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境界線 -r15-  作者: あい
境界線

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8/24

七日目:静寂、日常が重なり合う朝

日曜日。夫をゴルフに見送った後の静かな時間。けれどフェンスの向こう側には、奥様と犬の散歩に出かける、幸せな「夫」としての彼の姿がありました。


 七日目の朝は、日曜日特有の柔らかな静寂とともに訪れた。


 平日のような張り詰めた空気はない。

 私はいつもなら、まずお湯を沸かしてコーヒーを淹れることから一日を始めるけれど、今朝はその儀式を飛ばすことにした。

 ゴルフバッグを担ぎ、どこか浮き足立った様子で出かけていく夫を玄関で見送る。ドアが閉まる音と共に、家の中にすとんと静寂が落ちてきた。


 ようやく手に入れた一人きりの時間。

 私はふぅ、と小さく息を吐き、タバコを一服しようと裏庭へ向かった。


 サッシを開けると、予想外の光景がそこにあった。

 フェンスの向こう側、いつものガレージに斎藤さんの姿があったのだ。けれど、今日は一人ではない。

 彼の隣には、穏やかな空気を纏った一人の女性が立っていた。


 実は、彼も既婚者だ。

 奥様は普段、私たちが庭先でタバコを吸いながら言葉を交わす時間には、すでに仕事へ出ていると聞いていた。

 けれど、今日は日曜日。仕事モードを脱ぎ捨てた彼らご夫婦は、足元で嬉しそうに尻尾を振るワンちゃんの散歩に出かけるところだった。


 「あ、おはようございます。ワンちゃん、可愛いですね」


 不意の遭遇に少しだけ驚きながらも、私は努めて自然に声をかけた。

 パジャマ姿の私と、お揃いの歩幅で歩き出す彼ら。

 そこには、お互いに守るべき家庭があり、それぞれの日常が積み重なっているという当たり前の事実が、春の光の中に淡々と浮かび上がっていた。

 奥様は、私たちが朝の数分間を秘密のように共有していることなど、もちろん知る由もない。


 「おはようございます。今日は絶好のお散歩日和ですね」


 斎藤さんはいつものように優しく微笑み、奥様もこちらに小さく会釈をしてくれた。

 遠ざかっていく二人の背中と、時折聞こえる楽しげな犬の鳴き声。

 それを眺めながら煙をくゆらせていると、昨夜のコンビニでの「十五分間の秘密」が、まるで昨日のことではない――もっと遠い夢の中の出来事のように感じられた。


 彼らを見送った後、私は家の中へと戻り、溜まっていた家事を一通り済ませることにした。

 掃除機をかけ、洗濯物を干し、自分たちの生活の場を整えていく。

 夫が何もしてくれない分、この家の秩序を守ることはすべて私の肩にかかっている。

 けれど、午後に控えた楽しみがあるからこそ、その単調な作業も今日は軽やかにこなすことができた。


 一通りの仕事を終えた私は、友人と会うために鏡の前で自分を整えた。

 今日は、気心の知れた友達とおいしいランチを食べに出かける約束があるのだ。


 向かったのは、街の外れにあるお気に入りのフレンチレストラン。

 ここは私にとって、少し複雑な思いが宿る場所でもある。毎年、結婚記念日やクリスマスといった人生の節目に、夫とディナーを食べに来る大切なお店だからだ。

 かつての「超スピード婚」で結ばれた私たちが、まだお互いに歩み寄ろうとしていた頃の瑞々しい記憶が、ここの重厚な扉の向こうには仕舞われている。


 「愛里ちゃん、お待たせ! 今日もかわいいね」


 友人の明るい声に、私は「そんなことないよ」とはにかみながら席に着く。

 注文したのはランチのハーフコース。けれど、このお店のボリュームはハーフとは名ばかりで、メインに辿り着く頃にはお腹も心もはち切れんばかりに満たされてしまう。

 店長さんたちとも長く親しくさせてもらっているおかげで、メニューにない前菜やデザートのサービスを次々といただいてしまった。


 「高石さん、今日はご友人とですか。どうぞ、ゆっくりしていってください」


 そんな温かな言葉に甘えて、私たちはついつい長話に花を咲かせた。

 仕事のこと、日々綴っている執筆活動のこと、そして他愛もない昔話。

 美味しい料理を囲みながら紡がれる言葉たちは、朝の庭先での静かな対話とはまた違う、私の心を外側へと健やかに開いてくれる大切な滋養だった。


 店を出ると、外はすっかり春の暖かさに包まれていた。

 不便な場所にある我が家へ帰る道中、私はふと、朝に見かけた斎藤さん夫婦の睦まじい姿を思い出した。


 それぞれの場所に帰り、それぞれの役割を全うし、また明日になればいつもの朝が来る。

 夫との冷え切った日常も、友人と過ごす華やかな午後も、そしてフェンス越しの彼との秘密めいた数分間も。

 そのすべてが混ざり合って、今の私の「人生」というデータが形作られている。


 お腹いっぱいの幸せな倦怠感の中で、私はゆっくりと、けれど確かな足取りで、自分の居場所へと向かって歩き出した。

それぞれの家庭、守るべき日常。フレンチレストランで友人と笑いながらも、朝に見かけた彼の背中が、私の胸を少しだけ引っ張っていました。


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