三日目:静かな不在、期待への自覚
「昨日は下着さえ着けていなかった……」一人になると、昨日の自分の無防備さが急激に恥ずかしくなります。けれど、今朝の彼はいなくて。
三日目の朝、私は目覚まし時計の電子音が鳴り響くよりも少しだけ早く、自然と目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光が、まだ寝ぼけた頭をゆっくりと起こしてくれる。枕元で携帯を確認しても、急ぎの連絡は入っていない。通知がないことに、なぜかほっとしてしまう。
この、世界が本格的に動き出す前の数分間が、今の私にとって一番静かで、自分らしくいられる時間だった。静けさの中に、微かな期待だけが小さく息をしている。
ふと、昨日の朝のことが頭をよぎる。
「コーヒー、お好きなんですか?」
斎藤さんに投げかけられた、初めてのまともな質問。
スーツの袖口から覗く腕時計と、車に乗り込む直前に彼が見せた、あの穏やかな微笑み。
ただの隣人同士の、数分間にも満たないやり取り。
それなのに、思い出すたびに喉の奥が少しだけ熱くなり、心臓の鼓動がわずかにリズムを早めるのを感じていた。
今朝は時間に余裕があった。けれど、やっぱり着替える気にはなれなかった。いつものように、肌触りの良いお気に入りのパジャマに、薄手のカーディガンを羽織る。
ただ、昨日と一昨日の胸元のことが、どうしても頭から離れない。少しだけ気持ちを落ち着かせたくて、パジャマの下に薄いTシャツを重ねた。たったそれだけのことで、息が少し楽になる気がした。
布が一枚増えるだけで、心までほんの少し厚くなる。そういう自分の単純さが、少しだけ可笑しい。
最近はリモートワークがすっかり板についてきて、朝の通勤ラッシュに追い立てられることも、満員電車に揺られることもなくなった。おかげで、一日の大半をこのパジャマ姿で過ごすことも珍しくないし、朝から気合を入れてお化粧をする必要もなくなっている。
すっぴんを他人に見られるのは、女性として少し恥ずかしい気もする。けれど、わざわざ着替えて自分を整えるのは、なんだか彼に会う準備をしているようで、かえって自意識過剰な気がした。
家の庭先くらい、そのままの自分でいたい。そんな、どこか気の抜けた開き直りのようなものがあった。
キッチンに立ち、丁寧に豆を挽く。ポタポタと落ちる滴を聴きながら、ゆっくりとお湯を注ぐ。
誰のためでもなく、自分自身のために時間をかけるこのいそがない朝が、今の私のささやかな贅沢だ。
湯気が立ち上がるたびに、昨日の視線の温度と、今日の不在の温度が、交互に胸の内で入れ替わっていく。
カップから立ち上る香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がると、自然と意識は隣のガレージへと向いた。
(今日は、まだいらっしゃるかな……)
(いないなら、いないでいい。……でも、いたらどうしよう)
そんなことをぼんやりと考えながら、私はマグカップを手に裏庭へと出た。
けれど、期待に反して隣の家はしんと静まり返っていた。
ガレージのシャッターは固く閉ざされ、彼の愛車はもうそこにはない。どうやら、今日は私よりもずっと早くに出勤してしまったようだった。
「……そっか、今日はもういないんだ」
おはようございますもまたも、今日はここに落ちていない。私の声だけが、薄い空気に吸い込まれていく。
寂しい、という言葉を使ってしまうのは少し大げさで、でも何も感じていないふりをするのも嘘になる。ちょうどその間に、私は立っていた。
小さく独り言を漏らして、私はいつもの定位置で火を点けた。
一人きりの庭に、白煙が静かに漂う。昨日、彼がここに立っていたときはあんなに短く感じた時間が、今日はひどく長く、そして静かに感じられた。
彼がいないと分かった途端、昨日パジャマ姿で、しかも下着さえ着けずに彼の前に立っていた自分の滑稽さが、急に鮮明な記憶となって蘇ってきた。
一度そう思ってしまうと、昨日感じていたはずの羞恥心が急激に熱を帯び、顔が火照る。薄いTシャツの下で、胸の鼓動が少しうるさい。
けれど……。あの無防備な姿だったからこそ、私たちの間には、挨拶以上の自然な会話が滑り込んだのかもしれない。
もし今日会えていたら、私はちゃんとおはようございますに、もう少しだけ意味を込められただろうか。そう考えると、胸の奥が小さく鳴った。
あんな姿を見られて、むしろ良かったのかも――。
そう思うと、少しだけ可笑しく、そして心が軽くなった。否定しきれない感情が、朝の空気に溶けていく。
一人で飲む今朝のコーヒーを啜りながら、私は空を見上げた。
(次に会ったら、何を話そうかな)
コーヒー、美味しかったですよって言ってみようか。それとも、彼が吸っていたタバコの銘柄を、さりげなく聞いてみようか。
今日は早いんですねと言う代わりに、今日は寒いですねと言うのも悪くない。そんな小さな言葉の候補が、頭の中で静かに並んでいく。
返事のトーンまで想像してしまうのは、やりすぎだと分かっている。けれど、想像の中でだけなら、どんな会話も許される気がした。
そんなことを考えながら家に入ると、そこにはいつも通りの日常が待っていた。
けれど、キッチンで片付けをしている間も、私の意識はどこか遠い場所――フェンス越しの、あのわずかな空間に残っているような気がした。
明日、かな。
そんなふうに、次回の偶然を少しだけ楽しみに思っている自分に気づきながら、私はリモートワークの準備を始めた。
彼がいない静かな庭で、期待している自分を自覚してしまいました。次、彼に会ったら何を話そう。そんな想像が、日常を少しだけ変えていきます。




