだけはっきりしている。
この時間は、もう二度と戻らない。
俺は、拳を握りしめた。
医者としてではない。
一人の男として。
「……今度こそ」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
「――失わない」
目の前で、確かに生きている、この人を。




