四.五日目:残響、仮面の裏の虚無感
不意の誘いで立ち寄った、地元の飲み会。かつての仲間、そして元カレ。過去の空気の中に、今の私の居場所はもうどこにもなくて。
新幹線のホームに降り立つと、都内の熱気とは違う、どこか湿り気を帯びた地元の空気が肌にまとわりついた。
ようやく「愛里ちゃん」という仮面をゆっくりと外していける――そう思ったその時、聞き覚えのある声に背後から呼び止められた。
「――あれ、やっぱり愛里ちゃん?」
振り返ると、そこには会社の古い仲間が立っていた。
かつて私が働いていた地元の会社は数年前に都内の資本に吸収され、社員たちは都内勤務と地元勤務に分かれた。
私は今でこそリモートワークという形を選び、家で執筆や解析に励んでいるけれど、彼は今もこの街の拠点で現場を守っている一人だ。
「相変わらず若いね。これから当時のメンバーで飲んでるんだけど、少しだけ顔出さない?」
断りきれない空気のまま、私は駅近くの居酒屋へと足を向けた。
重いバッグとヒールが、早く家に帰りたがっている私の心に、少しずつ鉛のような重さを加えていく。
薄暗い座敷の扉を開けると、そこには懐かしい顔ぶれが揃っていた。
ふと視線をやると、その中に元カレの姿もあった。けれど、ドラマのような衝撃なんてどこにもない。「あぁ、いるんだ」くらいの、乾いた感想が胸を掠めただけだ。
彼と私がかつて付き合っていた事実を知っているのは、この場にいるメンバーの中でたった一人だけ。他の人たちにとっては、私たちはただの「かつての同僚」に過ぎない。
この小さな「秘密」が、居酒屋の喧騒をどこか白々しいものに変えていく。
私は自然な動作で、当時同じグループだった女の子の隣に腰を下ろした。
「愛里ちゃん、久しぶり! 会社が変わってからどう? 再婚したって聞いたよ、幸せ?」
「相変わらずだよ。会社が都内に吸収されてからは、今日みたいにたまに呼ばれるのが一番疲れちゃう」
近況報告という名のリハビリのような会話。彼女が羨ましがる「幸せな再婚」の話に、適当に相槌を打つ。
けれど、お酒が進むにつれて、私は少しずつ今の夫への本音を混ぜ込んでいった。
「幸せなんて、そんなキラキラしたもんじゃないよ。もう、家のことは全部あたし一人がやってるのが当たり前。掃除も洗濯も、名もなき家事のすべてが私の『義務』。向こうは家のことには一切、指一本触れないんだから。それだけならまだしも、こないだなんて誕生日まで忘れられてたんだよ?」
「えー、嘘でしょう?」と笑う彼女の隣で、私はどこか冷めた心地でグラスを傾けていた。
家事の負担はすべて私に。私の存在を祝う特別な日さえ、記憶に留めない。
そんな夫との暮らしは、側から見れば「スピード婚の成功例」かもしれないけれど、その実情は、砂が指の間からこぼれ落ちるような、乾いた虚しさの積み重ねだった。
ふと、二十代の頃の自分を思い出す。
そこそこ給料の良かったあの頃、私は将来への自立の証として、駅前のマンションを購入した。当時はそこが私の居場所のすべてで、この場にいる彼女や元カレとも、あの都会的な空間で繋がっていた。
けれど、三年前のスピード婚を機に、私はその万能感を捨てた。
今は、JRから地方在来線を乗り継ぎ、一番近くの駅からでも歩いて三十分はかかる辺鄙な場所にある、綺麗な中古住宅に住んでいる。
車での移動は確かに便利だけれど、今日のように電車を使う日は、その「遠さ」が自分の選択した人生の重みのようにのしかかってくる。
「そろそろ帰るね。駅から家まで、結構かかるから」
一時間ほどで席を立ち、逃げるように店を出た。
地方在来線のホームは、東京の喧騒も、居酒屋での「かつての私」を知る人たちの視線も、そして夫への不満を笑いに変えていた自分自身の声も、すべてを飲み込むように静まり返っている。
カツカツとアスファルトを叩くヒールの音が、今の私には場違いなほど鋭く、空虚に響いた。
家に着く頃には、日付が変わっているだろう。
重いヒールを脱ぎ捨てて、一刻も早く布団に入りたい。
誕生日さえ忘れる夫が眠る家。かつての恋人がいた過去。そして、「愛里ちゃん」と呼ばれ続ける外向きの自分。
それらすべてから解放されるのは、明日の朝、あの静かな庭先でコーヒーを飲む数分間だけ。
その瞬間のためだけに、私は今、冷え切った夜道を一歩ずつ家へと向かっていた。
誕生日さえ忘れる夫、家の家事をすべて背負う日常。笑い声の中で冷えていく心を抱え、私は明日の朝の、あの湯気の気配を探していました。




