六日目:静寂の午後と、月明かりの共犯関係
東京での役割を脱ぎ捨て、洗濯機で洗い流す朝。すっぴんでパジャマ姿の私こそが、本当の私。そんな姿を、また彼に見られてしまいます。
(日中:静寂に溶ける、もう一つの自分)
六日目の朝のことは、なぜか記憶が判然としない。
前日の東京行きの疲れと、その翌朝に斎藤さんと交わした「なんかほっとする」という言葉の余韻が心地よくて、深い眠りに落ちてしまったのかもしれない。
あるいは、連日の緊張と弛緩の繰り返しに、脳が強制的に休息を求めたのだろう。
目が覚めたときには、太陽はすでに高い位置に昇っていた。
窓から差し込む光は昨日よりもさらに力強さを増し、三月の柔らかな日差しが、フローリングの上に細長い光の道を描いている。
季節の変わり目特有の、冷たさと温かさが入り混じった空気が部屋の隅々にまで満ちていた。
昨日までの刺すような寒さは、もうどこにもない。季節は確実に、冬を置き去りにして進んでいる。
私はいつものように丁寧にお湯を沸かし、今日の一杯を淹れた。
午後は、私の「書く」時間だ。
駅から歩いて三十分という、この辺鄙な場所にある中古住宅は、静かに自分と向き合うには理想的な環境だった。
二十代前半の頃、給料の良さに任せて購入した駅前のマンション。その利便性と比較して、かつての私ならこの不自由さを呪っていただろう。
けれど今の私にとって、この静寂は自分を社会という枠組みから切り離し、深い思考の海に潜るための大切なシェルターのようなものだ。
PCを立ち上げ、自身の思考を綴る執筆に没頭する。
モニターの青白い光の中に潜り込んでいると、自分が「愛里ちゃん」と呼ばれていたあの東京の居酒屋が、遠い異国の出来事のように感じられる。
ここでは、私は何者でもない。ただ言葉を紡ぎ出し、データを整理する一人の個体だ。
(夜:コンビニの光)
深夜、一通りの作業を終えてPCを閉じると、ひどく喉が渇いていることに気づいた。
リビングの静寂は昼間のそれとは違い、どこか重苦しさを孕んでいる。
家のことを何一つせず、私の誕生日さえ記憶に留めない夫が眠るこの空間から、ほんの一時でも逃げ出したかったのかもしれない。
家事は全部私がやるのがこの家の暗黙の了解だけれど、今はその役割さえも脱ぎ捨てたかった。
私は、一日中着ていたパジャマを脱ぎ捨てた。
基本的に一度袖を通した服はすぐに洗う質なので、パジャマのまま外に出るなんて考えられない。
代わりに、デニムに薄手のパーカーを羽織り、その上にロングコートを重ねた。髪を軽く整え、スニーカーを履く。
パジャマ姿の「素の私」から、わずかに外向きの自分へとスイッチを切り替え、私は夜の闇へと滑り出した。
夜の空気は、昼間の春めいた気配を裏切るように、まだ冷たく澄んでいた。
街灯が等間隔に落とす光を頼りに、近所のコンビニへと向かう。この辺りは夜になると人通りが絶え、自分の足音だけがアスファルトに低く響く。
コンビニの自動ドアが開いた瞬間、あの刺すような白い蛍光灯の光の中に、見覚えのある背中を見つけた。
「……斎藤さん?」
不意に漏れた私の声に、その背中が小さく揺れて振り返った。
そこにいたのは、いつものピシッとしたスーツを纏った仕事モードの彼ではなかった。
少し着崩したシャツに、オフの柔らかい空気を纏った、一人の男性としての姿。
手元には、私と同じように数本のアルコールの缶があった。
「高石さん。こんな時間に……奇遇ですね」
彼は少し驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな表情で私を見た。
私たちはどちらからともなく店を出て、月明かりの下を並んで歩き始めた。
お互いに少しだけお酒が入っていたせいか、あるいは夜の闇が私たちの境界線を曖昧にしていたせいか。
いつもの庭先よりも、言葉の壁がずっと低くなっているのが分かった。
「今日は気が付いたらお昼過ぎになっていました」
私がそう言うと、彼は手元の袋を少し揺らしながら、ふっと私の横顔を見た。
「……昨日、ふと思ったんですけど。高石さん、あの朝のパジャマ、かわいいですよ」
唐突に投げかけられた言葉に、私は一瞬、足が止まりそうになった。
今ここで、この外向きの格好を褒められるのならまだ分かる。
けれど彼は、私が誰にも見せるつもりのなかった――あの庭先での一番無防備な姿を思い出して言っているのだ。
東京の飲み会で浴びせられた「若くて可愛い」という、誰にでも当てはまるような記号的な褒め言葉とは、全く違う響きだった。
毛玉一つないように手入れをし、自分を整えるために選んだ、あのパジャマ。
その、他人に媚びない「素」の部分を、彼は肯定してくれたのだ。
「……ありがとうございます。あれ、お気に入りなんです」
気恥ずかしさを隠すようにそう答えると、彼は「知っています」とでも言うように優しく微笑んだ。
駅からの帰り道ならあんなに長く感じる不便なこの道も、彼と歩くこの十五分間だけは、あまりに短すぎると感じていた。
私たちは家庭の現実については一切触れなかった。
ただ、春の夜の匂いと、少し火照った顔を撫でる風の冷たさ、そして「パジャマがかわいい」という小さな秘密のようなやり取りだけを共有していた。
「じゃあ、また明日の朝に」
家の前で別れる時、彼は小さく手を挙げ、いつものガレージへと消えていった。
玄関を開け、再び静まり返った家の中に入る。けれど、パジャマを褒められたという小さな高揚感が、冷えた心をじんわりと温め続けていた。
私はすぐに洗面所に向かい、外の空気に触れた服を脱いだ。
そして、先ほど彼が「かわいい」と言ってくれた、あのパジャマに再び袖を通す。
鏡に映る自分は、確かにどこか、昨日より柔らかい表情をしていた。
明日、また庭先で彼に会うのが、どうしようもなく楽しみになっている自分がいた。
ライターを拾おうとして、はだけた胸元。「ほっとする香りがしますね」という彼の言葉が、完璧に装っていた昨日のどの言葉よりも深く染みました。




