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境界線 -r15-  作者: あい
境界線

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14/24

十五日目:琥珀色の沈黙

土曜日の朝。彼の車の助手席に座る違和感。名前で呼び合うたびに、車内の空気は共犯めいた甘さを帯び、私たちは山間の閉ざされた扉へと向かいます。


境界線を越えるドライブ、閉ざされた扉の向こう側。

湯気に溶けるあいちゃんの仮面と、剥き出しになる本体の熱。


境界へ向かう道すがら


土曜日の朝、十時。


斎藤さんの車の助手席に座る景色の違和感に、私はまだ少し戸惑っていた。

いつもはフェンス越し、あるいは夜の庭先という生活の裏側でしか会わなかった私たちが、

今は白昼堂々、一つの密室の中にいる。

シートベルトの感触がいつもより硬く感じるのは、ただの錯覚ではない。

運転席にいる彼の手の動き、指の節、ハンドルを握る姿勢が、妙に目に入ってしまう。


「……意外と、近いんですね」


「ええ。山を一つ越えるだけですから。……あいちゃん、よく眠れましたか?」


ハンドルを握る彼が、自然にそう呼んでくれたことが、私の胸を小さな温かさで満たした。

昨日の今日で、まだあいちゃんと呼ばれることにこそばゆさはあるけれど、

それは東京で消費される記号としての響きではない。

彼だけの、慈しみに満ちた音だ。


「はい、ぐっすりと」


少しの沈黙の後、彼が小さく息を吐いた。


「……昨日は、ごめんなさい」


信号待ちで車が止まる。

前を向いたまま、彼は続けた。


「あんなふうに、抑えきれなくて」


「……ちょっと恥ずかしかったけど、うれしかったですよ」


私の言葉に、彼の手がハンドルを強く握った。

横顔が、少しだけ赤く染まる。


「……また、してもいいですか?」


その問いかけに、心臓が大きく跳ねた。

信号が青に変わり、車がゆっくりと動き出す。


「……どうでしょう?」


意地悪く、少しだけ焦らすように答えた。

彼の耳まで真っ赤になるのが見えて、私は思わず笑いそうになった。


「……あの、いまさらなんですけど」


「はい?」


「斎藤さんの下の名前、まだ聞いてないなって」


私がそう言うと、彼はあ、そうでしたねと少し照れくさそうに笑った。


「たかし、です。……平凡な名前ですけど」


「たかしさん……。ふふ、覚えました」


たかしさん。

心の中で反芻する。

名前を呼び合うだけで、車内の密室感は昨日とは比べ物にならないほど濃密な、

共犯めいた甘さを帯び始めていた。


清楚な受付と、家族風呂の規律


たどり着いたのは、木立の中にひっそりと佇む隠れ家のような温泉宿だった。

こじんまりとした旅館といった風情なのに、

足を踏み入れたフロントは、意外なほどモダンで洗練されていた。

靴音がやけに柔らかく吸い込まれていく。


「いらっしゃいませ。ご予約の斎藤様ですね」


迎えてくれたのは、まるで高級ホテルのコンシェルジュのような、清楚で凛とした女性だった。

私たちの関係を詮索するような視線は一切なく、

ただ淡々と、しかし丁寧な所作で手続きを進めていく。


「こちらが家族風呂のご利用案内になります。お時間は二時間制となっております。終了の十分前にお電話でお知らせいたしますが、延長はできませんのでご了承ください」


家族風呂という響きに、少しだけ心臓が跳ねる。

私たちは家族ではない。

けれど、この二時間だけは、世間から夫婦あるいは親密なパートナーとして扱われる場所なのだ。

言葉の効力が、現実の輪郭を薄く変えていく。


緊張と、可愛らしさと


案内された離れへ向かう。

引き戸を開けると、そこには旅館の一室をそのまま切り取ったような、

落ち着いた休息スペースが広がっていた。

小さなテーブルが一つ。

その向こうの窓の外には、専用の喫煙スペースも設けられている。

トイレは共用だが、この空間自体がほぼ独立した隠れ家のようだ。

畳の匂いが淡く立ち上がり、時間が少しだけゆっくりになる。


「……なんか、緊張しますね」


荷物を置きながら、たかしさんがぽつりと漏らした。

その横顔は、本当に少年のように強張っている。

昨夜、私の家にあれだけの熱量で踏み込んできた人と同じとは思えない。


(正直、ここまで来て? ふふ、可愛い)


