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境界線 -r15-  作者: あい
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四日目:スピード婚の記憶、都会の喧騒と孤独

今日は月数回、東京へ赴く日。タイトなスカートと高いヒールで武装した私は、鏡の中に別人のような「可愛い愛里ちゃん」を見つけます。


 四日目の朝は、いつもと違っていた。

 この三日間、私の定番だったパジャマにカーディガンという日常の正装をクローゼットの奥に押し込み、私は鏡の前で入念に自分を整えていた。


 今日は月に数回の、東京へと赴く日だ。

 普段はリモートワークで画面越しにしか顔を合わせない仕事仲間や取引先と、直接対面する日。

 夜にはほぼ確実に飲み会がセットされている。集まるのは同世代から少し上の、いわゆる子育て世代が中心だ。

 自分もいよいよアラフォーと呼ばれる年齢に差し掛かり、その場に馴染みつつも、どこか凛とした大人の女性として映るようなちゃんとした格好を選ぶのは、今の私にとって必要な武装だった。


 選び抜いたタイトなスカートに、柔らかな光沢のあるブラウス。

 そして、最近ではすっかり出番の少なくなっていた、少し高めのヒール。

 都内に行くときは、何かを期待しているわけではないのに、綺麗な下着を選ぶ癖がある。新品のタイツに脚を通すと、気持ちまで整っていく気がした。指先で生地を引き上げながら、皺を伸ばすその所作が、いつの間にか小さな儀式になっている。

 最後に丁寧にグロスを乗せ、黒縁の眼鏡をかけ直すと、そこには昨日までのすっぴんでぼんやりとしていた私とは別人の、隙のない女性が立っていた。鏡の中の自分に向かって、小さく息を吐く。胸の奥のざわめきだけが、まだ追いついていない。


 自分で言うのもなんだが、私は周りから可愛い、若いと言われることが多い。

 実年齢を伝えると、たいてい驚き混じりの絶句が返ってくる。

 アラフォーという年代に足を踏み入れてはいるけれど、鏡の中にいる私は、まだどこか少女のような危うさと、大人の知性が危ういバランスで同居している――そんな自負があった。


 準備をしながら、ふと三年前のことに思いを馳せる。

 今の夫とは、バツ一からの超スピード婚だった。意気投合してからの展開は、自分でも制御できないほどの速さで、勢いに任せて新しい生活の扉をこじ開けたあの頃の自分。

 その決断の結果として今の穏やかな暮らしがあることを、私は静かな部屋の中で、どこか遠い出来事のように振り返っていた。


 バッグを手に外へ出ると、春の朝風がヒールの隙間から入り込み、肌をかすめる。都会の匂いを先に纏ったような気がして、背筋が自然と伸びた。

 今日は、斎藤さんに会えるだろうか。

 こんなふうに完璧に装い、都会の空気を纏おうとしている私を見たら、彼はどんな顔をするだろう。

 いつもと全然違いますねなんて、驚き混じりの言葉を期待する、少女のような小さな虚栄心が胸の片隅に灯っていた。


 けれど、ガレージのシャッターは今日も冷たく閉ざされていた。

 斎藤さんの車は、そこにはない。どうやら、彼もまた私より一歩早く、自分の主戦場へと向かってしまったようだった。


 「……そっか、今日もいないんだ」


 せっかく綺麗にした姿を、彼に見せることもできずに東京の喧騒へと飲み込まれなければならない不条理に、少しだけ口角が下がった。


 東京の夜、居酒屋の座席は案の定、子育ての話題で埋め尽くされていた。

 受験が、塾が、反抗期が……。

 次々と飛び交う親としての苦労話や喜び。子供がいない私は、その輪の端っこで、ただひたすらに笑顔を振りまく。グラスを持つ手元に視線を落とし、相槌のタイミングだけを慎重に測る。


 「愛里ちゃんは、いつも若くて可愛くていいよね」


 周りからはそう言われ、マスコットのように扱われる。その場を和ませるための可愛い愛里ちゃんという役割を完璧に演じながら、私は心の中で大変そうだなと、どこか異国の出来事を眺めるような、冷めた目で彼らを眺めていた。笑っているのに、どこか置き去りにされる感覚が残る。


 この容姿のせいか、私が喫煙者であるという事事実、知る人をかなり驚かせることがある。

 清楚な愛里ちゃんと、指先に挟まれたタバコの煙。そのギャップに困惑する周囲の顔を、私はこれまで何度も見てきた。

 実はタバコを本格的に吸い始めたのは三十を過ぎてからなのだけれど、そんな私の個人的な履歴など、この喧騒の中では誰も知らない。


 比較的、お酒は強い方だ。周りが赤ら顔で気炎を吐く中、私は淡々とグラスを空けていく。酔うより先に、肌の内側が乾いていくような感じがする。

 けれど、いくら飲んでも酔いが回るより先に、心の輪郭が強張っていく感覚があった。

 自分の選択した人生に後悔はないはずなのに、この、共通言語を持たない孤独感が、じわじわと体温を奪っていく。


 帰りの新幹線、窓に映る眼鏡越しの自分の顔は、朝よりもずっと疲れて見えた。グロスの艶が落ちて、目元だけが妙に冴えている。

 ちゃんとした格好で武装し、愛里ちゃんという役割に徹して他人の人生に笑顔で同調し続けた代償は、思ったよりも重い。

 どっと押し寄せる疲労感の中で、私はふと、あの静かな庭先の空気を思い出した。あの場所では、誰かに合わせた笑い方を考えなくていい。


 パジャマ姿のままで、誰からも若さや役割を品定めされない、あの場所。

 ただコーヒーの香りとタバコの煙を共有するだけの、あの数分間。

 私が喫煙者であることを誰よりも自然に受け入れている、あの背中。


 妻でも、社会人でもない、何の役割も背負わなくていいあの場所が、今の私にはひどく恋しく感じられた。

 明日はいるかな……。

 そんな予感を唯一の糧に、私は夜の闇を突き進む列車に身を委ねていた。

居酒屋の喧騒、共通言語のない孤独。役割を演じ続ける疲れの中で、あの静かな庭先の空気が、そして彼の背中が、ひどく恋しくなりました。


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