二十五日目(夜):偽りの境界
夫の帰宅。食卓を囲む日常、交わされる会話。けれど私の内側には、まだ彼が残した fever ish(熱)が、波打つように居座っていました。
二十二時。
震える指先でスマホを握りしめ、私は突きつけられた現実にめまいを覚えた。
「……たかしさん、大変。……あと一時間。夫が帰ってきちゃう」
私の焦燥が伝わったのか、たかしさんも即座に衣服を整え始めた。さっきまでの蕩けるような情欲は一瞬で冷え、代わりに喉を焼くような緊張感が部屋を支配する。私たちは言葉少なに、けれど必死に「証拠」を消し去る作業に取り掛かった。
私たちの密やかな時間が刻印されたベッド。私は乱れたシーツを剥ぎ取り、一階の洗濯機へと放り込んだ。深夜の洗濯は不自然かもしれないけれど、言い訳ならいくらでも用意できる。
リビングのソファは、彼と情熱的な時間を共有し始めた場所だ。そこに落ちていたかもしれない彼の残り香を消すために、私は窓を全開にして夜の冷気を引き込み、お気に入りのお香を焚いた。重く立ち込めていた情欲の匂いが、白檀の清廉な香りと冷たい風によって、少しずつ確実に塗り替えられていく。
「……あいちゃん。また、連絡する」
二十二時四十分。たかしさんは名残惜しさを飲み込むように私の額に一度だけキスをすると、夜の闇に紛れるようにして去っていった。テーブルに残された二つのワイングラス。お互いの吐息とワインが混じり合ったそれは、あえて片付けずに放置した。
私は猛烈な勢いでシャワーを浴び、身体に残る「彼」の気配を無理やり洗い流した。いつもの、色気も何もないパジャマに袖を通す。それは私を「不実な女」から「従順な妻」へと変身させるための、重い衣装のようでもあった。
二十三時。玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー……。ふぅ、疲れたな」
お酒の匂いを纏い、夫が入ってきた。
「おかえり。遅かったね、お疲れ様」
私は無理に作った笑顔で彼を迎えた。普段の彼は、私の変化に全くの無関心だった。それが私たちの冷え切った夫婦関係の形だったはずなのに。
今夜の彼は、靴を脱ぎながら不意に私の顔を覗き込んできた。
「……ん? 風邪でも引いたか?」
「えっ……?」
心臓が飛び出しそうだった。
「いや、なんか……顔色がいつもと違うっていうか。……妙に、赤いぞ」
背中を嫌な汗が伝う。たかしさんに翻弄され、激しく求め合った身体は、シャワーを浴びてもなお、その内側にある熱量を手放していなかったのだ。
「……あ、あはは、お風呂上がりだからかな。……ちょっと長湯しすぎたのかも」
私は努めて明るく答え、彼の視線を逸らそうと、差し出された土産話に食いついた。
「それより、お土産! 珍しいね、買ってきてくれるなんて」
夫はリビングのソファに腰掛け、やけに饒舌に出張中のエピソードを語り始めた。土産、そして普段は口にしない長話。その一つ一つが、私の罪を暴こうとしているのか、あるいは彼自身が何かを隠そうとしているのか。
(……本当に、出張だったの……?)
私の中に、一瞬にして逆転した疑惑が芽生えた。お香の香りに満ちた部屋で、私は自分の罪を棚に上げ、夫の笑顔の裏側を探り始めていた。
秘密を抱えた者同士。日常という名の壊れやすい舞台の上で、私たちは互いの顔を伺いながら、偽りの一歩を踏み出していた。
二十三時十五分。身体の奥底に彼の名残がまだ熱く留まっている感覚を抱えたまま、私は彼が語る不自然な話に、相槌を打ち続けた。
「おかえり」そう告げる私の唇は、まだ彼の味を知っている。平和な日常という水面下で、巨大な秘密の残響が、静かに、けれど確実に響き続けています。