私はクスッと笑いそうになるのを堪え、努めて日常の延長のように振る舞った。


琥珀色の湯、浮かぶ林檎


「じゃあ、……準備しましょうか」


浴室への扉を開けると、そこには想像以上の光景が広がっていた。

内湯の湯船には、赤々とした林檎がいくつもぷかぷかと浮いている。

ほのかに甘酸っぱい香りと、硫黄の香りが混じり合う。

そして、それに続く露天風呂の向こうには、

視界を遮るもののない山間の緑と、眼下を流れる川のせせらぎが一望できた。


こんな絶景を、二人だけで。


脱衣所で、たかしさんはやはり視線のやり場に困ったようにそわそわしていた。

私は今朝シャワーを浴びてきたし、メイクもリップだけ。

隠すものなんてない。

私は眼鏡を外さない。

裸眼では何も見えないからというのもあるけれど、

この知的な武装を外した時の曇った視界を、まだ彼に見せるのが惜しいような気もしたからだ。


そそくさと服を脱ぎ、私はバスタオルを持たずに浴室へ入った。

二時間だけの、秘密の家族風呂。

ここなら、誰の目も気にする必要はない。


かけ湯をして、林檎が浮く内湯へと足を沈める。

じわりと熱いお湯が、昨夜の昂りで強張った体をほぐしていく。


少しの間、内湯を楽しんだ後、私は開け放たれた引き戸から外へ出た。

岩造りの露天風呂は、思ったよりも広々としている。

お湯に肩まで浸かり、私はぼんやりと空を眺めた。


「……遅いな」


たかしさんがまだ来ない。

男性の方が準備は早いはずなのに。

何かあったのだろうか。


「……あ」


その時、引き戸が開く気配がした。


「……お待たせしました」


湯気と曇ったレンズの向こうで、彼がこちらへ近づいてくる。

お湯の揺らぎが、私の場所まで届く。


「……どうしたの? 随分遅かったけど」


「すみません。ちょっとトイレに行って、心を落ち着かせていて……」


彼は少し照れくさそうに頭をかいた。


「それで、内湯の様子を見たら誰もいなかったから、こっちかなって」


「誰もいないなんてこと、あるわけないじゃない」


「いや、林檎に隠れてるのかなとか……」


言い訳が子供みたいで、私は思わずクスッと笑ってしまった。

彼は少し離れた岩場に背中を預け、ほっとしたように息を吐いた。


「……それにしても」


彼は少しだけ距離を置いて、琥珀色のお湯に浸かっている。

その距離は、彼が抱える緊張と大切にしたいという想いの表れだと痛み入るほど分かったけれど、

私はそのもどかしさを、少しだけ意地悪な言葉に変えて、湯気の中に放り投げた。


「……どうして、そんなに遠く?」


私は曇った眼鏡の奥から、その遠い輪郭を見つめて言った。


琥珀色のお湯に浮かぶ二つの身体。

その距離は、彼が抱える緊張と大切にしたいという想いの表れだと痛み入るほど分かったけれど、

私はそのもどかしさを、少しだけ意地悪な言葉に変えて、湯気の中に放り投げた。


到着した貸切温泉。琥珀色のお湯に浮かぶ林檎の香りに包まれて、私は彼との距離を測るように、意地悪な言葉を湯気の中に投げかけました。


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